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『この道を 3』


 夜の闇を切り裂く様に一台の白い車が疾走していく。

 見事なドリフトで下っていくその車を何人もの人間が目を、心を奪われてただ見送った。

 余りにも綺麗で。速くて。凄くて。

「すげーよなぁー…」

 溜息混じりに、遠ざかる後ろ姿を見送ってから、潜めていた息をほうっと吐き出して体を弛緩させる。知らぬ間に緊張していたようだった。

 誰もが惚れ惚れするそのドライビングテクニックを持ったドライバーが誰なのか実際は誰も知らない。

 車の車種からそうだろう、と噂されているに過ぎない。

 その白い車の中で、熱に浮かされた様な気分で涼介は赤城の峠をせめていた。

 今日はテレビでレースを見た。それは拓海が参戦しているレースで、尚かつ偶然にも拓海が初優勝したレースとなった。

 それをリアルタイムではないけれど、見る事ができて良かったとも思う。

 そして血が騒いだ。

 懐かしい感覚。

 グズグズと思い悩む不甲斐ない自分を振りきる様に峠を攻めて、猛スピードで下っていく。

 一瞬の僅かなミスが死に繋がるダウンヒル。

 飛ぶ様に消えていく窓の外の景色。

 ウジウジと腐りかけているかの様な自分が消えて無くなるかの様な感覚が今の涼介には気持ちが良かった。

 今では峠をかっ飛ばす涼介にバトルを申し込む奴は居ない。高橋涼介だと噂され初めてから確認しようと近づく者達は多かったが、申し込みをしたりはしてこなかった。

 涼介自身、引退した人間だ。確かに現在夜の峠を走ってはいるが、現役のつもりで走っている訳ではない。それを周囲の奴らが気付いているかどうかではなく、今でもこの赤城の最速タイムレコード保持者である高橋涼介にバトルを申し込もうとする奴は居ないからに他ならない。

 だと言うのに、今夜は違ったらしい。背後から近づいてきた車が合図を送ってくる。それは涼介にとって懐かしい合図だった。なぜならば、かつて仲間内のRedSunsの中で使っていた合図だからだ。

 仲間内のちょっとしたバトルにも似た競争は日常茶飯事だ。その度に相手を煽る様な行動や車を降りて、一緒に走ろうとか一緒にタイムを競おうとかそんな事を言っていたらきりがない。合理的じゃない。ならば、と涼介が仲間内なら走りながらでも相手にその意志を伝える事の出来る様にと考えた合図だった。

 RedSuns解散後、数年経た今ではその合図を知っている人間がどれ程この峠に居るのかと言えば、殆ど皆無だろう。

 見間違いか、と思ったけれど繰り返される合図は間違いようがない。

「一体誰だ?」

 気になって背後の車をバックミラーから睨み付ける様に観察すれば。コーナーで見事な涼介のドリフトに合わせて来た車が斜め横に見えた。

「白黒のパンダトレノ…ハチロク…か?!」

 一瞬、目を見開いた。

 後ろを走っている車のナンバーが見える訳ではない。秋名のハチロクであるかどうかなど分からない。

 ただ。

 RedSunsにはハチロク乗りは居なかった。合図を知っているハチロクと言えば…Dに参戦していた藤原拓海ただ一人しかいなかった。





「あの…済みません」

「ん?どうしたんだ?」

 本日のプラクティスの結果を見ていた涼介に申し訳なさそうに声を掛けてきたのは藤原拓海だった。相も変わらずDのメンバーでも慣れていないらしく、何かあれば緊張感しながらも涼介に話しかけてくる。

「聞きたい事があるんですけど」

「ああ、なんだ?」

 話をしっかりと聞く為に拓海の方を向く。

「あ、あの…時たま走っている時に前の車とか、後ろの車とかで…合図…していたりしますよね。その…RedSunsの…車…なんですけど」

「ああ…あれか。あれは仲間内での『一緒に走ろう』とか『タイム競おう』とかの合図なんだ。問答無用で仕掛けても良いんだが、仲間内でそんな事をしても意味無いしな。一応大したことじゃないんだが決めてみたら結構みんな良く使っている様だ」

「そう…なんですか…」

 そう言って、峠を走り抜けていく数台の車を拓海の眼差しが追い掛けた。

「なんだ。誰かにその合図…されたか?」

「え?やっ…そんな事は…無いんですけど……。この間啓介さんがその合図を受けて居たんで…何かな、って…少し気になって……」

 Dのメンバーとしてこの赤城を走る様になった拓海はRedSunsのメンバーとも一緒に走っている。とは言え、RedSunsのメンバーにしてみれば、拓海は紹介された訳でもないし、メンバーの一員でもないから、どんなに話しかけたかったり、一緒に走りたかったりしても、そんな意思表示は殆どしていなかった。だからこそ逆に拓海としては余所者としての疎外感を持ち続けていたとも言える。

「そうだな…今度RedSunsのやつらとDで交流会…でもするか」

「え?そんな…俺の…為に…」

 驚く拓海に涼介はフッと笑った。

 元々Dのメンバーは殆どがRedSunsのメンバーに他ならない。交流会など今更と言えば今更なのだが、改めて拓海を紹介する場をこの峠に持つのは悪い事じゃないだろう。

 話しかけたくてウズウズしているメンバーがゴロゴロしているのだ。ただ、人見知りをするかの様な拓海に涼介がストップを掛けていただけなのだ。解除してやれば煩い程拓海の周囲に人は集まってくるだろう。それはそれでやっぱり拓海には面倒な話だろうから、微妙な加減が必要だろうが。

「お前の為でもあるが、RedSunsメンバーの為でもあるんだ。だから気にするな。その時に、みんなから色んな事を教えて貰え」

「は…はぁ…」

 なんだか納得いかない…と言う風情の拓海に微笑みかけた。

 結局その後、素っ気ない拓海の態度にもめげずにある程度のRedSunsのメンバーは拓海とそこそこにうち解ける事に成功したようだった。

 涼介が心配する程拓海はヤワではなかったようだ。





 過去を思い出しつつもまさか、と思うがそれしか考えられない。

 驚く反面、信じられない程気持ちが高揚してくる。

 相手が藤原拓海だというのなら、もう既に相手はプロで活躍する実力の持ち主で。

 このホームコースの赤城であっても相手に不足はなく。

 それ以上に、拓海の洗練されたであろう走りを間近に見れる事に興奮してしまう。

 最早、自分など相手にはならないだろう。

 それでも。

 懐かしい合図で。

 懐かしい車で。

 懐かしい相手と。

 走る事が出来る歓びが大きかった。

 相手の合図に答えて、一旦駐車場を目指し、スタートラインへと車を移動させる。

 仕切る人間などは居ない。これから略式ながら、バトルをするのだと言う事を知っている人間も居ない。

 FCとハチロクが横並びになり。

 まるで数年前の風景そのままに。

 鋭い音をあげて二台の車が全力疾走に入った。

 周囲の一体なんだ、と言う騒ぎも彼らにはどうでもいい事だった。

 コーナーで対向車が来ている事を知らせてくれるメンバー達も今は居ない。純粋な公道のバトル。

 涼介は拓海の今の全てを分析してやるとばかりに今回もハチロクの後ろを取った。

「全く…見事なものだ」

 苦笑を禁じ得ない。

 自分自身、最近までこの峠を走っていなかった。それでもホームコースに違いはなく、慣れた道であり、かつての感覚も殆ど取り戻していた。でも、拓海にとっては第二のホームコース同然であったとしても涼介程慣れ親しんだ道ではない。ここは秋名ではなく、あくまでも赤城なのだから。

 だと言うのに、数年ぶりと言うブランクを一切感じさせないこの走りは一体どうだろう。

 大胆で豪快。なのに繊細で美しいまでのラインに完璧なまでのタイミングで駆け抜けるハチロク。

 ゾクゾクと鳥肌が立つ。

 変わらない。

 本当に藤原拓海、彼の走りは変わっていない。勿論上達し、より一層シャープで完成されたものへと変貌を遂げているが、その切れた走りっぷりは健在で。

 懐かしくもある。

 激しく高鳴る鼓動に胸震わせる程の感動がそこにあった。





 ゴールした後、かつて秋名で勝負をした時同様二人で車を止めた。

 だが、一旦車を止めたものの、ハチロクが後を付いてこいと合図を送ってきて涼介は後を付いていく事にした。

 流石に今の二人の全開走行に興奮も露わな峠でゆっくりと話をする場所はなかったからだ。

 ゆったりと交通規則を守った走り。それでも十分どれ程のテクニックを持っているのかを周囲に知らしめる程安定した走りを二台はしていた。

 そのまま秋名湖へと到着したハチロクは車を止めた。

 涼介も車を降りれば、懐かしい、間違いようもない藤原拓海が昔そのままに駆け寄ってきて、自然と笑みが浮かんだ。

「あの…俺今日帰って来たんですけど、ハチロクで秋名に行った後、涼介さんに会いに行くつもりだったんです。でも、突然訪ねても邪魔かなとか、忙しいんだろうなとか、色々思って。そしたら赤城を走りたくなって。まさか、赤城で涼介さんに会えるなんて思っていなかったから。すっげー嬉しくて。だからその…バトルなんて仕掛けちゃって…済みませんでしたっ!その上こんな所まで連れて来ちゃって…」

「いや。楽しかったぜ。久しぶりだな、藤原」

「あ、は、はい。お久しぶり、です」

 興奮気味の拓海は顔を赤らめてしどろもどろ。

 やっぱり変わっていない。

 湖の方へと足を向ければ後ろから拓海が付いてくる。そして二人で月を湖面に浮かべた美しくも、昼間とは違った少し寂しげな秋名湖を臨む。

「元気そうだな。お前からの連絡が一切なかったからな。啓介からの話や、雑誌とかで近況はある程度分かっていたが、少し心配だったんだ」

「あ…済みません…その…連絡、しなくて…俺……」

 拓海が口篭もったのを涼介は黙って待った。拓海が饒舌でない事くらい知っている。

 そして拓海がなんで連絡をしなかったのかも、なんでここに来たのかも涼介は知っていた。丁度昼間テレビで見てしまったのだから。

「俺。プロになって優勝するまでは涼介さんと会わないってその…願掛け…みたいなもの…してて。いや、それの何処が願掛けになるのかって言われると困るんですけど…。それでこの間勝てたから。やっと涼介さんに会いに来れるって思って」

「…ああ…知ってる。テレビ見てたからな。優勝おめでとう、藤原」

 微笑んで答えれば、一瞬キョトンとした拓海があのレポーターとの会話を聞かれたのかと、次の瞬間頬を染めて固まってしまった。

「プッ…本当に変わってないな、お前」

 そんな拓海に口元が笑ってしまう。

 暫くして知っているなら話が早いとばかりに開き直った拓海が口を開いた。

「…ありがとう…ございました……俺、涼介さんのお陰でここまで来る事が出来ました。俺の中では今でも涼介さんが色々な事を教えてくれます」

「お前に感謝されるようなことは俺は何もしちゃいない。お前がプロの世界で成功したのはお前の努力と才能に他ならない。俺はほんの少し車の知識等を教えただけだ」

 すれば拓海は首を振った。

 相変わらず謙虚で頑固な様だ。

「俺は中学から無理矢理仕事の手伝いで車の運転をしていて、楽しいなんて思ったことなくて。でも、涼介さんや啓介さんと出会って。何回かバトルをして。車が楽しいって初めて思えて。プロジェクトDに誘って貰えて、新しい世界、広い世界を教えて貰って。俺は何時か世界で一番速くなりたいんだって強く思う様になりました。これは…涼介さんに出会わなければ絶対無かった事です。涼介さんの『広い世界へ』と言う言葉が無ければ今の俺は居ませんでした」

 一旦言葉を途切らせた拓海だったが、涼介は特に口を差し挟む事はしなかった。

 静かな風が吹き、誰もいない湖面に微かな波を生み出す。

 まるで拓海の言葉に揺れる自分の心の様だった。

「プロになって。頼れる人なんて…そりゃー同じチームの人達とかいるけど、やっぱり自分一人で頑張らなくちゃって言うのがあって。辛かったですけど…その…ふっとした時に涼介さんの声が聞こえるんです」

「俺の?」

「はい。行き詰まっていると不思議と何時も答えのヒントをくれるんですよ。その一つ一つはDで一緒に居た時の涼介さんの言葉で。あの一年がなかったら絶対俺はここまで来れなかった、です」

「お前の言葉は嬉しいが…俺が居なくても何時かお前は今の所まで駆け上がったさ」

「そうかも知れないけど…でも、分からないです、俺」

「藤原?」

 問いかければ真っ直ぐに涼介を見つめる拓海がいた。珍しく顔を赤らめていない真剣そのものの表情。

「多分…なんですけど…。涼介さんに出会って車の楽しさとか難しさとか色々教えて貰わなかったならプロになれなかっただろうって…。プロになろうとしたとしてもきっと途中で諦めちゃったんじゃないかって…俺……」

 拓海の射抜く程の真剣な眼差し。

 そこには嘘も欺瞞も偽善もない。ただ真実だけがある。

「上手く言えないんですけど…今も運送会社で働いているんじゃないかって思うんです。いや、運送会社にすら勤めてないかも。車…本当に最初好きじゃなかったから……」

 そんな事を言う拓海を涼介は驚きと共に見つめ続けた。

「なんか…すっごく恥ずかしいし、馬鹿じゃねーのって笑われそうですけど…俺に翼をくれたのは涼介さんで、俺の翼は涼介さん自身だったんじゃないかって…思えて……」

 段々と小さくなっていく声に比例して拓海は俯いてしまった。

「そのせいで…涼介さん自身が飛べなくなった様な…そんな気がして…俺…」

「それは違うぜ」

 拓海の言葉に驚きつつも涼介は首を振った。

 それだけは断じてなかったから。

 拓海の天性の才能に憧れもしたし、羨んだりした事もある。だが、医者となる道を選んだのは拓海のせいではあり得ない。出会う前からそう決めていたのだから。

 ただ、余りにも眩しい程に弟と目の前の青年が輝いていたから。今、輝いているから、自分もそうでありたかった、いや、そうありたいと思ってしまうのだ。

「俺は俺自身の意志で医者になったんだからな。でも……お前にそう言って貰えると本当に嬉しいぜ」

「だ、だって…本当の、事だし…涼介さんが色々教えてくれたからで……」

「ああ、才能ある奴を見つけて育てるのは面白いな」

 そんな事を呟いたのは涼介の本音。それを拓海がどう思ったのかは分からない。だけど、面白そうに微笑んだ拓海は変な事を言った。

「高橋塾、ですね」

「高橋…塾?」

「ほら。あの東堂塾みたいな…」

「ああ…成る程」

 ”塾長”は会社の社長で。別にレーサーでも何でもない。だが、自分の知識などを才能溢れる若者に分け与える事に歓びを見いだしている。

「俺も啓介さんも涼介さんに育てられたんだし。高橋塾の卒業生、みたいな感じ、かなって」

 そんな事を言って拓海は髪をポリポリと掻いた。

「…俺何言ってるんだろ」

 自分で口にしておいてなんだが、恥ずかしくなってきたらしい。拓海は「うわっ…マジすっげー恥ずかしー…」そんな事をブツブツと呟いて照れている。

「そうだな。お前らの後輩でも…作るか…」

 そんな事を口にすれば拓海が目を見開いて顔を上げた。

 その眼差しが本気ですか?と問いかけてくる。

 涼介は敢えてそれには答えずフッと口元に笑みを浮かべただけだった。

 お互いに何を考えているのか分からない沈黙が続いて。

 きっと拓海はそんな相手を推し量るのが面倒になったのだろう。彼は結構ものぐさだ。

「あの…啓介さんにこの間電話で言われました。そこまで俺もすぐ行くから待ってろよって。必ず勝ってみせるからな、って」

「あいつも変わらないな」

「でも、啓介さんだって他のレースで優勝とかしてるのに」

「まぁ、レースの種類にもよるからな」

 クックックと相変わらず欲のないと言うか、世間ズレしているかの様な拓海の言葉に涼介は肩を揺らした。

「はぁ…そう言うもんですか?」

「そう言うもんだ」

「俺…またここに来ます」

 突然の言葉に涼介は首を傾げた。

「藤原?」

「前に親父に言われた事があるんです。外に出ると自分のホームコースの大切さが身に染みるんだって」

「ああ…」

「俺にとってこの秋名はホームコースです。そして赤城も。親父と涼介さんが居るこの場所は、俺が還る場所なんだって。大切な場所なんだって。あちこち行って痛感しましたよ」

「そうか」

「だから…えっと…涼介さん、携帯とか番号変わってませんよね?」

「携帯はそのままだが、家は出たからそっちは違うがな」

「え?そうなんですか。その…教えて貰ってもいいですか?」

「ああ、構わないぜ。ただ、家には滅多にいないけどな」

「いいです、それでも」

「そうか」

 家の番号を紙にメモしてサッと拓海に渡す。

「有り難うございます」

「相変わらず携帯は上手く使えないのか?」

「うっ…」

「ははは」

 やっぱりメモで渡して正解だったと涼介は思った。

「りょ、涼介さんこそ今どうなんですか?」

 その後、切り返す様に拓海が珍しく涼介の事を聞いてきた。

 聞かれるままに涼介は今の自分を語った。ありのままの自分を、だ。飾る事も隠す事もしたくなかった。

 医者としての忙しい日々。だが、医者としての虚しい日々。何もかも。

「こんな事を話したのはお前が初めてだ」

「え?そうなんですか?」

 意外そうに驚かれてこっちが苦笑せずには居られない。

「情けないだろ?」

「そんな事無いと思うんですけど」

 心底、拓海はそう思っているらしい。

 涼介の語った心の底に鎮めてきた屈託。燻り続けるわだかまり。悩みグズグズとしている不甲斐なさ。

「だって、誰だってそんなもんだろうと思うし。って言うか…」

「?」

「俺……何かあった時…涼介さんならどうするだろうとか考えたりして。でも、その度に涼介さん今頃どうしているかな、とか思って。きっと忙しいんだろうな、とか。眠っていないんだろうな、とか。涼介さんだって辛い事とか嫌な事とかあるんだろうけど、新しい環境の中で頑張ってるんだろうなって自分を勇気づけたりして。勿論啓介さんだって頑張ってるし、と思ったりもしましたけど。だから、涼介さんもそんな風に思ったりするんだって…なんだかその…嬉しい、し」

 俺たちと一緒なんだって、気がするから。何よりもそう言う事を話してくれたって言うのが嬉しいから。

 サラリと拓海はそんな言葉を涼介にくれた。

 ありのままの自分を。

 受け止めて貰える事がこれ程に嬉しい事だとは知らなかった。

 ありのままの自分が。

 求められる事がこれ程に優しい事だとは知らなかった。

 ありのままの自分で。

 誰かに甘えられる事がこれ程に心を軽くしてくれる事だとは知らなかった。

「そうか。いいのか」

 心が癒されていく。

「それと全然関係ないんですけど…いえ、全く関係ない訳じゃなくて涼介さんの話を聞いていて思い出したんですが」

「なんだ?」

 昔京一の電話番号を聞いてきた時そのままの拓海に涼介は懐かしさを胸に問いかけた。

「俺がプロになるって家を出る時に親父に聞いたんですけど。その…親父はすっげーテク持ってて。なのに何故プロにならなかったんだって」

 それには涼介も同意出来た。そして、興味あった。文太の答えに。

「店のせいかって聞いたら、ちげぇーよって素っ気なく言われました」

「違うのか?」

「はぁ…なんか…限界一杯の性能を引き出して誰よりも速く走るのがいいんだ…とか、走るのが好きなだけなんだとか、訳わかんない事言ってましたけど。親父も昔、涼介さんみたいに思ったりしたのかなぁって思うと不思議な気がして……」

 その瞬間、涼介は一つの答えを得た。

 ああ、なんだ。そうなのか。そう言う…事だったのか、と。

 限界一杯の性能。それは何を示すのか。拓海は分かっていない様だが涼介には分かった気がした。詰まる所は涼介がサーキットにではなく公道に拘るのと同じなんだと。

 早さを目指すならプロしかない。異常な程、金を掛けた特殊な車は一般車とは全く違ったスピードで走る。だが、その車の持ちうるポテンシャル全てを引き出して走る事とは異なる。

 ”誰よりも速く走りたい。誰も引き出し得ない限界一杯のポテンシャルで”

 ”劣るはずの性能の車で誰よりも早く走るからこそ快感なんだ”

 それが文太の真意とは限らないが、涼介が感じたのはそう言う事だった。

 勿論、サーキットとてそれは同じだろう。限界一杯のバトルなのだから。

 だが、それをプロとしてではなく公道で、アマチュアとして極めたならば。極める事が出来るならば。

 ゾクリ、と背中を駆け抜けた感覚は快感と呼べるものに違いなかった。

 誰もがプロは凄いと言うだろう。

 当然だ。

 だけど、プロでなくても同じ位極められたならば。

 考えただけでも血が沸騰するような気がする。

 自分の限界を知っているが故に卑屈になって、誰もが自分の道を胸を張って歩いているのが羨ましく思えた。だから、自分一人が取り残されたような気になって。

 忘れていた。

 公道での自由なドライブに興味があった。プロに興味はなかった。公道最速理論をうち立て実証する事に全てを注ぎ、走り続けた。そして、何よりも車を走らせる事が大好きだった。それが全てだった筈だ。

 プロではなくアマチュアで”そうなる”事に意味があったのだから。

 そんな簡単で基本的な事を目先の事に心奪われ、忘れてしまっていたのだ。

 ずっと刺さったままだった小さな棘がゆっくりと溶けて消えていく。

「…さん?涼介さん?」

「あ、ああ…なんだ?」

 戸惑うような、心配そうな拓海の声に我に返った。

「いえ…急に黙ったままになっちゃったから…」

「すまない。お前の親父さんは凄いな」

 苦笑しつつ、髪をかき上げた。

「え?あんな親父が?」

 本気で、驚いて不思議そうな拓海に頷く。

「ああ。その内ゆっくり親父さんと話しをしたいぜ」

「はぁ…」

 意味が分かっていないのだろう拓海に涼介は鮮やかに微笑んで見せた。それはまるで学生の時、プロジェクトDで活動していた時に良く見せていた拓海が常々格好いいと思っていた微笑みに違いなく、拓海は久々にぼーっと我を忘れて見いり、頬を赤らめた。

「所で藤原、お前いつまで此処に居るんだ?」

 夢でも見たかのように、拓海は少し不思議そうに目を瞬いた。一瞬、涼介が別人の様に思えたから。だが、何度瞬きしても涼介は涼介で、何も変わらない。不思議だ、と内心首を捻る。

「…えっと…一、二週間はこっちにいるつもりです」

 戸惑いながらも答えれば、涼介が嬉しそうに頷いた。

「そうか。明後日は俺も仕事休みだしな。みんなに招集かけるか」

「え?い、いいですよ、そんなのっっ」

「まぁ、いいじゃないか。お前こそ携帯の番号とか変わっていないのか?」

「はい」

 拓海はポケットに入った携帯を服の上からそうっと触れた。

 かつてプロジェクトDでやっていくのに必要だろうと涼介から渡された携帯だ。Dが終わりプロになると家を出た時に涼介からその支払い等の名義変更をして貰い完全に譲り受けた。

 最早数年前の型遅れも良い所の機種を拓海はそのまま使っていた。何となく機種変出来ずにいたのだ。

「じゃぁ、また連絡するぜ。流石に、今日はもう帰らないと不味いからな」

「す、済みませんっっ…こんな遠くまで連れて来た上、遅くまで付き合わせちゃって」

「なぁ、藤原…」

「はい?」

 見れば無邪気に首を傾げている。数年前そのままに…。

「ありがとう」

「え?」

 一瞬何を言われたの分からないと目を見開いた拓海は涼介の真摯な視線とぶつかって俯いてしまった。顔も赤い。

「ありがとう…」

 重ねて涼介はたった一つの単語に思いを込めて告げた。

 言いたい事は沢山ある様な気がして。言葉にすべき事は多い様な気がして。でも、何もでてこなくて。

 こんな自分なんかをそこまで慕ってくれて有り難う。

 俺と一緒に世界へと羽ばたいてくれて有り難う。

 俺を忘れずにここへと戻ってきてくれて有り難う。

 過去も現在もなく、俺を俺として見てくれて有り難う。

 真実に……気づかせてくれて。俺を救ってくれて。

 有り難う。

 幾つも幾つもの思いが溢れる。

「楽しかったぜ。また一緒に走ろう。じゃぁな」

「は、はい…」

 一体何だったんだ?と首を傾げる拓海に涼介はそう言って手を挙げるとFCへと向かった。それから、車に乗り込もうとした所で思い出したように、隣のハチロクの所へと向かっている拓海に声を掛けた。

「藤原。改めて…優勝おめでとう」

「あ、ありがとうございます」

 やっと心の底からその言葉を言えた気がした。

 テレビを見た時には言えなかった言葉。つい先程は口先だけで告げた言葉。

 だが、今のは違う。

 純粋に。

 おめでとう。

 そして、ありがとう。

 俺の言葉に笑顔で返してくれるお前が居てくれて良かった。





 涼介は一旦ライトで合図をすると、そのまま秋名湖を後にした。


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