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『この道を 2』


「よぉ。最近なんか派手にやってる様じゃん」

「何の事だ?」

 仕事に一段落ついて休憩室に行った涼介はそこにいた先客である楢崎にニヤッと悪戯っぽく言われて首を傾げた。

「赤城」

「…ああ…」

 それだけを言われて涼介は微かに俯いた。

「良く知っているな」

「ふっ…俺の情報網を甘く見るなよ」

「なんの情報網だか」

 実際涼介は楢崎に自分が過去走り屋をしていて、赤城をホームコースにしていたなんて話はした事がない。当然最近暇な時に走りに行くのだと言う事も話していない。一体全体何処からそんな情報を仕入れてくるのか、と不思議に思う。

 そんな風に楢崎を判断する一方で、自分の影響力の大きさのようなものを過小評価している涼介だった。

 椅子に座って体から力を抜いた。

 休憩室に沈黙が流れると、やけにテレビの音が大きく聞こえた。

 エンジン音が響くその音に涼介は緩やかに視線をあげた。

 テレビはとあるレースを映し出していた。

「やっぱりこう言うのは気になるか?」

 涼介の視線に気付いた楢崎が話しかけてくる。彼自身テレビへと視線を向けている。

「そうだな。弟も確かこのレースに出たがっていたしな」

「ああ…そう言えばお前の弟、プロのレーサーだったよな。今回は出ていないのか?」

「ああ。スケジュールの都合で上手く行かなかったらしいな。その事で電話で愚痴られた」

「はっは。いいねぇ兄弟って」

 二人の視線の先では小さな箱の中を数台の車が疾走している。そのうちの一台に涼介は目を奪われた。

 切れた走りっぷり。だが、見事なまでのライン取りにテクニック。

「お前に兄弟は居ないのか?」

「いや。一応妹が居るがな」

 やっぱり女じゃなぁ〜。妹じゃ潤いにもならねぇーしよ。

 そんな勝手な事を言う楢崎に涼介はああ、と頷いた。

 潤い云々はさておき、妹と言えば緒美みたいな存在かと涼介は納得したからだ。仲はいいし、大切な存在だが、弟の啓介とはまた別のものだ。緒美には車の事は分からないし、同じ様な趣味も、話の話題もない。恋人とも違った存在である”妹”の緒美は涼介にとって物足りない様な歯痒い様な、それで居て何処か心を温かくしてくれる様な、何とも言えない不思議な存在だった。

「お。ラストみたいだぜ」

 楢崎に言われるまでもなく涼介は画面に釘付けになっていた。

 まさか、と思う。だが、あの走り。見覚えがあるし、勘違いとは思えない。

 だが、啓介と違って連絡が一切ない彼がこのレースに出ているかどうかは涼介には分からない。暇な時は雑誌などで調べたりするのだが最近はずっと雑誌を購入する事すら出来ずにいた。

 それは忙しさだけが理由ではなかった。”見れなかった”からだ。

 テレビの興奮気味なアナウンサーの声に一瞬息が止まりそうになった。


 藤原拓海。初のF1優勝の瞬間だった。


 煌びやかな舞台で、変わらない拓海がテレビ画面の向こう側にいた。

 おっとりとした風情。口下手で恥ずかしそうにもごもごしているその様まで変わらない。

「ふ〜ん…なんだかレーサーって言う感じの奴じゃないな」

 そんな楢崎の感想はテレビの音声に集中している涼介には一切入ってこなかった。また、楢崎も返事が欲しい訳ではないのだろう。気にした風もなくテレビを見ている。

「優勝おめでとうございますっ!まだお若いのに凄いですね!」

「え?や…そんな事、ない……です」

「現状に満足せず、まだまだ上を目指すと言う事ですか?その前向きな姿勢こそが素晴らしいこの結果を産み出したんでしょうねっ」

「はぁ…」

「所でこの優勝した感動を誰と分かち合いたいですか?」

「感動って…」

 拓海は顔を赤らめて頬をポリポリと掻いている。

 多少顔つきが大人びて精悍になったものの、本当に変わっていない。思わず涼介の笑みを誘う。

「やっぱ一緒に頑張ってきたみんなに、かな。俺一人じゃここまで来れなかった、から…」

「では、優勝した事を伝えたい人とかいらっしゃいますか?恋人とか」

「こ、恋人なんて居ないっすよっ」

「そうですか?とてもおもてになるって聞いてますが」

 多少精悍になり、体つきも大人のそれになったとは言え、母親似なのだろう拓海の容貌はどことなく中性的でもあり、遠くを見る様な眼差しはミステリアスでもある。結構女の子のファンなども多いのだが、本人は相も変わらず自分の事を知らない。

「……でも…」

「でも?」

「親父と………あの人には…伝えたい、かな」

「お父様もお喜びでしょうね!それと”あの人”ですか?」

 すっかり自分の世界へと入り始めた拓海はレポーターの問いかけとは別の事を告げた。いや、別ではない。一つ前の話しに戻っただけだ。

 そこら辺の飛躍気味な拓海の言動は健在だったようだ。

 しかし、レポーターは狼狽えることなく、自分の考えに没頭し始めた拓海に促す様な言葉を向けた。

 拓海はぼうっとし始め、恐らくはテレビでインタビューをされているとかそう言った意識はすっかり消え失せているのだろう。ただ、自分の考えと言うか思っている事を導かれるまま、知らない内に口に出してしまっている、と言う感じだった。

「すっげー尊敬している人なんですけど。その人には俺、未だに勝ったとは思った事が無くて。あ、親父にも…実は勝てたと思った事無いんだけど。すっごく速いんです。何時だってあの人は俺の前を走っていて、行くべき道を示してくれる。この道を教えてくれたのも涼介さんで。この世界へ入ってからずっと連絡とかしていなかったんですけど。優勝したら。そうしたら、会いに行こうって、それまでは駄目だって。甘えてしまいそうだったから。涼介さんなら色々な事教えてくれるって、今苦しんでいる事も、悩んでいる事も全部答えまで導いてくれるって分かっていたから。それじゃあ、駄目なんだって。涼介さんならどうするだろうって考えたり、涼介さんに教えて貰った事を思い返してみたり、取り敢えず一人で頑張らなくちゃって」

 拓海は涼介の名前を出している事に気付いても居ないようだった。ただ訥々と語り続けるそれは人に話しかけていると言うよりは自分自身で考えを纏めていると言う風情が強い。

 そんな拓海にまたレポーターは静かに囁きかける。

「伝えたい事ってなんですか?」

 静かな問いかけは、拓海の思惟を邪魔することなくスルリと入り込んでしまった。だから拓海はそのまま乗せられる様に、常にない饒舌っぷりを更に披露して見せた。

「有り難うございますって。涼介さんのお陰で俺はここまで来れた。何をしたいのか分からなかった俺をここまで導いてくれたのは確かに涼介さんだったから。俺にテクニックを教えてくれたのは親父だったけれど、車を速く走らせる方法や楽しさを教えてくれたのは涼介さん達みんなで。何時だって…今も俺と一緒に涼介さんは走ってくれているって思えるから。だから俺…」


 やっと会いに行ける。


 そう呟いて拓海は微笑んだ。

 常に遠くを見ている様な眼差しで。何を考えているのかパッと見には分からなくて。無愛想で素っ気なくて口下手で、周囲の人の目を余り気にする事もなくて、人付き合いが上手とは言えない拓海だったが、彼は時折優しげな笑みを浮かべる事があり、それが女性ファンには堪らない魅力でもあった。

 それは、薄皮一枚隔てたかの様な、でも何処か遠い世界に存在する者が、突如鮮やかな微笑みを纏ってこの現実に舞い降りたかのような感覚を与えるからだ。

 今、その女性ファン達が見たならば狂喜する程のフワリと嬉しそうな、感謝の気持ちが溢れんばかりの微笑みを拓海は浮かべていた。

 それは本人がテレビを意識しての事では一切無くて。ただ、優勝出来たし、会い行こう、と決意出来た事に満足して浮かべた笑み。みんなに久しぶりに会えると嬉しくなって浮かべた笑み。

 暫くしてからレポーターやテレビの存在に気付いて拓海は酷く慌てていたが、そんな拓海を構いもせずに番組はどんどんと進行していき画面は次々に切り替わっていった。


「なぁ…今の奴が話してたのって…」

「……」

 話しかけながら涼介の方を見れば、呆然と、らしくもなく呆気に取られた表情。そして、次には少し恥ずかしそうに口元に淡い笑みを浮かべて。だけど胸を突くような切なげな眼差し。

 そんな涼介を見つけて楢崎は「まさかお前、なんて事ないよな?」と続く言葉を飲み込んで、ガシガシと頭を掻いた。

 確か名前が涼介だったよな、と思って茶化す気持ちで問いかけた楢崎は苦笑した。

 最近赤城の峠で噂になっているし、過去もかなり有名な存在だった様だが(ちょっと調べただけでわさわさ高橋涼介の資料は出てきた)、まさか弟以外にもプロのドライバーに知り合いが居るとは思っても居なかった。楢崎はプロのレーサーに詳しいわけではなかったのだから、過去の資料に出てくる拓海がプロとは当然知らなかったのだ。

 なんだ、本当にお前の事かよ。でも…お前にそんな表情をさせるなんてな。

 もう一度楢崎はテレビの方へと視線を向けた。

 さっきの優勝した車なのだろう。何度も同じ車の走る姿が映し出されている。楢崎には何が素晴らしいのかも余りよく分からないが、きっと凄い事なんだろう。

 ちらっと横目に涼介の様子を窺えば。

 幸せそうだけど寂しそう。

 無理矢理言葉にすればそんな感じ。

 別に涼介は冷たい人間ではない。冷静ではあるが、何処か熱いものを胸に秘めている。それを感じ取れるだけの暖かさを常に彼は纏っていた。深く接した事のない楢崎ですら分かる程に。

 だからこそ患者も看護士も同僚の医者達もみんな彼の事を信頼した。クールに自分の損得や出世ばかりを考えるのではなく、熱心で暖かみのある涼介に誰もが好感を抱いたのだ。この人なら大丈夫、と思わせる何かが涼介には多分にあった。それは峠でもプロジェクトDでもリーダーとして陣頭指揮を執るだけの威圧感を放つ、カリスマと同じ資質から来るものかも知れなかった。

 だから、涼介が常にすました顔で表情に乏しいかと言えばそうではない。表情豊かとは言えないかも知れないが、それなりに笑いもするし悲しみもするし、怒りもする。

 だが、こんな表情の涼介を見たのは楢崎自身初めてと言って良かった。

 以前、治療は困難なのではないか、と言われていた少女が手術に成功し完治した時の嬉しそうな表情で見送った涼介を知っているが、今の表情はその時と同じ、いやそれ以上に嬉しそうだと思える。

 なのに、同時に大切な存在を悼む遺族の様に悲しそうにも見える。

 金持ちで、頭も良くて、顔も良くて、運動神経も良い。何もかも恵まれた様な男だが彼にもそれなりに苦悩を胸に抱えているのだろうと楢崎に感じさせた。

「おっと…俺はもう時間だ。先に行くぜ」

「…ああ」

 一人になりたいんじゃないか。そんな風に思ったのは何故なのか楢崎自身にも分からない。

 複雑な表情の向こう側に透けて見える何時にない弱い涼介を感じ取ったからなのかも知れない。

 楢崎は軽く手を挙げると、後ろ手に扉を閉めて外に出ていった。





 一人残された涼介は画面を食い入る様に見つめていた目を無理矢理閉じて、深く椅子に体重を預ければ、酷く体が重く感じられた。

 今一人だけだと言う事が嬉しかった。きっと気を利かせてくれたのであろう楢崎に心の中で感謝した。

 涙が。出そうだったから。

 それは歓び故のものでもあり。悲しみ故のものでもあった。

 拓海の言葉は涼介に様々な感情を沸き上がらせた。

 嬉しかった。

 自分が拓海の中で今も生き続けていると言うのが。啓介と違い連絡すらないし、とうの昔に忘れられているのだとそう思っていた。その寂しさを自分など所詮は広く高い大空へと羽ばたく事の出来なかった脱落者と変わりないのだし、と自分を納得させても居た。

 サーキットに興味がない。自由のある公道にこそ興味があるんだと言いつつも、自分の限界を知っていた。自分ではサーキットのプロの世界では生き抜く事が出来ないと悟っていた。

 いつか抜かれると思った相手は二人。啓介と拓海。その二人は今プロとして活躍している。

 自分の見る目が正しかった事が嬉しくもあれば、だからこそ悲しくもあった。それは自分の限界を感じた事もまた正しい事だと言えたからだ。

 何時だって涼介は先見の明とでも言うか、物事を見抜く事で、寂しい思いを味わってきた。

 誰だって先が読めるなら良いじゃないかと思うだろうが、それが自分の事にも当てはまるとなると話は違ってくる。

 何もかもが白日の下に晒されたかの様にその先が見えてしまうのだ。

 そんな事が幸せなはずはない。自分の将来に対する夢も希望も情熱も、何もかもが虚しいばかりだ。だからこそ涼介は自由であるが故に何が起こるか分からない公道でのバトルを愛したに違いなかった。

 その反面、涼介は啓介に様々な事を教えた。自分の何かが啓介の一部となり世界に羽ばたく姿を見る為に。

 それが卑怯な行為とは思いつつも、そうしないではいられなかった。

 そんな自分にくれた拓海の言葉は。

 今でも啓介のみならず、拓海の一部となって共に走っているのだと言う事は魂が震える程の歓びであり。

 こんな情けない自分へのもどかしい程の不甲斐なさであり。

 そして、過去と現在の自分が切り離されてしまったかの様な寂しさだった。

 この道は自分で決めたはずの道。

 自分自身で医師になり、この病院を継いでいくのだと決めた。

 本音として、ハッキリとプロになりたかった訳ではない。

 医師になるならない、関係なしに、だ。

 走るのは好きだ。

 誰よりも一番早くに走りたいとも思った。

 広い世界に出ていきたいとも思った。

 でも、サーキットに魅力を感じず、そのプロになりたいとは思わなかった。

 サーキットには興味もなかったし、自分の限界を知って居るから一番になれるとは思わなかった。だから挑戦はしなかった。その上、学生としての時間的限界が先に来たとも言える。

 真実、興味があるのは制限されたサーキットではなく自由な公道。ストリートこそが涼介の全て。

 もし。

 ストリートのプロなんて言うモノがあったなら、涼介は全てを放り投げてでも、僅かな可能性に賭けて、そこへ突き進んだかも知れなかった。

 でも。

 やっぱり自分の限界を知るが故に諦めたかも知れなかった。

 だが、全ては通り過ぎた過去の、仮定の話だ。

 自分で決めた医者としてのこの道。

 後悔は無いはず。

 でも、納得するまで挑戦しなかった燻りと、今の自分が忘れられていく事の寂しさが涼介の心の中の屈託となって、重くのしかかっていた。

 そんな今の涼介を拓海の言葉は激しく揺さぶったのだ。

 嬉しい。

 なのに、胸に痛い。

 グズグズと何をして居るんだ。

 矛盾した事が胸の中で渦巻き、自分で情けないと思うものの、こればかりは感情の問題であり、理性でどうこう出来る類のものではない。



 藤原。



 お前は俺を忘れないで居てくれたんだな。



 それでも。



 こんな情けない俺に。



 お前は。



 同じ言葉をくれるだろうか?







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