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『この道を 4』


 涼介は珍しく朝の陽射しを体一杯に受けつつ病院へと向かっていた。朝からバスやタクシーを使わずに徒歩で病院へと出掛けたのは初めてかも知れなかった。

 一人昨夜の事を思い出しつつ、朝焼けの空を見上げた。

 昨夜は帰宅が遅くなり、睡眠時間は殆ど無かったが疲れというものは余り感じなかった。逆にすっきりとして爽やかな気分が胸一杯に広がっている。

 朝とは言っても通常の人間の通勤ラッシュとは時間帯が異なる。まだ6時になろうかと言うそんな早い時分。

 見事な朝焼けを見上げて涼介は目を細めた。

 夕焼けと朝焼けは似ている。同じ様な黄色にオレンジに赤みを帯びた空。

 なのに違う。絶対的に異なる。何故か人は夕焼けには無い希望の様なものを朝日に見つけ、感じ取る。それは願望故のものなのだろうか。

「不思議なものだな」

 呟きが零れてしまう。

 つい先日、この道を逆に歩いた。

 病院から家への道程。

 あの時は青空の下だったが、今は朝の澄んだ空気のシンとした美しい朝焼けの下だ。

 車も滅多に通りすぎたりしない。

 朝日を浴びて陽を弾く新緑。風に揺れて下から見上げれば、色とりどりの翠の競演で艶やかさを競い合う。時折零れ落ちる木漏れ日が目に眩しく、彩りを添える。

 一人で歩く。

 真っ直ぐと病院へと続くこの道を。

 眠りに落ちていた人々が動き始めたかどうかと言う頃合い。人の気配の薄いこの世界で一人。

 道を。

 歩く。

 何本かの道が交差する。

 すれ違って。重なって。別れて。合流して。

 幾つもの道。

 まるで人生そのものの様に。

 自分が選んだのはこの道。

 大切な存在達が選んだのは別の道。

 決して重なり合う事はないし、同じものを目指す事もない。

 違う方向を向いたその道。

 だが、彼らはすぐ側にいる。

 遠い所にいる様でいて隣に居る。

 それを今は感じる事が出来る。

 ”置いて”いかれた訳ではないのだ。”一人”ではない。

 確かに自分も共に前に進んでいる。

 全てが変わりゆく中。

 変わらないものなど無い中。

 変化しつつも、同じものがある。

 あれ程悩んでいたのが馬鹿らしくなる程、今は爽やかだ。

 人の心の摩訶不思議さか。

 救ってくれたのは確かにたった一人の青年。

 本人は絶対に意識などしていないし、その事を理解してなどくれないだろうが。

 一定間隔で植えられた木々の影の下を歩く。

 明るくなったり陰ったり。

 揺れる木の葉の木漏れ日が目に眩しかったり、何でもなかったり。

 そうして見えてきた白い病院に涼介は視線をあげた。

 ここが。

 俺が選んだ生きる場所。

 最近はまともに見るのも嫌だと思って視線を逸らしていた箱。だが、今は胸を張って見る事ができる。

 口元に知らず知らずの内に笑みが浮かぶ。

 それは自信に満ちあふれた様な表情で、最近では珍しいものの、かつて峠では幾らでも見る事ができた涼介のそれに違いなかった。

 その病院から一人の男が歩いて出てきた。

 今度は白衣を着ていないが、楢崎に違いなかった。

「よぉ。これから出勤か?」

「ああ。お前はやっと解放されたのか?」

「ああ…全くいい様にこき使われてる気がするぜ」

 そんな事を病院の敷地の境目辺りで語り合う。

「ふーん?なんか良い事でもあったのか?」

「…そう見えるか?」

「ああ、酷くさっぱりした顔してるぜ」

 言われて涼介は苦笑した。

 レースのテレビ番組を見た直後の涼介の様子がおかしかったから、らしくもなくこの男は気にしてくれていたのかも知れない。

「ま、俺にはどうでも良い事だけどな」

 そう言って楢崎は手を挙げた。

「んじゃーな。俺は早く家に帰って寝るわ」

「ああ、気をつけてな」

 おおー…とぞんざいな台詞と共に手をひらひらと振って楢崎は涼介の横を通り過ぎた。鋭い癖に余り深くつっこんでこないその微妙な距離感が涼介にはありがたかった。

 涼介も軽く答えると、病院へと足を踏み入れた。

 二人が交錯する。

 何気ない一瞬。

 同じ道を歩く仲間。だが、決してお互いの目的地は同じではあり得ない。

 求める目的地は人それぞれで、辿り着く所は人それぞれで、その過程もまた人それぞれで。

 それは確かに存在するものであり、幻でも嘘でも、気休めの思いこみでも、何でもない。

 真実、だ。

 病院前のロータリーを歩いて病院の自動ドアへと向かう。自動的に開かれた扉の向こう側へと涼介は躊躇う事もなく足を踏み出した。

 これが。

 俺の選んだ道であり、俺の人生。

 俺の片翼はあいつが持っていてくれる。

 世界へと連れて行ってくれている。

 一度の人生で二つの人生を歩んでいるかの様な錯覚。

 そして、思い出したのだから。

 前へと進んでいる。

 別々の道を。

 異なる長い旅路の、だが同じ夢を見ながら。



 あいつが言った。

「もう、すっかりお医者さんなんですね。じゃぁ、怪我したらここにきますっ」

「なら、来るな」

 カラリと笑って言った。怪我なんかするんじゃない、と。

 すれば拓海はう〜ん…と腕を組んで何やら悩み始めた。一生懸命なその様子が笑いを誘う。

 一体何を言うつもりなのやら、と少し期待の様なものを感じてしまう。

「じゃぁ、専属医師になって下さい!それならここに来てもいいですよね」

 名案が浮かんだとでも言う様に表情をパッと輝かせた拓海はまるで初めて出会った高校生の頃と変わりがない様に思える。

「もう居るんじゃないのか?」

「だってあいつすげー嫌な奴だし…」

 ブツブツブツ。

「なんだ。俺はスケープゴードか」

「そ、そんなんじゃないですよ!涼介さんなら信頼出来るし安心だしっ!何よりっ」

 拓海はそのままの勢いで言わなくても良い事を口走る。

「一緒に世界最速を目指せるしっ!!」

「……」

 驚きに涼介は目を少し見開いた。

 一体何を真面目な顔で、しかも大声で力説してんだ、コイツ。

「あ、あれ?…っっっっっ!!」

「プッ…」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ」

 自分で言い放っておきながら、我に返って自分が何を叫んだのかに気付いたらしい。

 瞬間で茹で蛸になった拓海は、口元を拳で隠しながらも笑いに震える肩を堪えきれない涼介を睨み付けた。そんな笑わなくても良いじゃないですか、と言わんばかりに不服そうで、唇を尖らせている。

 その様子があの頃よりも精悍になった筈だと言うのに、やけに可愛らしくて笑いを止める事が出来なくなる。

 夜のしっとりとした風に涼介の抑えた楽しげな笑い声が乗り、恥ずかしくて出来る事なら自分で穴を掘ってでも入ってしまいたい拓海の耳に優しく触れていった。


 なのに。


 朝、病院へと着いた涼介は数時間後、患者としての拓海と再会する事になり、延々と治療しつつ説教をする事になる。

「何だってそんな事をしたんだ。お前は体が資本だろうが!」

「それは分かってるんですけど」

 無謀運転をしている車が子犬を轢きそうになって、思わず体が飛び出していたと拓海は涼介に言った。如何にも拓海らしいと言えなくもないが、だからと言って笑って済ませる事ではない。

「今回は単なる捻挫に過ぎないが、足は大切なんだぞ」

 低く抑えた口調が涼介の怒りを伝えてきて拓海は身を竦ませた。

「微妙なアクセル、クラッチのタッチ感覚。僅かなミスが命取りの世界でどれ程重要か知っているだろ」

 それに交通事故ともなれば、足の捻挫どころか命の危険まであると言うのに……ブツブツブツ…。

 テキパキとした手際で治療しつつ説教し続ける涼介に拓海は苦笑を禁じ得ない。

 すっかり医者なのだ、と思う反面、やっぱり涼介さんは涼介さんなんだなぁ、と思った。当たり前の事だけれど。それに怒られているのが心配してくれているからと分かって、むず痒い程胸が暖かく感じる。

「なに笑ってるんだ」

 少し不機嫌そうに言われて。

 素直に思った事を言えば、馬鹿、と素っ気なくされた。でも、しかめっ面の向こう側で涼介が少し照れている気がして拓海は嬉しくなった。

「次のレースは何時だ?軽い捻挫とは言え、完治まではレースはしない方がいい」

「えっ?!」

「どうしても抜けれないレースだと言うなら話は別だがな」

「…う〜ん」

「折角明日にはみんなを呼んで久しぶりに交流会でもと思っていたのに主役が怪我してどうする。全く…」

 ブツブツブツ…。

 えっと、もしかしなくてもそれも怒っている理由の一部?

 思わず拓海はそんな風に思ってしまってから、涼介さんに限ってそんな事はない、と思い直した。

 真実は涼介の胸の内だ。

「すんません…」

「取り敢えず、昨日から俺はお前の主治医らしいからな。俺の言う事は聞けよ。ブラブラしていないでさっさと怪我を治せ」

「え?あ、は、はいっ」

 涼介の言葉に一瞬目を瞬かせた拓海は次の瞬間嬉しそうに返事をした。

 主治医と言う言葉が、嬉しかったから。

「…まさかと思うがここまで自分で車を運転してきていないだろうな?」

「え?…………」

 なんでばれたんだろう、と誤魔化し笑いを浮かべる拓海に涼介は溜息を吐いた。

「……今日車は俺が家に届けてやるからバスと電車で帰れ」

「で、でも普通に運転する分には大丈夫だし。それに忙しい涼介さんにそんな事…」

 言いかけてギロリと涼介の鋭い視線に射抜かれて拓海は言葉を飲み込んだ。

「嫌ならタクシーだ」

 呼ぶか?と電話へと手を伸ばしつつ、ゆっくりと殊更低い声でくっきりと区切る様にして念を押す涼介にそれ以上反論出来るはずもなく、拓海はコクコクと頷いた。

 尊敬していると言うのもあるが、未だに拓海には涼介さんは凄い、涼介さんは絶対と言う昔のすり込みが有効であるらしかった。

 ひょこひょこと片足を引きずる様にしながら診察室を出ていく拓海を見送り涼介はフムと考え込んだ。

 捻挫してしまったプロのレーサーである。治るまで無理に走らせる訳には行かない。

 かと言ってかつての仲間達はみんな拓海と走りたがるだろう。拓海自身懐かしい仲間達と走りたいに違いないし、自分もまた彼と一緒に夜の空気を感じつつ、走りたい。

 その上、今回の拓海の帰省は初めて優勝した記念でもある。

 何とかならないだろうか、そんな事を考えて。

「高橋先生?次の患者さん宜しいですか?」

 看護士の一人に問いかけられてハッと我に返った。

「ああ、呼んでくれ」

 苦笑を浮かべつつ答えた。

 何をやって居るんだ。

 自分で自分にツッコミをいれたくなる。

 次の患者が姿を現し涼介は意識を切り替えた。医者としてのそれに。

 今は、これが自分の姿だ。

 医者としてのこれが。



 遠く。

 近く。


 すぐ側に感じる存在。

 恋ではなく。愛でもなく。

 でも、恋に近く、愛に似ている。


 まるでもう一人の自分自身のような存在。


 彼が彼であるが故に、自分は自分で居られる。

 この道を歩いていける。


 恥じることなく、胸を張って。

 歩いていこう。


 これが俺自身が選んだ道なのだから。


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