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『この道を 1』


 涼介は病院の玄関を出ると眩しさに目を眇めた。

 春の穏やかな陽射しが燦々と降り注ぎ、色艶やかに輝いている。

 最近ではもうそろそろ初夏とも言える程で、青々とした景色が都会の中でも良く見受けられる様になっていた。

 心浮き立つ様な爽やかな風が心地良い。

 もう春も終わってしまったのだな、とこんな時に知る。

 最近の涼介は病院の外の気候を気にとめる事も無くなってしまっている。それもその筈で、昼間外に出る事が殆どなく、天気と無縁な生活を送っているのだ。

「爽やかだな」

 つい先日まで、周囲で花見だなんだと言う話題に「ああ、春か」と思ったばかりだというのに、すっかり季節は移ろい始めている。

 時が経つのは早いものだ。

 一つ小さく苦笑を浮かべると、涼介はそのまま一歩踏み出した。

 病院の目の前には小さいながらもロータリーがあり、そこには数台のタクシーがとまっている。いつもならばそのタクシーで帰宅するのだが、爽やかな陽気に誘われて偶には歩いていくのもいいだろう、とその横を通り過ぎた。

 涼介は現在病院にそこそこ近いマンションを借りている。勤務先は両親の病院だ。その両親が多忙な中それなりに通っているのだから実家でも十分なのだが、やはり就職し、独り立ちしたからにはと家を出た。

 病院は駅から歩いて10分程の位置にあり、その駅から涼介のマンションもまた歩いて10分弱の所だった。歩いて帰れる距離ではあるが、疲れている日々の中でタクシーで帰宅する事の方が遙かに多かった。今までに歩いて帰った事など指の数程もないだろう。

 車で通わないのかと聞かれたりもしたが、数日病院に缶詰にされる事などしょっちゅうともなれば、大切な車を雨晒しにする位なら徒歩やバスやタクシーで通う方が涼介にとってはましだったのだ。

 病院前のロータリーには患者の心を和ませるかのように木々が植えられている。今は季節柄色とりどりの花々に彩られてそれなりに美しい。

 久々に見上げた空は抜けるような青空で、白く陽射しに煌めく雲を縁取っている。それは疲れた、そして長時間屋内にいて外の陽光と無縁だった涼介の目にはやけに染みる景色だった。

「変わらないな」

 学生時代と変わらず今も忙しい。いや、今の方が忙しいだろう。昼も夜も、平日も休日もない不規則さは格段にレベルアップしている。お陰で今は家と病院を往復するだけの味気ない日々だ。

 大学を卒業し、国家試験に合格し。病院に”医者”として勤務するようになって既に三年目。大分仕事にも慣れてきた反面、無性に昔が懐かしく思えてならない。

 変わらない空の光景は胸に微かな痛みや切なさを伴いながら涼介に過去を彷彿とさせる。

 同じ忙しさの中にあっても充実し、今までの人生の中で一番の輝きを放つあの頃を。

 忙しかった。

 毎日の睡眠時間が3時間とか2時間とかで、下手をすれば数日貫徹と言うのもざらだった。

 それでも楽しい日々だった。

 弟と。親友と。仲間達と。そして新しく見つけた興味深い存在。

 彼らとの日々は、たった一年の短い期間だったけれども、何よりも思い出深く、涼介の心を浮き立たせた。

 忙しくても、辛いと思いもしない程楽しく、充実していた。

 あの頃の仲間達とも今では殆ど連絡を取っていない。

 弟は大学卒業後、プロを目指して家を出た。医者として忙しい涼介と、各地を飛び回っている啓介とでは殆ど顔を合わせる機会は少ない。たまに様々な報告などをかねた電話が啓介から掛かってくる位だ。

 親友の史宏も同様だ。既に彼は彼の人生を歩んでいて、たまに連絡を取るものの、やはり殺人的スケジュールの涼介とでは会う事は難しかった。

 RedSunsのメンバーとは”車”から離れた所で連絡を取る程親しいものは殆どいない。時折彼らからの葉書などが届く程度だ。

 そして彼、は。

 まるであの一年を象徴してる様な存在、藤原拓海。彼は今頃どうしているだろうか。

 初めて会った時から既に彼は高度な運転技術を身につけていた。本人の意思とは関係なしに手に入れていたが故に、彼は傲慢になる事もなく謙虚だった。車の高度な運転技術と皆無な知識のアンバランスさと彼自身の普段ぼーっとしている風情と切れた走りとのギャップが堪らなく魅力的で面白い奴だった。

 その走りを知れば知る程、自分の理想とするドライバーが目の前に居ると高揚した。

 もっと彼の走りを洗練させたいと思った。

 弟啓介が自分の走りを引き継いでくれているように、あの完璧ともとれるセンスの中に自分の走りを注ぎ込みたいと願った。

 実際彼は自分の影響を多少なりとも受けた筈だ。だが、多分に精神面が多いだろう。技術面では既にほぼ父親の文太の手によって完成されてしまっていたから、涼介はプロになるに必要な文太の最後の総仕上げを手伝っただけ、と言う感が強い。

 弟と同じく彼もまたプロになるべくこの街を出た。

 その背の大きくしなやかな翼で飛び立っていった。

 この何処までも広がる青い空へ、と。

 各々が各々の人生を見つけ歩み始めた。一旦交わった道は道を違えて、既にバラバラだ。最早どれだけの者達がこの街に残っている事か、考えるのも億劫だ。

 胸に広がる寂寞とした感情を振り切るように頭を振った。

 ロータリーを通り抜け、後もう少しで病院の敷地を出る、と言う所で白衣を着た男とすれ違う。

 白衣姿のまま外から戻ってきたと言う事はふらりとコンビニか何かにでも買い物に出掛けたのだろうか。それを証拠づけるように白いビニール袋を手に提げている。

 男は涼介に気づいて、よおっと手を挙げた。

「このまま帰宅か?」

「ああ」

「それは羨ましいな。俺は当分帰れそうにないぜ」

「ふっ…だが先日休暇を強引にもぎ取って旅行に行ったんだろう?」

「ま、そうなんだけどよっ」

 ニカッと最後に衒いもなく笑みを浮かべた男は楢崎と言うネームプレートをつけている。

 この楢崎と言う男は涼介と同時にこの病院へとやってきた新米の医者で所謂同期みたいなものだ。お陰で何かと気さくに話しかけてくる。また、医者にありがちな独りよがりなプライドの高い、嫌みな所のない奴でもあり、涼介自身嫌いではない。

 飄々とした楢崎に涼介は相変わらずだなと微笑んだ。

「…まぁ、久々の休暇だからな。ゆっくり休めよ」

 労る様にして言った彼はらしくもなく優しい目をしている。

「ああ…」

 きっと酷く疲れた顔を涼介がしているか何かだったのだろう。

 苦笑を浮かべれば、彼はニッと唇の端を上げた。そして「じゃぁな」とあっさり背中を向けて病院の中へと姿を消した。

 その後ろ姿を見送りながら涼介はそっと溜息を吐いた。

 そんなにあからさまだったのだろうか。

 疲れているのが。

 寂しいのが。

 一目で分かってしまう程に。

 涼介はそんな思いを抱えて、一歩を踏み出した。


 そこは。

 医者も学生も関係ない。

 ただの。

 ―――公道。

 自由な場所に違いなかった。

 真っ直ぐに駅へと続く道。結構な交通量があるから涼介のすぐ横を何台もの車がひっきりなしに通りすぎていく。

 両際の歩道は車一台が走れる程もあり、一定間隔で銀杏の木がずっと植えられている。今の季節は青々とした葉が覆い茂っているが、秋にもなれば美しい紅葉に歩道一面が黄色く染め上げられる。

 エンジン音をすぐ側に聞きながら一人歩く。

 真っ直ぐな道。後ろには病院がある。涼介は振り向く事もなく真っ直ぐ背を向けて歩き続ける。

 一人、だ。

 他に誰もいない。

 一緒に笑いあった友も、弟もいない。

 俺は。

 一人、ここで何をしているのだろう?

 医師となり。病院内での立場もそれなりに重くなり。自分だって進んでいる。そう、決して立ち止まって俯いている訳じゃない。

 移り変わる季節と同じく自分とて変わっていっている。

 変わらないものなど何一つ無い。

 自分も、友も、弟も、自分達を覆う周囲の環境全ても。

 では、今。

 車の通りすぎていく音。ざわめく街の喧騒。人々の笑いさざめく気配。

 それらは涼介を確かに包み込んでいる筈なのに何故遠く感じられるのだろう。

 それはいつからか、忙しさに助けられて目を背けていた事実。

 いつの間にか、翼を震わせて、体を丸めて小さくなり。

 空を見上げる事に怯え。

 その癖、みんなが飛び立っていった空に憧れてもいた。

 その事にハッキリと気づいてしまったから。

 だから孤独感に苛(さいな)まされる。

 と、聞き慣れたエンジン音を聞いた気がした。

 ふと視線をあげて周囲を見渡すが、それらしき車は居ない。

 涼介は遠くてもエンジン音である程度の車種の区別が付く。その懐かしいエンジン音に過去のときめきにも似た思いが胸に湧く。

「ふっ…いい音をさせている」

 無意識の内にその音をさせている車を探し、聞き耳をより一層たてている自分に気付いて苦笑した。

 久しぶりに。

 出掛けてみようか。

 明日は仕事も休みだ。久々にゆっくり出来る。

 偶にはFCも走らせなければいけないだろうし。

 既にかつての仲間達は一人として峠にはいないだろう。もしかしたら少しくらいは見知った者が居るかも知れないが、殆どは居ないはずだ。

 涼介が引退し、啓介がプロを目指して旅立ち。既にRedSunsは解散してしまっている。今あの赤城の峠で最速のチームが何処なのかも涼介は知らない。

 別にそれで構わない。バトルをしたいわけじゃない。

 ただ、車を奔らせてみたい。

 久しぶりに何もかもを忘れて、風となって峠を駆け抜けてみたい。

 初めて峠を走り始めた頃の様に。

 それだけ…なのだから。





 夜の闇の中を白い車が走り抜ける。

「おっ…いい走りしてねーか、あの車」

「ほんとだ。おー…結構早いんじゃねぇ?」

「…ってお前らそんな事わかるのかよ」

「あはは」

「まぁまぁ、それは言いっこ無しだろ」

 ギャラリーの幾人かが疾走する白い車に目にとめて、そんな事を笑いながら言い合う。

 夜のしっとりとした空気。風と一つになって駆け抜けるかのような感覚。ざわめきながらも時折見かけるギャラリーやら走り屋達の姿。

 何もかもが懐かしい。

 夜の暗がりの中で誰も運転しているのがかつての公道のカリスマ、赤城の白い彗星と言われた高橋涼介だとは気づかない。

 既にRX−7FC3Sを見ても、誰も「そう」だと気づかない。昔であれば「赤城」と「白いFC」と来れば「高橋良介」と誰もが思い浮かんだ当然の方程式のであったのに。

 RedSunsを解散して数年。

 こんなものなんだろうな、と涼介は少しだけ苦い笑みを口元に浮かべた。

 頂上まで一気に駆け抜け、駐車場に車を一旦止めて窓を静かに降ろした。

 鮮やかな運転で駐車場へと入ってきたその白い車にその場に居た者達は一体誰だ、と注目している。

 そんな事は一切気にもせず、涼介は空いた窓から入り込む涼やかな夜気を胸一杯に吸い込んだ。

 山であるが故に綺麗で済んだ空気。だが、車の薫りがその中に孕まれていて、何処か人工的。

「変わっていないな…」

 久々に胸ポケットから取り出した煙草に火をつけた。

 一頻り燻らせた紫煙が煙が車外へと流れ、姿を消した。

 窓を閉めると煙草を消し、再びアクセルを踏み込めば、ロータリーの懐かしい響きが赤城の峠に響き渡った。

 美しいラインを描いて消えていくテールランプを見つめていた一人がポソっと漏らす。

「なんか懐かしいな。あれ、FCだろ?数年前赤城で…と言うか、群馬で最速だと言われていた人も確か白のFCだったろ」

「ああ…何年も前に引退したって言う人だろ。まだあの頃俺は高校だったけどよ…憧れだったな」

「RX−7、か。もう結構な古い型だけど俺は好きなんだ。ロータリーの高橋兄弟に俺も憧れたしな。懐かしいぜ」

「弟はプロになったんだろ?時折雑誌とかで見かけるし。でも、兄の方は今頃何してるんだ?」

「ああ…医者になった…って噂だけどな」

「医者かよ。すげぇーな」

 その当の本人だとは気づきもせず彼らはそんな話しをしていた。

 その頃、峠では涼介が苦笑していた。

 見知らぬ白い車にひょいひょいと追い抜かれて振り切られてしまうのだ。地元の走り屋を自称している彼らにしてみれば堪らなかった。

 幾人かがあっさり振り切られ追いつく事も出来ず、駐車場のチームの仲間がいる溜まり場へと戻って来てはその車について話すのだ。すれば当然白い車を俺がぶっちぎってやる、と意気込んで出掛けていく事になり、結果、一方的な挑戦者もどきと敗北者がどんどんとねずみ算式に増えていくのだ。

「しつこいな」

 バトルをする気のない涼介は嘆息せずには居られなかったのだ。

 今、本気の走りをしている訳ではない。そもそも数年ぶりの峠だ。全力の限界走行など幾ら涼介でも出来たもんではない。

 その上、全力でやってみたいと思わせる様な相手もいなかった。

 かつてのRedSunsは涼介が選りすぐったメンバーで構成されていたが故にハイレベルだったのだ。そのチームが解散し、今ではそれ程のレベルのチームはいない。そもそも、そのハイレベルなRedSunsのY1は他でもない涼介だったのだから当然だった。

 数年ぶりの空気をそれなりに満喫して涼介は仕方がないとアクセルを踏み込んだ。

 眼前に迫り来るコーナー。

 その瞬間を見極めて。

 鮮やかなドリフト。

 一瞬で後ろの車を振り切って涼介はさっさと赤城の峠を下って行った。





 それから何度か赤城の峠へ車を走らせに涼介は出掛けた。

 その度に広まっていく白いFCの噂。

 まるで涼介が初めて赤城の峠にデビューした時の様に。

 誰と連むでもなく一人で走る一匹狼。だが、誰よりも速い。

 何台かの車に正式にバトルを申し込まれたが涼介はそれらを全部断った。この赤城でバトルをする気はない、と。

 今の自分が昔の最高タイムをたたき出す事が出来ないと自分で分かっていたとしても、この赤城はやはり涼介にとってはホームコースであり、知り尽くした場所に他ならなかった。挑戦者達もここがホームコースであり対等なのだから受けても良かったのだが、今更現役を引退した自分がバトルをしても意味がないだろうと思ったのだ。

 そうして彼らは彼らで涼介の事に気付いた。嫌でも気づかされた。

 彼が高橋涼介だ、と言う事に。

 白いFC。見事なコーナリングにドリフト。美しいまでのライン取り。

 全く歯が立たない走り。

 赤城の峠にロータリーサウンドが響く度に、彼ら自身、敵愾心も忘れて涼介の走りに見惚れた。話しかける事も殆ど出来ない。チームに参加を、なんて誘う事も出来ない。ただ見つめるだけ。

 だが、彼らにとって涼介のFCはそこに存在してくれるだけで十分だと思える様な存在だった。”神”の様にそこにあるだけで十分だったのだ。

 そんな風に、いつの間にか涼介の与り知らぬ所で赤城の絶対者として奉られてしまっていた涼介は、本人が意識していようといまいと、過去に公道のカリスマと渾名されるだけの存在感を放ちえる”輝く者”に違いなかった。



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