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『桜回廊 参話 〜愛別〜』

「桜・・・・・・」
背後から掛けられた言葉に桜はびくんと一つ躯を震わせた。
つい先程まで彼と共にいた、その場所で。何時までも一人佇んでいた。まるで散り行く櫻の華と共に何処かへ消えてしまいそうな程弱々しい背中に鳴瀧は手を差し伸べる。
「鳴瀧さん・・・」
肩に置かれた鳴瀧の手が温かくて心にじんわりとその温もりが染み込む。
「よかったのか?」
「・・・うん。・・・とても・・・嬉しかったの。本当よ?出会えて良かった・・・」
背後の鳴瀧を見ることなく眼前の櫻の華宴をひたすら見つめ続ける。まるで今にも彼の姿がふわりと出てきそうな程、初めて逢った時と同じ美しく咲き乱れる櫻。
「そうか。躯は大丈夫か?」
「少し辛い、かな・・・もう・・・・・・本当に時間がないのね・・・」
「・・・・・・」
何も応えない鳴瀧に桜も黙ったまま少しづつ強まる躯の痛みにぎゅっと自分の躯を握りしめた。

 

 

たとえ後数分しか残されていなくても。
ソレで全てが終わってしまうとしても。
何もかもを諦めてしまうのは嫌だったから。
最後に約束したから。

もしかしたらソレは自分勝手な「約束した」と言う思いこみかも知れないけれど。
それでも・・・諦められない。
もう一度貴方に会いたい・・・そう思うから。願ってしまうから。

この想いが。
たとえ数時間のモノでしかなかったにしても。
これが私の人生で最初で最後の一番の・・・想い出。

<緋勇桜>の・・・全て―――

すぐに終わりの来る事が分かっていた。ソレで恋をしてどうなるというのか。辛いだけではないか。共に居ることすら出来ない。いや、それどころか、覚えていることだって・・・すぐに彼の記憶は儚い夢の如くに消え去るというのに。

寂しかった。
辛かった。
苦しかった。

共にいれないから。
彼の側に寄り添う他の誰かを思えば胸が苦しくて。

でも。
嬉しかった。
暖かかった。
幸せだった。

出逢うことが出来たから。
出逢うことすらなく<消える>事を思えば。
よっぽど嬉しかったから。
自分の心の全てを勝手に彼に預けて。

逢えて良かった―――
何よりもそう思う。たとえ私自身が全てを失っても。忘れてしまっても。貴方は覚えていてくれるでしょう?
心の片隅で良い。ほんの少しで良い。
覚えていて・・・<私>のことを

 

 

鳴瀧は桜を後から黙ったまま見つめて。自分にはどうすることも出来ない無力さを痛感した。
玄麻の時もそうだ。結局自分は何一つできはしなかったのだ。
彼女の躯は・・・<黄龍の器>としての覚醒を迎えている。
男ならばまだ良かったのだ。だが・・・桜は女性だ。強すぎる氣の流れである黄龍の力をその身に受けるには・・・余りにも弱かった。男でやっと抑えられるか、られないかの強すぎる力に。女性の躯が持つはずもなく・・・<自然>はその調和をとるかのように彼女の躯に変化を与えた。
ソレはまさに彼女自身の死。
全ての喪失。
ソレであっても・・・彼女は逃げずに戦うと言うのだ。父親そっくりの真摯な眼差しで。
護りたい。
そう思わずには居られない。最後の最後まで。<彼女の心>を・・・護りたかった。
だが・・・桜は壬生と出会ってしまった。
彼女は嬉しかったと笑うが、ソレがどれ程の苦しみをもたらしただろうか。

「くぅっっっ・・・・!」
小さく苦痛の呻きをあげて崩れ落ちる桜の躯を鳴瀧はとっさに受け止めた。
「桜っ!」
「だい・・・じょうぶ・・・・・私は・・負けない、もの。約束、っくぁっっ!・・・・したん・・だから・・・・・・・」
余りにも急激な変化は突然で。それでも桜は泣き言を言わなかった。必死に叫びそうになる声を抑えて、耐える。
「彼と・・・約束・・・・・・く・・れは・・・・・・」
ソレは彼女の最後の言葉。
最後に薄れゆく視界の中で櫻舞い散る中に立つ彼の姿が見える。呼びかける。彼に。
ずっと一緒に居たかった。
貴方と共に・・・忘れずに居たかったっっ!
初めて呼んだ彼の名前は・・・苦しげな吐息にのって風に消えた。

体中を軋ませるような激痛に顔を歪めて耐える桜を鳴瀧は、抱きしめることしか出来ずにいた。
どれ程の間そうしていただろうか。
5分?10分?
ソレは余りにも長く、そして短く感じられた。
腕の中で意識を失いぐったりとその身を任せる桜を見つめる。
汗ばんだ肌に黒い髪が張り付き苦しげな吐息を未だはき続けている。とは言え峠は越えたのだろうか。大分落ち着いてきた彼女の呼吸に鳴瀧はそうっと息を吐いた。
「桜・・・・・・」
苦渋に満ちたその顔から・・・一滴の涙が零れ落ちる。
「済まない・・・桜。玄麻。加代・・・」
かつて共に戦った親友。そしてその愛する人。彼らの分までこの子を慈しみたかった。護りたかった。なのに。自分に出来るのは<戦場>へと導くことだけ・・・
あまりの情けなさに零れた滴は桜の頬に落ちて流れた。

―・◆・―

「大丈夫かい?」
「・・・・・・」
ぼんやりと目を開けた彼に静かに囁きかける。
彼は周囲を見回すとその眼差しを鳴瀧に向けた。
深い・・・深すぎる程に漆黒の瞳が鳴瀧を射抜く。ソレは余りにも深すぎて、引き込まれそうになる。
・・・こんな瞳をしていなかった・・・
苦しげに鳴瀧はその言葉を胸にしまい込んだ。
「ここは・・・・・・・」
「医務室だ。」
「医務室?」
どうして自分がソコにいるのか全く分からない。そう言う風に首を傾げた。
鳴瀧はドキッとなる。
その仕草が・・・そっくりで。
「・・・・・・ああ・・・・・・倒れたんですね・・・俺は・・・」
そう言って彼はうっとうしそうに長い綺麗な髪を掻き上げる。
「髪を切らなくちゃなぁ・・・」
ポソリと呟いた後、彼はベッドから体を起こすとそのまま立ち上がろうとして自分の姿に気付いた。
「あの・・・着替えは在りませんか?」
「ああ、此処にある。体の調子は大丈夫そうだな。」
ベッドの上に畳んでおいてあった制服を見つけて彼はそれに手を伸ばした。
「ええ。大丈夫ですよ。鳴瀧さん」
そう言って笑った。
自然な・・・人を惹き付けて止まぬ笑み。
でも・・・・・・何処かソレは違うモノだった。
彼は自分が着ていた小さい制服を脱ぎ捨てると新しい制服を着込んだ。
「ウチの制服だが・・・まぁ、家に帰るまでならソレで十分だろう。」
「ええ。すみません。ご迷惑を・・・掛けました。」
「いや。迷惑など掛かっていないが。」
開いていた窓から爽やかな風が入る。ひとひらの櫻の花弁が一緒に舞い込む。
着替え終わった彼がそれに気付いて手を差し出してソレをふわりと掌に捕まえる。

ぽたりっ―――

零れ落ちたのは。
真珠の如く綺麗な彼の涙。
いや・・・ソレは彼のではなく・・・彼女の・・・・・・

彼はその涙に気付いたのか気付かないのか。
「では―――行って来ます。」
はらりとその櫻の花弁を落としてから告げる。
「・・・そうか。気を付けて。決して・・・命を無駄にするな。無謀と勇気は違うと言うことを・・・忘れるな。」
「分かってます。俺も死にに行く訳じゃない。生き残る為に、行くんです。今まで有り難う御座いました。」
そう告げて。
部屋を出て行こうと扉を開ける。
「龍麻っ!」
とっさに呼び止める。
違っていて欲しいと、あり得ないことを願いながら。
「壬生・・・壬生紅葉を・・・おぼ・・・いや、知っているか?」
「壬生?誰・・・ですか?」
「いや・・・知らないのならいいんだ。引き留めて済まなかった。」
「?・・・・・・そうですか?では、東京でその内挨拶に行きます。」
「ああ、暫く海外でいないが・・・その内・・・会いに来てくれ。」
最後に笑顔を見せて龍麻は扉の向こう側に姿を消した。

窓の外には相変わらず櫻が美しく咲いている。
でも・・・何処か違うように感じられた。そう、龍麻に違和感を感じるように。
<彼女>は失われたのだ・・・

黄龍の器として生きるために。
彼女はその身を変えた。
もう・・・何処にも緋勇桜はいない。いるのは緋勇龍麻。たった今目覚めたばかりの少年。
龍麻が脱ぎ捨てていった制服がベッドの上にきちんとたたんでおいてある。
桜の着ていた・・・・・・セーラー服。

まるでそのセーラー服が現在の緋勇龍麻から切り落とされてしまった桜の全てのように感じられて鳴瀧は切ない思いでソレを見つめた。
その身を男と変えて。龍麻になった桜はもうかつての記憶を持っていない。いや、ソレは正確ではない。実際には鳴瀧のことが解るように記憶はあるのだ。だが・・・・・・ソレは<緋勇龍麻>にとって必要不可欠と判断されたモノ。そうでないモノは・・・・・・
必要と認められない<緋勇桜>の記憶は・・・全て失われている。

彼女の・・・人生はこれで終わったのだ。まさにソレは死。
彼女の想いも、何もかも・・・全てが終わりを告げた。
きっと今の<彼女>は自分が哀しい存在だと言うことも解らないだろう。<彼>はこのまま今まで住んでいた家ではなく、東京の家に帰る。
不思議と誰も教えていないはずの彼の新しい家。迷うことなく。<彼>は知っている。

これから戦いが始まる。そして終わったとき。
どうなるだろうか。
桜に戻るのか?ならば龍麻はどうなる?
龍麻のままなのか?ならば桜はどうなる?
あくまでも・・・躯は一つなのだ。そして意識も一つ。決して二人分の精神が一つの躯に宿っている訳ではないのだ。余りにも強大な力がソレを成させただけ・・・・・・・

歪みは・・・いつか正されねばならないはずだから・・・
鳴瀧の胸に不安が満ちる。
たとえそうであっても。
彼女ならば・・・大丈夫だと・・・そう、思いたかった。
「桜・・・・・・。壬生・・・すまん・・・」

―・◆・―

ふと・・・誰かに呼ばれたような気がして後を振り向いた。
何故か声が聞こえた。愛しい声。
ソレは助けを求める声にも、喜びを伝える声にも聞こえた。
振り返ってもあるのは美しく咲き乱れる櫻の華だけ。眼前に広がる櫻の枝が風に揺れてその滴を零す。まるで櫻が泣いているように・・・
ざわざわと胸騒ぎがして。
でも、ソレが何か解らずに。
壬生は少し目を細めるとその櫻の奥にある彼女のいるであろう道場の方を見つめた。

君が幸せで在ればいい・・・・・・

ソレだけを願いながら。それ以外の願いなど有りはしないから。
壬生はその願いが叶わぬと知らずに、願い続ける。
出来ることなら、また逢いたい――

再び二人が出逢うソレは、幸福なことなのか。
運命の輪は翻弄するように回り続ける。

春はそろそろ終わりを告げようとしている。
櫻の花弁がまるで哀しみのように降り積もる。ひらり、ひらりと・・・・・・
壬生の足下にまで風に飛んできた櫻の花弁がふわりと積もる。

ひらり、ひらりと―――
桜の涙の様に。