Novels

 

『愚者の見る夢 10』

気付けば風を切る音が耳に気持ちよかった。
はぁはぁと切れる息も弾んでいる。

由羽は自分が走っている事に気付いた。
それも嬉しそうに、だ。
焦るような想いで走っている。
早く逢いたくて、早く側に行きたくて急いでる。
自分が今まで欲しくてたまらなかった自分の帰るべき場所へと急ぐ。
それが由羽には分かった。

角を曲がれば見えてきた。
古ぼけた昔ながらの家の佇まい。しっとりと穏やかで、木造の建物は何処か暖かみがある。

にこり、と笑みが浮かんで。

暫しの間、玄関の処で息を整えて、ささっと乱れた髪を直す。
うん、と一つ頷くとさっさと家の中に入って、大好きな人を捜す。
彼の気配を感じ取って由羽はそっちの方へと一目散に掛けた。

「ただいまーっっ!」
サラリ、と襖を開け放てば、暖かい声と微笑みが迎えてくれた。
「やぁ、お帰り。」
「遅かったね。」
嬉しくて由羽は壬生の隣に駆け寄った。

「クスクスクス…相変わらずだね。」
「うぅう…だって…猫舌猫手なんだよ!」
壬生に言われて由羽は反論した。
由羽は酷い猫舌だ。熱いものは殆ど食べれない。
当然熱いお茶なんてもっての他で、如月はその事を酷く嘆いている。
どちらにしろ、料理に置いて出来たての熱い状態が最高に美味しいと言うのは普通だ。
冷えた魚を食べる由羽にしてみれば、魚なんて骨の処理をするだけ面倒でそれ程美味しい食材ではない。
ついでに、彼女はちょっとしたものでも酷く熱く感じて触れる事が出来ない。
だから猫手。
「プッ。」
思わず壬生は吹き出してしまった。
猫の手をした由羽を想像したからだ。
「猫手…って随分と不便そうだね。」
言われて由羽は少し恥ずかしそうに口をへの字に曲げた。
「当然、不器用でもあるようだね。」
「ひーどーいーっ☆」
如月の言葉に由羽は更に頬を膨らませて拗ねるようにした。
壬生はクッと一つ笑みを浮かべると丁寧に由羽の焼き魚を箸先で骨を取り除き食べやすくしてあげている。
「……壬生…君は甘やかしすぎる…。」
「ですかね?」
言いながらもせっせと壬生の手は動いていて、由羽はと言えば。
「わーいっ壬生大好きっ!」
そう言って壬生の首に抱きついた。
「全く日本人ともあろうものが箸の一つもだな…。」
「あーあーあーっっこれ美味しいね〜♪愛の味付けって奴〜〜〜?!」
長くなりそうな如月の説教を由羽は遮って、壬生の処理してくれた魚を食べてホクホクと脳天気な調子で微笑んだ。
「……全く君は…。」
首を振る如月に由羽はえへへ、と笑って壬生を見た。

壬生と視線があった。

酷く優しい眼差しだった。

想いが滲み出ているような。

愛おしげな。

ぽんぽん、と壬生に頭を撫でられて、由羽はくすぐったそうに幸せに身を浸した。
「壬生…当然責任持って面倒見るんだろう?」
「そうですね。」
「まぁ、由羽よりは君の方が遙かに器用だからな。その方が台所の平和というものだ。ああ、ついでに家計も…な。」
ニヤッと笑った如月に壬生は苦笑して見せた。由羽は当然べーっだと如月に舌を出した。
「どうせ料理とは相性悪いですよーだっ!これでも頑張ってるのにぃ。」
「こんな由羽だからこそ手放せないようなんですよ。末期症状ですかね?」
サラリと言った壬生に如月は口元に緩やかな笑みを刻んだ。
「壬生っ!」
由羽は嬉しくて壬生に再び抱きついた。
「うわっ☆由、由羽っ!」
その勢いが余りにも強くて壬生はそのまま由羽に押し倒される形になった。
「あはははは。」
恥ずかしそうに頬をうっすらと染める壬生に呆れた風情の如月に由羽は笑った。
フッと如月が酷く満たされたような穏やかな表情で微笑んだ。
壬生はフッと唇の端をあげるようにして微笑むと目を伏せた。
そして三人とも笑い出した。

幸せな。
幸せな情景。
なんて事ない日常の一こま。

由羽は泣きたくなった。
これは夢。
壬生が願った、心の奥底で思い描いた日常。

胸が痛くなる程の普通の時間。

向けられた眼差しに胸が熱くなる。
嘘も偽りも虚栄も何もない。そこには怖いまでの真剣な想いが溢れている。

―――アイシテイル

口に出される事はなくても、その眼差しが、指先が、身に纏っている気配が、何もかもがそう告げていた。
嬉しくて。

これが真実。

壬生と由羽の二人の間にしっかりと感じ取る事の出来る絆。
そしてそんな二人をそっと見守る如月。
まるで家族。
家、そのもの。

壬生が。

求めていたもの。

『由羽ちゃん、分かった?彼の願いが。』

「ええ、細野さん。」
由羽は頷いた。
もう既に意識は自分自身の体の中から遊離していた。
宙に漂い、体がうっすらと輝き始めた。

壬生は如月の事も愛していた。
でも、壬生は由羽の事も愛していた。
それは同じ愛であって同じ愛でないもの。
微妙に方向性の違った愛。

その事実が今まで歪んで見えていた。
勘違いしていた。

彼が望んだのは家族。
還るべき場所。
彼が望んだのは家族。
共に生きる愛すべき人。

血は繋がらなくてもその絆故に家族となる事は出来る。

壬生ったら素直じゃない。
由羽は苦笑気味に笑みを浮かべた。
もっと素直になればいいのよ。本当に手の掛かる人。
クスクスクスと笑った。

自分は愛されていると分かったからこんな余裕のある台詞が言える。
自分だってこんな状況になるまで行動に出れなかった。
壬生の事をどうこう言える筈もない。

それでも。

『なら、行きなさい。』
「はい。」

頷くと由羽の体は煌めきを残してその空間から消えた。

手を伸ばそう。

あの幸せそうな風景を現実のものとする為に。

勇気を出そう。

傷つく事を恐れては何も出来ないから。

だから真実を確かめに行こう。

ふと遙か下の方に壬生の気配を感じた。
美しい青の穏やかな空間の中で。
愛しい人を目指す。

そして壬生は由羽に気付いて見上げてきた。
驚きにその表情を凍り付かせている。
絡み合ったまま視線を外す事もなく立ちつくす彼の前に由羽は静かに降り立った。

 

@02.03.02/