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『愚者の見る夢 9』

辺りの風景が一転して、鮮やかな色に囲まれた。
余りにも急激な為、クラリと目眩を起こしそうになったが、体は全く平気だった。
違和感を感じる。
視界が動く。
やっと視界をソレとして見ることが出来たとき、目を見開いた。其処は自分の家だったから。何時もと何も変わらない佇まい。
古びた家の柱に廊下。扉に襖。時折風が吹いて、カタカタと窓が揺れる。
そして気付いた。
自分の意志とは関係なく体が動いていることに。逆に自分の意志では体を動かすことが出来ないことに。
足音も少なく歩くのは確かに自分自身だと感じる。それは直感みたいなものかも知れなかった。
自分の中に自分が居る。
変な感じだった。
如月は静かに窓の外の陽射しを受けながら、歩く。ある襖の前でとまり、中に入る。

―――壬生……。

此処は壬生の精神世界の中だったはずだ。そう思いながらも、余りにも何時もと変わらない、余りにも違和感を感じないこの“世界”に如月の意識が混乱し始めたとき、其処に穏やかな表情で座る壬生を見つけた。
「もう大分陽が落ちるのが早くなりましたね。」
「ああ、そうだな。」
静かに窓の外を見つめて言う壬生に如月は頷いた。
鮮やかな朱色の空。その端の方は既に藍色へと染められている。時折横切るのは巣へと急ぐ鳥の姿か。
小さく星が瞬き始めている。もう…秋は終わり、冬が近づいてきている。
壬生と同じようにすわって、お茶を飲む。
恐らくは自分で煎れたお茶なのだろう。何時もと変わらない芳醇な香り。
「今日はどうしましょうか。」
「ああ、そうだな。彼女は?」
「もう……そろそろだと思いますよ。」
腕時計を見て、確認をした壬生は嬉しそうに微笑んで答えた。ソレに如月も「そうか。」と微笑んで頷いた。

こんな。
こんな穏やかな自分達は知らない。
僕と壬生はこんな暖かさを喪ってしまっていた。これは?
これはどうして……。
自分に向けられる優しげな壬生の眼差し。同じように自分も壬生を見ているのだろうか。心が満たされていくのが解る。

「ただいまーっっ!」
サラリ、と襖が再び開かれて、笑顔全開の由羽が現れた。
「やぁ、お帰り。」
「遅かったね。」
驚く素振りもなく答える如月と壬生。
「ねぇ、ねぇ、今日のご飯どうするー?」
壬生の隣りに座り、目を輝かせる由羽に如月は小さく吹き出した。
「昨日ご近所のおばさんがくれた魚があるんだ。だから今日はそれにしたいんだが、いいかな?」
「魚?んー……。」
魚が苦手な由羽はチラリと壬生の方を見た。
壬生はと言えば知らぬ顔。
「…………。」
黙って見つめてくる由羽に気付いているはずなのに、壬生は如月の方を見て素っ気なく言う。
「魚でイイじゃないですか。それにしましょう。」
「〜〜〜……。壬生の意地悪……。」
「ふっ…肉ばかりじゃ体に良くないよ。味も薄めに…ね。」
「そんなの年寄り臭い〜〜っっ!!」
ジタバタと抵抗する由羽を後目に、クスクスと壬生と如月は笑いあった。
「はいはい。それ以上じゃれるのは二人だけの時にしてくれ。取りあえず夕食の支度だ。」
「そうですね。」
「あう…。」
結局魚に決定なのね?と少しばかり肩を落とした由羽に、壬生が頭を撫でてチラリと視線を流す。
優しい笑み。その眼差しが心を暖かくしてくれるから。
嬉しそうに由羽も微笑み返した。

そんな二人を見て、如月は戸惑った。
余りにも自然な二人。いや、自然な三人。今此処に三人でいて、違和感がない。
なんで?
此処にいる“自分”はこんなにも満たされて幸せそうに微笑んでいるのか。

でも、その気持ちがジワリと染み込んできて心地よい。このまま此処でこうやっていたい…そう思ってしまう。
余りにも現実の自分達と違うこの光景に。
涙が。
滲んだ。

『これが彼の願いなのね…。』

呟くような細野の小さい声が響いた。

願い。
これが?
この風景が。
壬生の望んでいたもの。
確かにそうなのだろう。
由羽の側にいる事が出来る壬生。そんな壬生と由羽を受け入れている自分。

ああ、これが。
望んでいたもの。
欲しかった光景。

ふと気が付いたら今まで入り込んでいた如月の体の中から意識が抜け出していた。
視点が変わる。
その後も幸せそうに三人で騒ぎながら食事を作り、食事を食べ、笑い会うのを見続けた。

「まるで家族のようだ。」

ポツリと零れ落ちた言葉。
全くの意識していなかった自然と出てきた言葉。

ハッと気が付いて涙が出た。

―――お前にとっての家族ってなんだ?

村雨の言葉が胸にうち寄せる。

ああ、そう言うことか、と瞠目した。
自分自身の今まで気付かなかった気持ち。
己の未熟さを突きつけられた気がして。愚かしい幼さがどれ程壬生を傷つけただろうか、と思わずにいられなかった。
そう、家族。
側にいてソレが余りにも自然で。思い違いをしていた。
自分にとっての壬生は。
血によって成された家族ではなく。まるで生まれる前からそうであったかのように感じられる心の。魂の“家族”であったと。
今更に気付いた。

幼い頃から“家族”と言うものから遠かった自分には解らなかったのだ。
“家族”が出来た歓びに。嬉しさに、目隠しされて。
やっと得た“家族”を喪う事に恐怖して、自らの気持ちを間違えた。
壬生を由羽に取られると、まるで妹や弟が出来た幼子のように、父や母の愛を喪うことに怯えて。がむしゃらに自分を壬生にぶつけた。
そうすることで壬生を自分にだけ縛り付けようとして。
何処にも行っちゃやだ、と膝を抱えて泣いているようなものだ。

恥ずかしくなって如月は顔を片手で覆った。
「全く何をやって居るんだ…。」
ははは、と乾いた笑いを口元に張り付かせて、村雨の奴…と小さく呟いた。
知っていたのだ。自分の気持ちも。壬生の気持ちも。
本当に嫌になるくらい鋭い男だ。
だけど。
「………感謝しなくてはならないな。」
全ては。
逃げずに認めるところから始まる。何事もそうだ。挫折してそれを何時までも振り返っていても前に進めない。解っている。前に進むためにも。自分の本当の気持ちを認め、見つめ直さなければならない。そうしなければ…きっと壬生を喪ってしまう。
そう。本当に。真実の意味で喪ってしまう。
今まで自分の中にいた壬生の姿が変わる。
「本当のお前を見ていなかった…壬生…済まない。」

―――想いって奴だな。

村雨の言っていた“想い”。
何か解ったような気がした。
自分の求めていた“想い”。
壬生の願っていた“想い”。
同じであるはずなのに、すれ違っていた。
だから。
心地よかったのだ。村雨の腕の中が。あの中は真実“如月翡翠”を一人の人間として見てくれている、ただの男として望んでくれる“想い”があったから。だから、心地よかった。
壬生の優しさと残酷な現実から無理矢理紡ぎ出されたような偽りの“想い”で安らぎが得られるはずもない。

本当に自分が欲しかった安らぎは。
たった今欠片を貰った。
胸の熱くなるような未来を見せて貰った。
後はそのまま実現させるだけ。

「“想い”…か。村雨が…ね……。」
少し意外な気がして、小さく笑った。
あの男が本気だと言うんだろうか。解らない。ただの遊びであんな“想い”を相手に伝えることが出来るんだろうか?何となくあの男なら出来るような気がして、やっぱり笑えた。

ふと風が吹いて如月の髪を揺らした。
視線を上げる。
世界は一変していた。さっきまでの現実味のある世界ではない。何もないただの空間。水底のような清浄な気配に包まれた淡く青い世界。
「………壬生……。」
少し先に片膝を抱えるようにして蹲る壬生の姿があった。
そっと近寄っていく。
おそるおそる手を伸ばせば、きちんと触れることが出来た。
触れた手に温もりを感じることが出来て嬉しかった。
「壬生…目を覚ませ。もう……いいんだ。苦しむことはない。君一人が全てを背負い込むこともない。僕はもう大丈夫だから。君から…勇気を、未来を、貰ったから。壬生………。」
そっと身動きしない壬生を抱きしめた。優しく優しく抱きしめ続ける。
ただ抱きしめる。

「……暖かい……。」
「そうか?」
「………え?」
ふと温もりを感じたらしい壬生がポツリと呟いて、ソレに如月が苦笑すると、驚きに目を見張った壬生が顔を上げた。
「やっとこっちを向いた。」
「……………。」
言葉もない壬生に如月は再び柔らかく抱きしめた。
「済まない。僕の為に君は苦しんだ。本当に…。」
ギュッと腕に力を込めれば、壬生がふわりと笑った。
「あなたが謝ることなんて何もないんですよ。僕が…あなたを利用したのだから。」
「…そんなの構わない。僕自身が…望んだのだから。仕方がないことだ。」
「そんなことないですよ。でも、どうして此処に?」
壬生自身此処がどこだか解っているのか居ないのか。
「さぁ?…………手の掛かる兄弟を助けに…そんな所かな?」
恥ずかしげに少し頬を染めて言う如月に壬生は一瞬目を大きく見開くと、嬉しそうに笑みを刻んだ。
「兄弟…ですか?」
「ああ、そうだ。仲間で、友で、兄弟で、大切な家族だ。」
「そう、ですか…。」
「だから……もういいんだ。壬生、帰ってこい。君だけが悪い訳じゃない。頼む、もう一度…君が望んだような。君が願ったようなあの光景を僕は見たい。もう一度自分自身であれを現実のものにしたいんだ。」
「あの光景?」
「そうだ。君と僕と由羽と。三人で楽しげに時間を過ごす、あんな日常を。」
「ああ、そうなったなら…いいですね。」
「そうなったら、じゃない。そうするんだよ。現実にするんだ。」
「そうですね。」
にっこりと壬生は儚げに微笑んだ。
壬生はまだ思いこんでいる。由羽が自分を嫌っていると。自分を憎んでいると。自分が側にいたら彼女が幸せにならないと。
だから、ソレは違うんだ!と言おうとして、ふっと自分の体が淡く輝き始めたのに気が付いた。
これはさっきと同じ。あの白い闇の中でなったのと同じ。

「まだだ!僕はまだ重要なことを言っていない!まだっ!!!!壬生っ由羽はっっ!!!!」

願いは聞き遂げられることもなく、誰もいない空間に響いた。
既に自分は一番最初にいた場所。白い深い霧の中に戻ってきていた。ソレを理解して、続くはずだった言葉を飲み込んだ。代わりにどうしようもない理不尽な怒りを込めて叫んだ。
「な、なんで!」
怒りも露わに拳を強く強く握りしめた。
『如月君…お疲れさま。』
「!!あなたが僕を連れ戻したのか!?」
『ええ、そうよ。あなたは自分の仕事をしっかりやり遂げた。彼の願いを知り、自分の気持ちを知り、向き合い、逃げることなく、未来を掴むために、彼に想いを告げた。ソレで十分。これで一つの戒めは溶けた。後は…由羽ちゃん、彼女の仕事だわ。』
「…………彼女に…任せるしかないのか…。」
『ええ、ソレが一番いいのよ。二人のことは二人できっちり話をつけるのが一番だわ。大丈夫、彼女を信じて。彼女も…あなたにとって大切な家族なのでしょう?』
「………そうです、ね。」
ああ、今までの事全てをみていたんだったな、と羞恥に如月は顔を伏せた。
全く、あんな偉そうなことを言ったが、これからどんな顔をして壬生に会い、由羽に会い、村雨に会えばいいと言うのか。
重い、重い溜息を吐き出して、髪を掻き上げた。
『さぁ、取りあえずあなただけでも…戻ってらっしゃい。』
細野の声が響いたかと思うと、スゥッと意識が薄れていった。
あまりの素早さに抵抗する暇もない。ふわりと浮遊感に包まれて、如月は意識を失った。

残るのは白い闇ばかり。
ふわりと。
風が吹いた。

――――ありがとう、如月さん。でも、僕は夢を見る。見なければ…ならないんだ。

 

@01.05.23/