Novels

 

『愚者の見る夢 11』

体が軽くなった気がした。
少しだけ。
赦されたような気がして壬生は淡い微笑みをそっと口元にはいた。

『仲間で、友で、兄弟で、大切な家族だ』

何度も何度も耳元で繰り返されるその言葉とそう言ったときの如月のかつてない穏やかで満ち足りた瞳が壬生の渇いた心に染み込んでいく。
そして、失ってしまった真っ直ぐな眼差しの如月に再び逢えたことが嬉しかった。

澄み切った迷いのない瞳で。

本当の僕を見つめて、手を差し伸べてくれた。
温もりをくれた。

罪深い自分なんかにはそれが酷く似つかわしくないように思えた。
こんな自分などにあんなにも心癒される様な資格など無いと。

 

 

ふわりと壬生を包み込む空間が揺れた。
頭上から射し込む光はその揺れにたゆたい、まるで海底から見上げているかのように美しく煌めく紺碧が目に眩しかった。

その天より舞い降りてくる存在に気付いて壬生は驚きに目を見張った。

逃げようにも体は動かない。
指一本たりとも、いや、もう既に視線すら逸らすことは出来ない。

神々しいばかりの光を背にやってくる彼女に視線どころか魂そのものまでもが吸い寄せられてしまう。
今更ながらに彼女に全身全霊をもって囚われているのだと気付かされる。
只黙って聖なる審判を告げる天よりの御使いを待ち受けることしかできなかった。

「来ちゃった。」

彼女は軽やかにつま先を降ろして壬生と同じ所に来ると、少し決まり悪げに笑みを浮かべながらそう言った。
何故此処に彼女が居るんだろう。そもそもにしてさっき如月が居た。
どういう事か訳が分からず壬生は僅かばかり眉を顰めただけだったが、それは由羽には拒絶と受け取れた。
「ごめんね。」
「なに、を…?」
傷ついた表情の由羽に壬生は訳が分からず眉根を寄せた。
彼女が謝る事など何一つ無い。
あるとすれば自分の方だ。
嫌われているこの。
自分。

―――これは夢だ。

壬生は再び目を閉じた。

あり得るはずがない。そうだ、きっとこれは儚い彼女の幻影。
如月ならば会いに来てくれるのが分かる。理解出来た。
だが、由羽の場合は分からない。なんで彼女が来る?来るはずがない。

解っていて。
そうっと壬生は手を伸ばした。
由羽は少し驚きながらも逃げる素振りは見せない。
触れれば暖かい。触れることが出来る。温もりを感じることが出来る。
なぁに?とでも言うかのように目の前の由羽は不思議そうに壬生を見つめ返してくるだけだ。
嫌悪感や拒絶感は一切無い。

触れた指先に力を込める。

握りしめた。

「……。」

少し恥ずかしそうに頬を染めた由羽が酷く艶めかしく美しい。

「由羽。」
「何?」
「…由羽。」
「何?…変なの。」
フフッとはにかむようにして腕を掴んでくる壬生に由羽は笑いかけた。
こんな風に壬生が自分に触れてくるのは初めてで。
嬉しかったから。
此処は壬生の精神世界。きっと一番素直で一番素のままの壬生が此処にいる。

そんな由羽を壬生はそっと自分の方へと引き寄せた。

目の前に自分の姿を映した彼女の漆黒の瞳がある。

腕を掴んでいない方の手で髪に触れた。柔らかな感触。サラリと指の間を通り抜けていく。
由羽はそんな優しい手に少し目を細めて身を任せている。
髪を撫で。

頬を撫で。

そうっと唇に触れた。

赤い。

誘うような唇が悪戯がちにうっすらと開かれて。

かつて触れあわせた唇の感触を思い出して壬生はうっとりと眺めた。
そのまま、その赤い唇を撫で、その中に指先を差し入れれば、少し驚いた表情ではあるものの、頬を染めて黙ってそれを受け入れる由羽にゾクリとなった。
舌先でチロリと嘗められて、咄嗟に壬生は指を引き抜くと自らの唇を由羽のそれに押し当てた。

「んっ…!」

鼻から抜けるような甘い吐息が壬生の意識を溶かしていく。
華奢な腰を抱き寄せて、体をより近くに触れあわせて。

触れる唇。
絡み合う舌。
鼓動を伝えあう胸。
引き寄せられピタリと重ねられた腰。
解け合う吐息。

深く貪り口づける。

由羽から逃げるどころか、大胆にも壬生を求めるように舌を差し出されて壬生は我を忘れて吸い上げた。

愛しくて。愛しくて。

喩えこれが現実でないのが解っていても構わなくて。

いや、偽りだと思えばこそ。

手を伸ばし、触れることが出来た。

「…ぁ、んっ。」

名残惜しげに唇を離して近距離で見つめ合う。
お互いの前髪が触れ合う程近く。

「由羽……。」

自分に答えてくれる彼女。
あり得るはずのない彼女。

苦々しい思いで、切なげに目を細めれば、由羽に頬を両手で挟まれた。
「何でそんなに哀しそうな目をするの?」
「哀しそう?」
「うん。何時だってそう。始めてあった時から。そうして私は何時だってあなたから視線をそらせなかった。その傷つき苦しげな背中ばかり見つめてきた。あなたが他の人を見つめていると知っていても……止まらなかった。」
「………由、羽?」

壬生は驚愕に目を見開いた。
何で彼女はこんな事を言うのか。

自分の望んだ彼女。

確かに。

彼女。

有り余るリアリティーを持った、彼女。

漆黒の瞳に宿る光は偽りではない。
壬生はビクリと体を反応させてパッと由羽から離れた。
この瞳。他の誰でもない強い光を宿し、自分を捕らえ縛り付けて離さないその瞳。
自分が作り出した虚像なんかではあり得るはずのない強い輝きに満ちた瞳。
この世に二つとないだろうその―――。

「由羽?!」

叫んだ壬生を由羽は少し寂しそうに微笑み返した。

 

@02.03.01/02.03.02/