目が覚めた時には大分日が高くなっていて瑠璃は驚いた。こんなゆっくり眠っている女房などあり得ない。
慌てて起きると、古参の女房に昨日は良くやったと褒められた。
鷹男に褒められずに、実情を知らないとはいえ、敵方―と言って差し支えがないのならばだが―の古参の女房に褒められて、実に変な感じだった。
入道が呼んでいるから、準備をしてこいと言われて、慌てて用意をし、入道の元へ行った。
そして、この書状を法珠寺に持って行く様にと言われた。
受け取った書状を見て、あの見せて貰えなかったもう一通の書状だと気が付いた。
しかも、護衛と称した見張りの侍。
他には、観照以外に渡してはいけないとか。決して入道の名を出してはいけないとか。
胡散臭い事この上なかった。
牛車に乗り込み、書状の中身を確認すれば、東宮が観照に帝の呪殺を依頼する内容のものだった。
あり得ない。
あの鷹男があんなに頑張ってお仕えしている東宮がこんな事をするはずがない。
じゃぁ、何?大体、こんな東宮失脚の為にある様な書状を、東宮失脚を狙っている入道が持って…。
ハッとした。
そう、持っているはずがないのだ。だって、持っているなら恐れながらと事を公にすれば、正良親王を東宮とする事が出来る。それをしないと言う事は、出来なかったと言う事。詰まり、東宮を陥れる為に入道一派が偽造した書状と言う事だ。
あぁ…。
やっと、昨夜からの違和感。喉に詰まっていた小骨の様な不快感が何だったのか分かった。
あの時、そう、昨日左馬頭や観如達と話していた時に入道は言っていたのだ。
「観照と会って、話している時に片が付けばいい」
そう、この言葉だ。
観照が誰と会うのか?何の片が付くのか?
そして、観照は有験の僧。昨夜私が言った呪い殺す。
点と点はそこにあった。
そして、呪い殺すと言うその相手は?
入道が観照に東宮の呪殺を依頼したなら、その書状を使者が持って行って、話している時に片が付く、と言うのはおかしい。
これが東宮を陥れる為の陰謀。
この書状の内容を読むまで何となく繋がりそうで繋がらず、気づけなかった。
そして、観如の「花はいつか散るもの」が示すものは…。
きっと最初からこの“使者”の為に、新しい女房を捜していたのだ。それに、潜入の為の口実として私がのってしまったのだ。
このままでは確実に口封じに殺されてしまう。
「鷹男、ごめん…また、約束破っちゃった…かな……」
呟きは車の音にかき消されて消えた。
だからと言って、簡単に殺されてやるつもりは毛頭無かった。そんな事になったら鷹男に罪の意識を持たせてしまうだろう。
なんだかんだ言って、彼は優しい人だ。
昨日の軽い火傷でも気にしていた。
これで私が死にでもしたら、どう思うだろう。
きっと、悲しんでくれる。
私の事をずっと忘れずに覚えていてくれる。
そんな考えが脳裏を過ぎった。
だけど、そんな自分が許せない。嫌い。
私は戦うの。
無理を言ってこの潜入する役を貰った。なのに、役立つどころか、鷹男に余計な気苦労ばかり掛けた。
あんなに何度も繰り返し約束させられたのに、自分の意志ではなかったけれど、破ってしまった。
無茶をしない、危険な事をしない、それはもう出来ない。
そうしなければ、生き残れない。
何が何でも生き残る。そうして、鷹男に会うのだ。かつて母様には二度と会えなかったけれど、鷹男に会って、自分が女だと話して、鷹男が好きだと告白するのだから。
先の左大臣、大海の入道よりの使者として、法珠寺に来たと大勢の人の前で言い放つ。
動揺する牛飼童に観如。少しでもこれで奴らの計画が狂えばいい。
そんな事を思っていると、寺の小坊主から観照は東宮のお召しで参内したと聞いた。
きっと、昨夜の事を鷹男から聞いて、早速行動に出たのだろう。
となると、鷹男は東宮様のお側近くに控えているだろうから、助けは期待出来ない。やはり、自力で何とか乗り切るしかない。
ならば、どうする?
観照が東宮に召された。東宮よりの使者が来るはずだったのに。
瑠璃が入道の名を出す以前に、計画は狂ってきていた。それも大幅に、だ。
ならば、観如はどうする?
考え込んでいると、馬で誰かが乗り付けたらしく、寺は更に騒がしくなった。
小坊主によると、左馬頭ではないかと言っていた。今までにも何度かあったから、と。
左馬頭までもがここに来た。
観照が参内した事で、計画の狂いを知って来たのか?にしては早すぎる。
恐らく、私を監視していた侍達でさえ、まだ五条邸には戻っていないだろう。入道は何も知らないはず。
となると、観照が参内した御所の方でも何かがあったと考えるべきだろう。
彼らの謀反が露見したのかも知れない。昨夜渡した連書がある。やろうと思えば一網打尽の筈だ。
では、左馬頭と観如はどう動く?己の罪を隠す為に。
そこまで考えて、瑠璃はサッと立ち上がった。
左馬頭と観如がどう考えているのか気になるが、それどころではない。サッサと逃げ出さないと、きっと逃げられなくなる。
今の最優先は自分の命、だ。
約束、したんだから!
驚く小坊主を放って、そのまま瑠璃は人気のない所から何とか外へと出ようとして、失敗した。
「私、実は方向音痴?」
余りの事にガックリ来た。
最優先の意味無いじゃない。
十二単なんて動きにくい。こんな時は男の子の水干姿であれば良かったのにと本気で思った。
結局、床下に衣は脱ぎ捨てて来たが、暫くして「女が逃げた」「盗賊だっ」「捕まえろ」「床下にいるかもしれん」「探せっ」等と喧噪が辺りに響き渡った。
このままここにいても見つかってしまう。
一番近い出口を目指して走り抜けるしかないだろうと覚悟を決めた。
走り出して直ぐに左馬頭に見つかった。
「貴様が東宮の密使だったのか?!」
「!」
抜刀して身構えた左馬の頭に瑠璃はジリッと後退った。
「一体どうして嗅ぎ付けた!」
「そんな事知らないわよ。私を殺したって無駄よ。全部東宮様はご存じだったんだもの」
「なっ…」
左馬頭は顔を真っ青にし、刀を持つ手を震えさせた。
「最初から、入道が困った人物だから、証拠を探していたのよ。そこにノコノコとあんた達が動いた」
「まさか…あの寝てばかりの盆暗が…」
どうやら東宮は昼行灯を決め込んでいたらしい。
この陰謀に先んじて気づいた先見の明を持つ東宮が、愚鈍な方のはずがない。そんな相手なら鷹男所か高彬だってあんなに尊敬したりしない。
「それで、私を殺してどうするの?東宮様は全てご承知、なのよ?」
ガタガタと震える刃先が徐々に下を向いた。
と、思った瞬間、狂気に血走った目で左馬頭が瑠璃を睨み付けた。
「…ならば……ならばっ貴様も道連れにしてくれるわっ!貴様のせいだぁあああ!」
そう言って、刀を振りかぶり、斬りかかってきた。
「じゃぁ、私が左馬頭は知らずに荷担しただけだって、取りなしてあげなくてもいいのね!」
叫んだ声は、左馬頭の動きを一瞬止めた。
その隙にドンと体当たりをした。
チリッと走った熱に瑠璃は唇を噛み締めた。
痛くなんて無い!今はそんな事を気にしている余裕は無い!
角度が悪かったのか、体当たりをした時に、腕に刀が掠めてしまったのだ。
指先をヌルッと伝う生暖かい感触と昨夜の火傷以上の熱さを無視した。
蹈鞴を踏んだ左馬頭を殴り倒し、刀を持っていた手をギリッと思い切り踏みつけてやった。
転んで力が緩んでいた所に手を踏まれて、左馬頭は刀を手放した。それを瑠璃は素早く拾い上げると、一瞬の躊躇いの後、上から刀を振り下ろした。刀など持った事もない女の瑠璃が振り下ろした刃如きで致命傷となり得るとは思えなかったからだ。
踏まれた蛙の如き悲鳴を上げた左馬頭だが、特に血を流してはいなかった。
日本刀は片刃だ。切るには切る様に持つ必要がある。当然そんな事を瑠璃が知るはずもなかった。偶然、刀の背で左馬頭を叩いたのだ。
でも、今の瑠璃にそんな事を詮索している時間はない。さっさと踵を返して出口を目指す。
手に持った刀をブンブンと振り回す。
鷹男に助けて貰った時。犬に対してやっていたのと変わらない。
なのに、あの時とは違う。
今度は鷹男は助けてくれない。
威嚇しつつ、門の方へと駆けていると、シュッと空気の切り裂く音が耳元を掠め、少し先の地面に矢が突き刺さった。
ハッと振り返れば、僧侶の癖して、襷がけに、殺る気満々な観如が嫌な笑みを浮かべて立っていた。
二射目が来ると咄嗟に体を動かす。取り敢えずジッとしていたらいい的でしかない。
本当に僧侶の癖に、何故弓の腕がいいのか。
ザクッと聞こえた音は、自分の体の内側から聞こえた気がした。
灼熱の如き痛みは今まで経験した事のないもの。
見るまでもなく、左腕に矢が当たったのだと分かっていた。
でも、まだだ。当たったのは左腕上腕部。この程度ならまだ死なない!
走れるっ!
そう睨み付ける様にして顔を上げた瑠璃だが、変人と言われていようが、お転婆であろうが、最近男の子の振りをしていようが、女で姫として育った瑠璃にそれ程の体力があるはずがない。
心や気合いとは裏腹に体は言う事を聞いてはくれなかった。
ガクリと足が縺れる。
そのまま堪えきれずに地面に転がった。
地面に自分の赤い血が少しずつ染み込んでいくのが見えた。
死ぬの?
私ここで死んじゃうの?
―――鷹男…ごめんなさい…。やっぱり約束、守れそうにない、や…。
動かない体に、仕方なく観如を睨み付けた。
勝ち誇った様な笑みを浮かべていた観如が徐々に近づいてくる。
最早瑠璃に逃げる事は出来ない。
ただ、視線を逸らすことなく睨み続けた。
と、再び空気の裂く音が聞こえたと思ったら、観如がバタリと倒れ込んだ。
なんで?と思うまもなく、馬の駆けてくる音が聞こえた。
まさか?
鷹男?
呆然としている内に、どんどんと近づいてくるその馬を操っているのは、弓矢を携えた鷹男だった。
「た、鷹男ーーーーーっっっっ!」
力の限り叫んだ積もりだったが、殆ど声になっていなかったかも知れなかった。
「っ…」
気合いで瑠璃は身を起こした。こんな倒れ伏した姿、鷹男に見られたくはない。
ガクガクと震える足を叱咤して、二本足で立つ。
まるで生まれて始めて立った子鹿の如き様相だったが、瞬間フワリと体が浮いた。
「坊主っ!」
抱きしめてくる腕の力強さと鷹男の声に瑠璃は体から急速に力が抜けていくのを感じながらも、ゆっくりと振り仰いだ。
そこには心底心配そうに、眼差しを揺らした鷹男がいた。
更にしっかりと抱き寄せられて、鷹男の胸に顔を埋める形になった。
鷹男の心臓の音が聞こえる。
早く刻まれるその音に目を閉じた。
「大丈夫か、おいっ!」
鷹男の声が直ぐ近くから降ってくる。
何て幸せ。
「大丈夫。また、鷹男に助けられた…ね。あり、がとう…」
今度はちゃんと会えた。ぎゅって抱きしめて貰えたよ、母様。
心の中で嬉しいと思いつつ、鷹男に笑いかけた。
笑いかけたつもりだった。
ポロリとこぼれ落ちた涙に、瑠璃自身驚いた。
きっと鷹男に抱きしめられて、緊張の糸が切れたのだろう。
嫌だ。自分から志願した癖に、約束だって守れなかったのに、こんなの、嫌だ。
何とか涙を堪えようとすれば、鷹男に強く抱きしめられた。
「すまないっ!早くに解決したいばかりに、性急に動きすぎた!つい、観照や陰謀に加担していた奴らを召してしまった。観照から話を聞けば、今日俺からの使者が来る予定になっていたと聞くし、嫌な予感がしたんだが、やはり使者とはお前の事だったかっ」
「?…鷹男のせいじゃないよ。だって、今日東宮様や鷹男が動いてくれなかったら、入道達の思惑通り、私は検非違使に捕まってたんだ、から……?」
あれ?
今…何か??
鷹男が変な事を言った様な気がした。
なんか、頭がふわふわとしていた。気持ちがいいというか何というか。目を閉じれば、気持ちよく眠れそうで、上手く考えがまとまらない。
「あぁ、そんな事より血が!直ぐに治療…」
「貴様、何者だ!この東宮様が建立された寺に馬で乱入する等許せぬ所業!!」
鷹男が瑠璃の血を止めようとした時、丁度左馬頭がやって来て叫び始めた。
煩いな。
ここは暖かくて気持ちいいのに。
ボーッとその様を見ていると、鷹男が一喝した。
「痴れ者!」
なぁに?と思っている内に、左馬頭は力なく座り込み、一緒にいた僧侶達は一斉に膝を付いた。
―――東宮、宗平親王様。
そう、彼らはその尊い御名を口に頭を垂れたのだ。
「東宮?宗平親王、様?」
何処に?と思い、ゆるりと視線を鷹男に向ければ、少しばつの悪そうな表情で鷹男が「騙していて悪かった」と小さく他の誰にも聞こえない様に、一言謝った。
「東宮、様なの?」
霞がかった頭で理解すると、ドキリと心臓が音を立てて疾走し始めた。
鷹男が東宮?東宮様だったの?
そんな、の……。
鷹男の腕の中で、身動ぎ抗うが、思うように動けなくてもどかしく。
そして、フワリと意識が拡散した。
聞こえなくなる周囲の音。
私を呼ぶ鷹男の声。
もう、どうでもいい様な気がした。
鷹男は東宮だったのだ。
身分はそれなりな公達だろうとは思っていた。雑色だなんて信じていなかった。
でも、東宮だなんて、酷い。
いずれは帝になる、雲の上の人だ。
高彬の姉上様が女御様で、既に綺麗で帝に相応しい奥さんがいる。
こんな。
叶いっこ、ない恋。
酷いじゃない。
瑠璃は男の子の振りをして。
鷹男は雑色の振りをして。
お互いが見ていたそれは真実のものではなく、仮初めの姿で。
真実に気づかず、鷹男に対して葵と言う男の子の振りをし続けた。演じ続けた。
それは鷹男の傍にいたかったから。
隠していたのはお互い様だけれど、恋をしたのは私の方だけだなんて。
なんて皮肉。
―――想うが故に、それは蜃気楼―――
@12.02.23>
それに、前向きで強い所のある瑠璃にしたかったんですが…。上手く書けているやら??
その一方、鷹男は?と言われると、動きが殆ど読めませんね(汗)
でも、この辺りまでは特に鷹男独自の動きって少ないのですよ。殆ど原作沿いなお話しでしたので。
問題はこの後。どうしよう〜☆