ゆらゆらと揺れていた。
ふわふわと浮いていた。
随分と、心安らぐ場所だった。暖かい温もりと心地よい香りに包まれていた。何時までも微睡んでいたいと願う程に心地よく、そのじんわりと心の中にまで浸透する様な暖かな温もりと香りが気持ちよかった。
知らず指先が探す。
触れたそれを掴む。
笑む。
幸せだった。
優しい手が褒めてくれるかの様に頭を撫でた。
そして、包み込まれる、幸せ。
「ふふ…」
笑みが零れて、柔らかく頬を撫でる感触にくすぐったいと首を竦めた。
でも、その慕わしさに頬をすり寄せた。
触れた。
温もり。
ゆらゆらと。
微睡む意識は混濁し、ハッキリとは何も分からない。
「…もっと…」
強請る。
与えられる温もり。
途轍もない幸福感の中、瑠璃の意識は更に深く沈み込んでいった。
◆◆◆◆◆◆
「ご飯っ!」
いい匂いにつられて急速に浮上した意識が最初に聞いたのは自分の言葉だった。
「え?」
そして手にある温もりは白湯の入ったお椀。
「あれ?」
何故に自分がここにいて、お椀を持っているのか分からない。
周囲で呆気に取られている女房達に誰一人として知った顔はない。
部屋の様子も全く知らないもので、瞬間、頭の中で床下で死んだのではないのか?と思い出した。
「……」
「目が覚められたと、ご報告を…」
「承知致しました」
瑠璃が警戒に黙ったまま周囲の様子を伺う様にすると、周囲にいた女房達が驚きから立ち直ったのか、動き始めた。
しずしずと行動する彼らが、雅で、それなりな立場の者達だと分かる。
ハッとなって己の衣を確認すれば、男の子の水干姿のままで、心底胸を撫で下ろした。
「あの…こちらは?」
「こちらは先の帝の内親王、女八の宮様のお邸ですわ」
鷹男縁の二条堀川邸?一体どうして?
「どうしてここに…?」
「それは…」
女房が言葉を濁して、答えてはくれない。
どうやら答えては貰えなさそうだと、別の質問をすることにした。
「どれ程の間、気を失って…?」
「こちらにお着きになって、然程なくお目覚めになられましたが、どれだけ気を失っていらっしゃたのかは私どもには分かりません」
「…そうですか」
一体どれ程の時間が経ったのだろうか。融も小萩も心配しているに違いなかった。
余りにも今回自分が首を突っ込んだ事が、危険なもので、これからどうなるのかと不安が過ぎる。そもそも床下で刀を突きつけられて気絶したのだ。
だが、ここが鷹男に縁のある二条堀川邸だと思いだして、瑠璃の心は凪いでいった。
鷹男か若しくは鷹男の仲間に助けられたと考えるのが妥当だろう。ならばやはり鷹男らしき男の後を付けてあの邸に入り込んだ訳だが、あの融ともめていた男は鷹男で間違ってはいなかったと言う事だろう。
そんな事を思っていると、衣擦れの音と共に、新しくその場にやって来た人はとても美しく、艶やかな女人だった。
「女八の宮、藤の宮様でいらっしゃいます」
女房の言葉に瑠璃はハッとなって見つめた。
二の姫もとても可憐で美しかったが、この人は大人の女人の艶やかさを持ちながら、何処か少女の如き清らかさを併せ持った美しい人だった。二の姫の様な儚さではなく、美しいけれども、その芯の強さを感じさせる、キリリとした眼差しが印象的な美女だった。
この方が藤の宮様。鷹男が仕えているのかも知れない人。ううん。鷹男の恋人…かも知れない人。
なんて綺麗な方。
ひたひたと悲しさが瑠璃の胸を満たした。
「気分は如何ですか?」
心配げに発せられた声も、高すぎず低すぎず、済んだ美しい声だった。
「何ともない…です」
気分は最悪だったけれど、身体的には何ら問題はなかった。
「そう。良かった。お前達はお下がり」
その言葉で、近くに控えていた女房達が全員姿を消した。
「大納言様縁の葵様…で宜しいかしら?牛飼童が、葵様を返せと煩いので、仕方なく雑舎に閉じ込めてありますの。ごめんなさいね」
瑠璃はゴクリと唾を飲み込んだ。
にこやかな風情を裏切る窺う様な眼差しは、瑠璃が先程警戒したのと同じ様に、警戒しているのが如実に表れている。
「私どもも、全てを極秘の内に行わねばならず、騒ぎを起こされると困るのです」
鷹男に縁がある。それだけで瑠璃には藤の宮を信じるに十分だった。もし、これで命を落とすようなことになったとしても、それは鷹男の真実を見抜けなかった己の不甲斐なさが原因だ。そんな男を好きになった自分が悪いと諦めもつく。
だから、あるがままに話をする事にした。
切られた融を心配して後を付ける事にした事。そうしたら二条堀川邸に着いた事。融が誰かと争っていたと思ったら、ばったりと倒れたから、殺されたのかと思った事。気絶しているだけと知って、犯人の後を追いかけた事。見失った辺りの邸に相手がいるのかと、忍び込んだら、迷子になって外に出られなくなった事。そしたら、突然刀らしきものを突きつけられて、気を失った事。
藤の宮は自分に懸想している融が事の発端と知ると、実に居心地悪そうに頬を赤らめていたが、それすらも可愛らしく、魅力的だった。
「まぁ、なんて言う偶然なんでしょう…」
「はい。偶然、でした。別に聞きたくて聞いた訳じゃ、無かったんです」
「聞きたくてって、まさかっ…」
緊張感が急激にその場を支配した。
真意を探る様に見つめてくる藤の宮を瑠璃も覚悟をもって、ジッと見つめ返した。
きっとこの件に鷹男は係っている。
鷹男が何をしているのか知りたい。
だから、敢えて言った。
迷惑ばかり……掛けてしまったから。
そう思い、逆に自分が鷹男の事を知りたい、と思う事こそが、鷹男にとっては迷惑なのかも知れないと気が付いて、小さく唇の端を歪ませた。
それでも、鷹男の事を知りたい。鷹男の為に何かしたい。
嘘。
鷹男の為なんて、嘘。
結局は、自分の為。
鷹男の……。
傍にいたい、それだけ。
あんなに、会いたいけど、会いたくないとか思っていた癖に、今近くにいるかもとか思うだけで心がソワソワしてしまう。
恋は何て自分勝手で、矛盾だらけなのだろう。
すれば、スッと几帳の影から出てきた相手の顔を見て、瑠璃は知らず体の力を抜いていた。
姿を現したのは鷹男だった。
「…鷹男……」
藤の宮の声で聞く鷹男の名は、何故か今までの自分が知っている“鷹男”とは違う響きがして、寂しかった。
「これではこのままお帰しするわけには…」
瑠璃は口を閉ざしたまま、困惑顔の藤の宮の隣に優雅に座る鷹男をジッと見つめた。
最後に会った時より少し痩せたかも知れない。
忙しいのかな、そんな風に思った瑠璃を尻目に二人は会話を続けていた。
「そうですね。帰せなく…なりましたね……」
とても苦しそうな表情を浮かべた後、静かに瞼を閉じて瞑目した鷹男が、目を開いた時には一切の感情が窺い知れない、冷たい表情となっていた。
ドキリとした。
こんな表情の鷹男もいるのだと、怖いよりも嬉しくなった。
色んな鷹男をもっと知りたかった。
「葵様、こちらの者は、とある者よりお預かりしている雑色の鷹男と申します。先程、葵様に刀を突きつけてしまったのはこの鷹男ですの。弟君を斬りつけた事も、今宵の事も、本当に申し訳ありませんわ。鷹男に代わり、お詫び致しますわ」
「そ、そんな。藤の宮様、頭を上げて下さい。そもそも融も不躾でしたし、私も跡を付けたりしたのが悪かったのですから」
「葵様…」
ホッとした風情の藤の宮に頷いた後、黙ったままの鷹男に瑠璃は小さく笑いかけた。
「鷹男は雑色になんて見えない。今まで敢えて聞かなかったけど、一体どう言う身分?」
聞けば、ギリッと睨み付けられた。でも、怒るという事は、痛い所を付かれたと、そう言う事。
「睨み付けたら、肯定になっちゃうじゃない。馬鹿だな、鷹男…」
クスクスと笑う。
瑠璃の鷹男に対する砕けた言動に、藤の宮は驚いた様だった。なので、鷹男が葵は以前からの知人なのだと、渋々という感じで説明していた。
私と知り合いだという事を説明するのがそんなに嫌なのかと悲しかった。
「まぁ!元から知り合いだったなんて…なんて言う偶然なんでしょう」
「本当に、そうですね」
藤の宮に対してはどうしても口調が“瑠璃”になってしまうが、仕方がないだろう。
きっと、このまま鷹男が一体どういう身分なのかと言う質問ははぐらかされてしまうのだろうと思ったけれど、最早そんな事はどうでも良かった。
偶然、融が懸想したのが藤の宮様で。
偶然、私が懸想したのが鷹男で。
本当に。
なんて、皮肉な姉弟。
だって、ほら。こうやって並んでいる鷹男と藤の宮様のなんてお似合いな事。
美男美女で、うち解け合った雰囲気は、仲のいい恋人同士の様で、主従の繋がりとはとても思えない。
叶いっこない。
でも、気にしても仕方がない。
私は鷹男の前では“葵”なんだから。
浮かべた笑みが、やっぱり不自然だったのか、藤の宮と鷹男がハッとした様に息を呑んだので、瑠璃は首を傾げた。
「何か?」
「いいえ、何でもありませんわ」
首を傾げれば、何でもないと藤の宮に首を振られたのだった。
「全く…坊主らしいと言えば坊主らしいのか。流石にお前に気づいた時は、心臓が飛び出るかと思った。無茶をする。俺にお前を切らせる気だったのか?」
少し泣きそうな、苦しそうな顔で言うそれは瑠璃の知っている鷹男だった。
逆に藤の宮は初めて見るのか、目をまん丸にしていた。
それが、ほんの少し、嬉しかった。
「あ……ごめんなさい」
でも、下手をしていれば、自分は鷹男に切られていたのだと、今更に気が付いた。
そんな事にならなくて良かった。
鷹男に、そんな事をさせたくはない。
鷹男の大きな手で、雑に頭を左右に撫でられた。体も左右に揺れるが、それが許してやるよと言っている様な気がして、もう一度、ごめんなさいと謝った。
「で、お前の事だ。何処まで気づいた?」
「?鷹男…?」
不思議そうな藤の宮が呟いたが、鷹男はチラッと苦笑気味に視線を流しただけで、そのまま瑠璃の言葉を待っていた。
その眼差しが、お前ならと認めてくれていて、嬉しかった。
「高彬に聞いた。東宮様の譲位に関連して、色々あるって。だから、「正良親王が東宮になられたならば」ってあの一言で、現東宮を廃しようって陰謀かなって思った。流石に不味いって思った。だから、逃げようとした所で…」
「俺に刀を突きつけられた…か。相変わらず敏いし、勘もいいな」
苦笑を浮かべた鷹男は、仕方がないと簡単に説明をした。
先の左大臣が己の姻戚の皇子を帝にしようと画策し、現東宮を廃する為に色々と暗躍している人物だと言う事。
その先の左大臣が、先程瑠璃が忍び込んだ邸の主人である大海の入道の事だと言う事。
だから、後見の弱かった東宮に娘を入内させ、後見となった右大臣家が入道にとって目障りで仕方ないと言う事。
実際、現東宮が東宮として立たれたのは、右大臣家の姫を妃とした事で、後見を得たからと言う事。
そんな、情とは無縁の世界の話を聞いて、流石に瑠璃も心が少しヒンヤリと冷たくなった。
「東宮様も、そんな理由で結婚しないといけないなんて、大変だね…」
ポツリと漏らした瑠璃の言葉に、鷹男のみならず藤の宮も目を見開いた。
藤の宮は直ぐに目を反らしたけれど、鷹男は心底不思議そうな顔で瑠璃をジッと見つめていた。
「え?な、なに?変な事言った?」
「いいや。普通の事を言ってくれただけだ。きっと東宮様もお喜びになられるだろう。そう言う普通の事を言ってくれる人は、御所にはいないからね」
「そうなんだ…」
「取り敢えず、そんな訳で、入道の動きに感づかれた東宮様より命を受けて、極秘で陰謀の証拠固めの調査をしていた…と言うのが概略、だ」
「ふーん……」
やっぱり鷹男は仕事で調べ物をしていたんだ。その途中で私に何度も会っていたのだ。
不思議な縁。
きっと、髪を切らなければ絶対に会う事はなかった。
“葵”だからこそ、出会えた人。
でも、“葵”だからこそ、想いの決して届かない人。
ううん。“瑠璃”としてだって……。
ちらり、と鷹男を見た。
すれば、凄く嫌そうに鷹男は眉根を寄せた。
「坊主…本当に驚いてないな」
「そんな事はないよ。ただ、床下で話を聞いて、あぁ、だから鷹男とは良く会ったんだなって思ったから」
「はぁ〜…。本当に良く気が付くな。あんな状況で…」
「そうかな?」
お互いに、苦い笑みを浮かべた。
気づいたのはきっと鷹男の事だからだ。
「以前、鷹男が追われているのを助けた時。あの時から鷹男は何か仕事で用事があるんじゃないかなって思ったから。それで、鷹男らしき人を見失った場所であの陰謀話。誰だって、結びつけるでしょ?」
「いや、普通出来ないさ」
少しは鷹男に認められているという事だろうか。そうだったらいい。嬉しい。
「と言う事で、坊主。この件は口外無用。俺も暫くは忙しくなるから、前みたいに会えなくなるだろうし、二度と入道の五条邸の辺りには近づくなよ」
「………」
会えなくなる。
やっぱりそうなるのかな。仕事だから仕方がない。
でも。
少しでもいいから、傍にいたい。
きっと、この陰謀が解決してしまえば、もう本当に会えなくなるだろうから。
この陰謀を鷹男は調べていたのだ。それが終われば、もうこの辺りに用はないだろう。それ位分かる。
だって、藤の宮が“とある方”から預かったと言っていた。皇女である藤の宮が“とある方”なんて言う相手なんて、本当に限られてくる。
鷹男が一体どう言う身分の者で、誰なのか分からないけれど、恐らくは“葵”がこんな風に気軽に会える様な相手ではないのだろう。
だから。
せめて、この陰謀の間だけでも、傍にいさせて。
手伝わせて。
危険でも何でも構わないから。
「坊主?」
鷹男は眉を寄せて、不審そうな顔をした。
ごめんね、鷹男。
「鷹男。何か手伝わせて」
静かな声で告げ、驚いた後、眼差しを厳しくした鷹男を決意を込めて見つめ返した。
@12.02.20>
入道の事件は基本原作通りなので、さらっとしつつ、瑠璃と鷹男の気持ちの方に重点をおいていこうと思います。
……って、何時も通りか……☆