「信じらんないっっ!」
続いてバキッと言う大きな音がたった。壊れた脇息が無惨な姿で転がっていた。
その脇息を投げ飛ばした瑠璃は興奮の余り、荒い息を吐いていた。
「瑠璃様…」
オロオロとした風情の小萩が傍にいるが、なんと言っていいのかと言い倦ねている様だった。
「あんただって酷いって思うでしょっ!」
怒鳴る瑠璃に小萩は身を竦めた。
「なんだって、実の父に、よ、夜這いを仕組まれなくちゃならないのよーっっっ!」
「そ、それは姫様の事を思って…」
小萩の言葉を瑠璃は遮った。
「そんなの余計なお世話よ!実の、本当の父親が娘の元にお、男を寄越したのよーっ!納得なんて出来るもんですかっっ!!」
ゲシッ!
瑠璃は傍に転がっていた壊れた脇息を蹴り飛ばした。
「ひえっ」
脇息がゴロゴロと転がって庭先に落ちていったのを、小萩は小さく悲鳴をあげて見送った。
「あったま来たーっっ!」
チャキン。
通常なら聞きようないはずの金属の音に小萩は目を見開いた。
「る、瑠璃様っっ何を!!」
咄嗟に小萩が出来たのはそう口にする事だけだった。
ザクッ…。
ひらひらと、舞い落ちる黒き川の如き流れ。
「ひっ…」
余りの眼前の出来事に小萩はそのまま気を失った。
瑠璃は手にもっていたそれをジッと見つめた。
流石に瑠璃も手の内にあるそれを凝視し、倒れた小萩を気にする事は出来なかった。
それでも後悔はしていない。
そう思いながら、瑠璃はギュッとそれを何時までも握りしめていた。
それは長い、長い、漆黒でありながら、美しく艶を放つ黒髪に違いなかった。
◆◆◆◆◆◆
とても天気がよく、瑠璃は誘われるように邸の外に抜け出していた。
フラフラと洛中を一人歩く。
周囲にいるものは誰一人として知らない。でも、それを怖いと思ったのもほんの僅かな間で、今ではすっかり馴れてしまった。
瑠璃は本当なら摂関家の流れを汲む、大納言藤原忠宗の一人娘であり、高貴なる身分のはずなのだが、結婚を了承しない娘に業を煮やした父が計画した既成事実の為の夜這い事件があって、怒り心頭の余りにその長い黒髪をバッサリと切ってしまったのだ。
適当に掴んで切った為、小萩が涙ながらに整えた髪は背中の中程まではある。一般的男性が髪を下した状態より、少し長いと言う程度だ。どちらにしてもやんごとない姫君の様相ではあり得ないものとなっていた。
幼馴染みで筒井筒であった吉野の君が死んでしまって以来、自分は誰とも結婚しないのだと明言していた。
好きなのは吉野の君ただ一人。他の誰と結婚すると言うのか。
それが瑠璃の言い分だった。
短くなった髪で、もう結婚しろとは言うまいと瑠璃はフンと鼻息荒く、愕然とした忠宗を睨み付けた。
これには流石の忠宗もひっくり返った。
髪の短い姫などあり得ない。結婚所ではない。最早出家しか道は残されていないも同然だった。
何て浅慮な事をと怒りつつも、娘の有様に悲嘆に暮れた忠宗にほんの少しやりすぎたかな?と思いつつも、やはりこれで良かったのだと瑠璃は自分に言い聞かせた。
ただ、外聞の事もある。だから、瑠璃は男の子の振りをする事にしたのだ。
今だって、浅葱色の水干姿で髪を後ろの上の方で一つに纏めると、どこからどう見ても、元服前の男の子そのものだ。
違和感がないなんて…と、16才の瑠璃が些か落ち込んだ事は誰にも内緒だった。髪を切り、男の子の振りをする事を選んだのは他ならない自分なのだから。
そんなこんなで、現在の瑠璃は男の子の生活を満喫し、結構自由に振る舞っていた。
初めて知る自由の幸せを謳歌していた。
「おう、葵。今日はどうしたんだ?」
最近顔見知りになった店の主人が声を掛けてくる。
葵とは、瑠璃の事だ。男の子としての別の名前が必要になり、葵と言う名にしたのだった。瑠璃色は青色のことだから、音から“あおい”と付けたのだ。安直だが、瑠璃は実は結構気にいっていた。
「今日は天気がいいから、川にでも行こうと思ってさ」
「確かに気持ちよさそうだな。気をつけて行っておいで」
「ありがとう。行ってきまーすっ」
笑顔で見送る主人に瑠璃も笑顔で手を振った。
洛中の人々は全員が全員、安全と言う訳ではない。中には盗賊もいれば、それなりに身を持ち崩した者も多い。
最近では、それらの区別も大分付くようになっていた瑠璃だった。
川に来れば、太陽の日差しを受けた水面がキラキラと輝いていた。その水面に映った自分の姿に瑠璃はフッと笑った。
水干姿の男の子だ。後ろで一つに纏めているだけの、年の割に小さく華奢ではあるが、普通のごくありふれた姿だ。
だれも、これが大納言家の姫だなんて気づきもしない。
女だなんて誰も思いもしない。
そう、これでいい。
瑠璃はあの時死んだのだ。
髪を切った時に。
いいや、吉野の君が死んだ時に。
川面を見つめながら、死んだ時―――そんな事を思った時にふと過ぎったもの。それは懐かしい思い出とも呼べない記憶だった。
瑠璃の記憶には殆ど残っていないのだが、吉野で幼い頃に高熱を発した事があった。一時期は本当にもう駄目かと医師にも言われる程だったのだが、何とか持ち直したのだ。その時に吉野の君がくれた薬はあの菫の花と同じ位、忘れられない思い出の一つだ。
ただ、その時、夢を見た。
記憶は酷く曖昧だった。熱のせいだろう。
そこは川岸で、知らない場所で、男の子と出会った。。
今思えば三途の川か?と思うが、実際どうだったのかは分からない。
男の子は吉野の君とは違った意味で綺麗な顔をした子だった様な気がするのだが、酷く気に入って、一緒に遊んだ…ような気がしている。記憶がハッキリとしていないのに、やけに楽しかったと言う気持ちだけが残っている。
後日、御祖母様に高熱に魘されている癖に楽しそうな顔をしているから、本当に心配したのだと言われた位だから、楽しい夢に間違いなかったのだろうと今でも思っている。
煌めいている川面に岸辺に咲き乱れる花々。吹き抜ける風は爽やかで、思い切り空気を吸うと気持ちが良かった。
あの男の子は誰だったのだろう。今、彼はどうしているだろうか?
ふと、そんな事を思って、笑みを浮かべた。
実際にあの男の子に会えるとは思えないし、あれが三途の川だと言うなら死んでしまっているかも知れない。
“今どうしているか”なんて、考えても仕方がないのに。
「何で急に思い出したんだろう…」
きっと、夢の中と同じ様に岸辺に座り、“死”について考えたからだろう。
死にかけた時の夢の話だ。いい印象などなくて当然なのに、何故か思い出すと勇気づけられるので、今までに何度も懐古したものだった。
そして今も思いだし、とても暖かい気持ちが胸に溢れて来た。
あの夢の想いが甦ってきたようで懐かしく、キュッとその思いを噛み締めた。
嬉しくて、幸せで、理由なんてどうでもいいと思えた。
「…坊主?どうしたんだ?」
と、折角懐かしくも幸福な感覚に浸っていたのに、声を掛けられた。
「え?」
振り返れば、狩衣姿の青年が立っていた。
酷く顔の整った、所謂、美青年と言う単語の似合う男だった。
切れ長で涼やかな目元に、スッと筋の通った鼻筋。男らしくキリリと引き締まった口元。緩く波打つ前髪も艶々と美しい黒髪。一つ一つが男らしいのに、不思議とそれらが合わさった全体は華やかさを持ち、人目を惹いた。
でも、その中でも瑠璃が一番、目を奪われたのはその目だった。
強い意志を宿した生気に溢れた目が生き生きとしていた。
何処かで会った事があるような気がしたが、こんな印象的な男を忘れるはずがないから、気のせいだろう。
「川に何かあるのか?そんな場所では魚も獲れまい?」
言われて、やっと我に返って返事をする事が出来た。
「いいんだよ、ただ水面を見て懐かしんでいただけなんだから。邪魔しないでよ」
思い出を懐かしんでいたとは言え、今までずっと忘れていた程度のものであり、声を掛けられた事など大して気に障る事でもない筈だった。なのに、邪魔をされたのが酷く感に障った。
瑠璃がツンと答えれば「すまんな」と青年は苦笑を浮かべた。
「邪魔して悪かったが……ここから離れた方がいいんじゃないか?」
そう言うと、瑠璃に顎で上流の方を示して見せた。
こんな見知らぬ、突然話しかけてきた男を警戒しないはずがない。煩いな、と思いつつも、見知らぬ青年に示されるまま上流をチラリと見遣ると、そちらから風体の如何にも悪そうな男達が5〜6人徒党を組んで歩いて来ていた。
ああ言うのに絡まれると厄介だ。今の瑠璃は男の格好をしているとは言え、一人きりでこんな所にいるのだ。何をされるか分かったものではない。
男達に気づかなかった事が悔しかったし、あんな如何にも無粋な奴らのせいで、折角のひとときを邪魔されたのが腹立たしかった。
バッと立ち上がる。
そんな瑠璃を見て青年は「だろ?」と肩をすくめて見せた。
瑠璃はそんな男をジッと見つめた。
その男の目は真っ直ぐに瑠璃を見つめていて、真摯なものだ。この人は悪いヤツじゃないと思った。
でも、彼奴らも気に入らなければ、此奴も気に入らなかった。
何故かこの唐突に訪れた懐かしい記憶の残滓はもう二度と戻ってこない気がした。だからこそ、彼が悪い訳ではないと分かっているのに、壊された事への腹立ちが大きくて、当たり散らしてしまいたくなる気持ちを宥める為に、ジッともう一度川を見つめた。
「………有り難う」
「どういたしまして」
漸くと言った感じで礼を言えば、男はニコリと笑った。
男が笑うと酷く親しみやすいが、男の癖に、より一層、華やかな雰囲気になった。ついさっき、気に入らないと思った筈なのに、ほんの少しだけドキッとした。
やっぱり、懐かしい?
でも、そんな筈がない。会った事もない相手なのだから。こんな顔のいい男、一度会えば忘れる筈がない。
「取り敢えず、行こうか」
「え?行くって何処へ?なんで?」
そのままいなくなると思っていた青年は瑠璃にそう言って促してきた。
「奴らの反対方向、かな。俺も彼奴らとは近づきたくないからな」
パチンと片目を瞑って見せた男に瑠璃は頷いた。
「あぁ、そう…だね」
同じ方向に行く、と言うだけの事だ。何を驚いたりしたんだろう?
変、だよね?
同じ方向へ一緒に行けるのが何となく嬉しいと感じるなんて。
変、だよね。
「しかし、坊主。なんだってこんな所に一人でいたんだ?」
青年が歩きながら話しかけてくる。
坊主。そう、今の私は“坊主”。間違いじゃない。水干姿で元服前の男の子。
それが何で坊主と呼ばれる事が、こんなに腹立たしく感じられるのだろう?
変、だ。
「坊主じゃない。葵だっ」
「葵?お前の名前か?」
葵…葵か…そんな風に瑠璃の名を男が呟く。まるで極上の酒を舌で転がして味わうかのように。酷く恥ずかしい様な切ないようなそんな気がして、瑠璃は慌てて言った。
「あんたは?」
「あぁ、俺は鷹男。雑色なんだ」
ただの雑色と言うには、その立ち居振る舞いや、その身に纏う雰囲気が上品且つ雅だったが、気にするべき事ではないと思った。
「鷹男…そっか。今回は、声を掛けてくれて有り難う」
「どういたしまして」
背後の様子に気をつけながら、洛中の方へと向けて歩く。
人が多くなると立ち止まった。
「?」
鷹男がジッと瑠璃を見つめてくるから、首を傾げた。
「じゃぁな。次からは気をつけろよ、坊主っ」
「う、煩いなっ!坊主じゃない、葵だっ!それに、今日は偶々だっ!いつもはちゃんと気づいているんだからっ」
「あはは」
子供扱いされたのが悔しくて、意地を張った物言いをすれば、鷹男は高らかに笑いながら去っていった。
きっと二度と会う事はない。
それが寂しいと感じる自分に首を傾げながらも、鷹男の後ろ姿を黙って見送った瑠璃だった。
@12.01.04>12.02.13>12.03.11>
あとがき
瑠璃がさっくりと最初に髪を切ってしまったお話し、プラス、瑠璃を男と思っている鷹男とのお話しを組み合わせました。
どちらか一つでは、つまらんだろう、と二つを合わせ、その上、最初は余り仲が良くない癖に、気づけばお互いにメロメロ…な私的萌え設定(笑)も追加しました。(成功しているかどうかはさておき…)
したら、ノリノリでこの一章が書き上がったのですが、そんな事で、入道の事件と搦めると、仲の良くない瑠璃は鷹男を助けないので(笑)、この一章はほぼ『出会編』でしょう。
『自覚編』とも言えますけど。
このシリーズについてのみリニューアルしました。鷹男編のせいなんですが…。
暫く、お付き合い頂ければと思いいます。