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『本当のキモチ 三話』

 

 結局瑠璃は、猫の事をルリとは呼べずに猫、と呼んでいた。照れくさい感じがして、呼びかける事が出来なかっただけなのだが。
 小萩などにはルリと言う名前らしいと伝えておいた。
 何か、喜んで女房達が猫をルリ、ルリ、良いながら追いかけたり、叱ったり、可愛がっていたりするのが、何とも瑠璃自身の身につまされる。
 別に瑠璃が言われている訳ではないのだが、どうしても瞬間、自分の事の様に感じてしまう。
 それに女房達も、その辺りは分かっていて態とやっているのではないかと思われた。
 そこに悪意を感じる訳ではないから、気にしてはいない。
 瑠璃は女房達を軽視する事もないし、身分や血筋を笠に着て、傲慢で高飛車な言動をする事もない。
 嫌われてはいないと思う。
 だが、女房達からすれば、瑠璃は仕える主人の娘である大姫だ。
 滅多な事を言えない相手と同じ名前を気軽に口に出来るのが嬉しかったのか、只単に楽しんでいるのかの判断は瑠璃にはつかなかった。
 ただ、同じ名前だからと虐められる事がなかったのは良かったと安心した。
 何故か一番猫のルリが気に入って懐いているのが瑠璃で、べったりだった。
 愛嬌があって、愛らしい猫は瑠璃とて嫌いではない。
 蒼い目のルリは正に猫らしく、自由気ままで、我が儘で、正直だった。

 好きなものは好き。
 嫌なものは嫌。
 そして、瑠璃が好き。
 ただ、好き。
 可愛くないはずがない。

 そんなルリの素直さや嘘のない正直さが何よりも羨ましかった。
 同じ名前なのだ。
 瑠璃だって、正直に生きてみたい。

 鷹男の本当の気持ちは分からない。
 それでも自分の本当の気持ちは分かってしまったのだから。

 他の人が居るのは嫌。
 でも、離れ離れはもっと嫌。
 黙って、我慢するなんて…。

 ルリを見ていてそんな風に勇気づけられた瑠璃は、このまま飼えればいい、と思う反面、元の飼い主の事が気になった。
 だって、猫に“ルリ”と名付けた人物なのだ。
 勿論、瑠璃の事を知っていて、そう名付けたとは限らないが、気になって仕方がない。
 小萩あたりにそんな話をすれば、女房達が喜びそうな設定をつらつらと言い出して、驚きもした。
 詰まる所、瑠璃に懸想した公達が、叶わぬ思いに猫に同じ名を付け、可愛がっている、と言う様な設定だ。
 そう言われて真っ先に頭に浮かんだのがやっぱり鷹男で、瑠璃は自分で自分に驚いた。

 何で鷹男が真っ先に思い浮かんだのか。
 理由なんて簡単。
 瑠璃がそうであって欲しい人が鷹男だからだ。

 知らず瑠璃の頬が赤く染まる。
 でも、鷹男がそんな事をするだろうか?
 疑問にも思う。
 実際、何度か鷹男にそれらしい事を仄めかされた事はあるが、自分から逃げる様に誤魔化したり、聞き流したりして、鷹男が何処まで瑠璃の事を本気なのかも分からない。
 自分に自信なんてない。
 鷹男がそうする程、瑠璃の事を思っているだなんて自信は。

 だからこそ。

 自分なんかが鷹男に本気で愛されているとは思えない。
 他の女御も女君もいる、後宮の美しい華の中で自分が選んで貰えるとは思えない。
 選んで貰えたならいいと思うけれど。

 逆に鷹男だったら自信があるんだろうなと思った。
 あれだけ美男子で、権力も血筋も財力も頭脳も能力も持ち合わせているのだ。
 自分自身に自身を持っている鷹男が猫に好きな女性の名前を付けて愛でているなんてそんな姿が想像も出来ない。
 そんな事をするとは思えない。

 でも。

「ふふふ…」
 つい、猫を抱きしめて『ルリ』と満面の笑みで微笑みかける鷹男を想像して、瑠璃は思わず笑みをこぼした。
 格好いいのに、可愛い、だなんて。
 思ってしまった。

 結局、好きって事なのよね。

 そう思った所で、不思議そうにしている小萩と目があって、誤魔化す様に笑った。
「物の怪憑きと噂される私の事をそんな風に想ってくれる公達なんて、いないと思うんだけど」
「それはそれですわ。乙女の夢と言うヤツでございますもの」
 そんな事百も承知の上で、夢見ただけだと公言する小萩に今度は本当に苦笑して見せた。
「ルリ…かぁ」
「んな…」
 最近では、この三条邸一の人気者の猫は疲れて眠っているにもかかわらず、その音に反応して、小さな声を上げた。
 だが、眠ったままで、目を開けてすらいない。
 そのぞんざいさが、何とも猫なのだな〜と思わせる。
 でも、きっとルリは元の飼い主にそれは愛されていたのだろう、と思った。
 愛される事に馴れている様が瑠璃にもよく分かった。

 まさかね。

 鷹男が飼い主の筈がない。
 そう思いつつも、そうだったらいいと思わずにはいられなかった。

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

 翌日。猫が三条邸に来てから3日目。
 昨夜も猫と一緒に眠った瑠璃は鷹男に逢いたくて堪らなくなった。
 きっと、昨日小萩があんな事を言うからに違いない。
 猫を抱きしめながら、酷く寂しく感じられたのは。

 文でも、送ってみようか。

 そんな風に思い立ち、外を見れば、抜ける様な青空。
 気持ちの良い風が白い雲を流している。

 吉野で、思っていた。
 何時か聞きたい、と。
 鷹男に逢いたい、と。

 何時だって冗談交じりだったけれど、その言葉がただの冗談なのか、それとも瑠璃がきちんと真面目に聞かなかったから冗談にしてくれていたのか。
 鷹男は帝で。
 私は大して美人でもなくて。
 でも、だからと言って、黙ったまま引き下がるなんてあり得ない!
「ね、ルリ!」
「んにゃ!!」
 元気よく、ヒョイッと瑠璃が引っ張った紐が空を飛び、良いタイミングで飛びかかろうとしていた猫の瑠璃も、その紐を追いかける様にして、空を飛んだ。
「お、流石あんたもルリなだけあるわね」
 見事なお転婆っぷりを披露している猫を見つめた。
 着地しても、紐を追いかける猫はもう瑠璃の事など見てもいないけれど。

 正直な猫のルリ。
 元気いっぱいで愛嬌あって、みんなの人気者。

 同じ名前なのだ。

 猫に負けてたまるもんですかっ!

 

 と、気合いを入れた所で、父の忠宗がやって来た。
 じーっと猫を見つめた忠宗はそれは重々しい溜息を吐いた。
 そうして、猫について色々と話を聞きたがった。
 どうやら融だけではなく、忠宗も猫について何か思い当たる節がある様だった。
 余計に気になる。
 融と父様は立場が違う。
 父様が知っているとなると、本格的に飼い主は鷹男か?とドキドキした。
「父様、猫の飼い主、誰だか知っているの?」
「ん?…あ、あぁ…いや……まぁ…。うむ」
「一体どっちよ」
 どうしたものかと視線を僅かに揺らした忠宗だが、瑠璃を真っ直ぐに見つめたかと思うと答えた。
「先日秋篠権中将に三毛猫で蒼い目の猫が帰ってこなくて困っていると聞いたのだ」
「え?秋篠…様?」
 予想外の名前に瑠璃は内心がっかりした。
「秋篠様が猫にルリって名前を付けたの?」
「何?名前??」
 驚く忠宗に瑠璃は詰まらなそうに頷いた。
「うん。小萩が瑠璃様って私の事を呼ぶと猫が反応するの。だから、猫の名前がルリだって分かったの。ルリって呼べば寄ってくるわよ」
「なんとっ!」
 何がそんなに衝撃的なのか分からないが、忠宗は口をパクパクとさせたまま、暫くは言葉もなかった。
「父様?」
「あ、あぁ…名前までは聞いていなかったからな。それでは違う猫だったか…」
 いやいやいやいや、違ってくれねばっ!
 ブツブツと呟いている忠宗を瑠璃はまともに気にしていなかった。
 いつもの事だからと言うのもあるが、飼い主が秋篠かもしれないと聞いて、酷く残念だったからだ。
 秋篠の事は瑠璃も好感を持っている。
 何度も吉野の里まで鷹男の文を持ってきてくれた。
 その時も、瑠璃の事を物の怪憑きの姫と馬鹿にする風もなく、本当に普通に接してくれていたのが結構嬉しかったのだ。
 もし、秋篠の猫なら、ルリと言う名前は偶々か、秋篠以外の誰かが付けたのだろう。
 敢えて、ルリと名付ける理由なんて秋篠には無いはずなのだから。
 秋篠が瑠璃に懸想しているとは夢にも思わない瑠璃だった。
「そうか…ルリ、か……あぁぁぁぁぁ…まさか…」
 最後まで、ブツブツと何事かを言いつつ忠宗はヨロヨロと帰っていった。

 

 一人になって、瑠璃はどうしようかと思った。
 もう既に鷹男に文を書く気分ではなかった。
 別に秋篠様が悪い訳じゃないけど、さ。
 そんな風に拗ねた様に、物思いにふけっていた瑠璃の元に小萩がやって来た。
「瑠璃様、あの吉野の鷹匠が訪ねてきてるんですけど…」
「ホント?!会う会うっ!通して頂戴っ」
 猫の飼い主が秋篠だと知って、ショックを受けていた瑠璃は飛びつく様に答えた。
 しかし、庭先に通された鷹匠はタカを連れてはいなかった。
「姫様、先日は本当にお世話になりました。ご一緒させて頂いた道中は本当に楽しゅうございました」
「それはこちらの台詞よ。あなたも元気そうね。タカも元気?」
「はい。先日、タカも初めて主人となる方に会ったのですが、姫様の時と同様、不思議と一目で懐いてしまって。流石、と思いました」
「そう、じゃぁ、もうタカには会えないのね」
 既に主人の元に手渡されたのであれば、勝手にこんな所にやってくる事は出来ないだろう。
 鷹とはいえ、飼い主のもと管理され、野鳥の様に自由には出来ないのだから。
 会えない寂しさが、更に瑠璃の気持ちを重いものにした。
「あ、いえ、今回は特別に京に馴れる意味も合わせて、散歩をさせて良いとの事でしたので」
 それに、と鷹匠は苦笑しながら言った。
「時折、空に放つ事も必要なのですが、吉野の里と違いますから、その度に何処ぞの邸に標的を見つけて狩りをされると困るので、その辺りの最後の躾けの意味もあるのです」
「まぁ…確かに吉野の里とは違うものね。そこら辺で狩りをされたら大変よね」

 ヒュイッ。

 鷹匠が指笛を鳴らしてから暫くすると遠くから飛来する影が瑠璃にも見る事が出来た。
「あっ」
 嬉しそうに瑠璃が顔を綻ばした頃には、力強い羽音と共にタカが急降下してきていた。
 と、瑠璃の横に猫がひょいと出てきた。
「…猫?!」
 咄嗟に鷹匠が、猫に気づいて驚きの声を上げた。
「え?何??」
「猫はタカにとって獲物ですっ」
「えぇえ!!」
 瑠璃はその言葉に慌てた。
 タカはもう直ぐそこだが、瑠璃でも気づいた。
 タカの降下先が鷹匠の腕の辺りではなく、瑠璃の横の辺りだと言う事に。
「だ、駄目っタカーーーっっっ!!!」
 咄嗟に叫んだ次の瞬間、瑠璃は自分の横を通り過ぎた一陣の風に言葉を失った。

 

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