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『本当のキモチ 二話』

 

 翌朝、ザラリとした何とも言えない感触で目を覚ました瑠璃は、目の前の猫にあれ?と目をぱちくりとさせた。
 えっと、昨日??と思い返した。

 京へ戻ってきて。
 小萩が熱を出して。
 父様に叱られて。

 そして、猫が迷い込んできた。

 あぁ、と得心がいった瑠璃は目の前の猫を自分の顔の所まで抱き上げて、目を覗き込んだ。
 綺麗な蒼い瞳が、朝の光の中、たゆたう水底の様で綺麗だった。
「にゃぁ〜ん」
「お前、ここで一晩過ごしちゃったけど、良かったの?ご主人様が心配してるんじゃない?」
「んな?」
 ぺろりと猫は目の前にあった瑠璃の鼻先を舐めた。
 また、先程と同じザラリとした感触に、瑠璃はほんの少しだけ顔を顰めた。
 成る程、先程の何とも言えない感触は猫に舐められたそれだったのかと分かった。
 瑠璃がそんな事を考えていると、タシタシタシッと前足で鼻先を叩かれた。
 痛くはない。まるで、人が肩をポンと叩く様な感じに近い。
 冷たく柔らかい肉球がペシペシと顔を叩く。
「何?何が言いたいの??」
 よく分からない瑠璃に業を煮やしたのか、猫はカプッと瑠璃の鼻先を噛んだ。
「痛っ…ちょ、ちょっとお前、私の鼻は食べれないわよっ」
 そう言って、猫を顔から遠ざけようとした時にきゅい〜と音がした。
「え?」
「んなーーーっ」
 きゅるるる。
「ぷっ…はいはい。お腹空いたのね。ご飯の用意をして貰わなくちゃね」
 その音が、猫の腹の音と気づいて、瑠璃は思わず吹いた。
 きっとお腹が空いて瑠璃を起こしたのだろう。
 早くご飯頂戴とおねだりをしたものの、気づかない瑠璃の鼻先を甘噛みした、と言う所か。
 褥を抜け出して、小萩に朝の準備をすると共に、ご飯の用意を頼んだのだった。

 

 そうして、ご飯も食べ終わった頃、珍しく弟の融が顔を出した。
「姉さん、お帰り。昨日帰ってきたんだって?」
 流石に数ヶ月ぶりに帰ってきた姉に挨拶をしに来たらしい。
「ただいま、融」
「昨日早速父様が怒ってたって聞いたけよ。相変わらずだね、姉さん」
 が、言う事は可愛くない。
「あれは私が悪かったわよ。でも、早く帰ってきたかったんだもの」
「姉さんがそんな風に言うなんて…明日は雨かな?」
 珍しく反省の素振りを見せたからか、融が驚いて、天を見上げる振りをした。
「ちょっと、融っ」
 ムカッときて、瑠璃が声を荒げようとした瞬間、融が遮った。
 実は、話している間ずっと融の目は猫に釘付けだった。
「所で姉さん。その猫は吉野から連れてきたの?」
「え?」
 融の視線の先にいた猫に瑠璃も視線を向けると、気をそがれた事もあり、愛らしい猫につられる様に、表情を崩した。
「違うわよ。昨日、この庭に迷い込んできたの」
「へぇ〜…。蒼い目の三毛猫なんて珍しいね」
「そうなの?」
 融はジッと猫を見つめる。
 猫はと言えば、ご飯も食べてお腹一杯。最初融が来た時に、警戒する様にジッと見つめていたが、今では瑠璃の膝の上で我関せずと眠っている。
 でも、自分の事を話していると分かるのか、不機嫌そうに尻尾がパタンパタンと振られている。
「何か心当たりでもあるの?」
「いや…珍しいってだけで。なんでもないよ」
「融?」
 何か含みがありそうで、言いなさいよと詰め寄っても、何も言わない。
 まるでその様子が口にする事は出来ないからと頑固に口を引き結ぶ高彬を彷彿とさせた。
 なんだか、不思議なものだな、と瑠璃は驚いた。
 結局、右大臣家の北の方の意向と瑠璃の気持ちが噛み合った為、何度か高彬からの抗議の文が来たものの、最終的に瑠璃と高彬の結婚は白紙となった。
 そんな中で、二人の友情が一体どうなっているのか瑠璃には分からないが、やはり何か通じるものがあるのだろうか。
 でも、珍しく頑固にも言わない融に、逆に何か知っているけれど、話す事の出来ない事柄なのか?と瑠璃は内心思った。
 だが、所詮猫だ。
 何がどうあっても、単なる猫の事で口に出来ない事情なんてあるだろうか?と想像も付かなくて、瑠璃は答えを知る事は出来なかった。
 結局、融の口を割らせる事が出来ずに、瑠璃はこの猫って一体?と頭を悩ませるのだった。

 

 

◆◆◆◆◆◆

 

 

「瑠璃様?」
「んな?」
「え?」
 小萩が瑠璃に呼びかけた所、猫が近寄ってきた。
 ちょこんと座り、何?と首を傾げている。
 別に猫を呼んだつもりはないし、一体猫がなんのつもりでそうしているのかも猫を飼った事もない小萩には分からない。
 お互いに暫し見合う形となったが、暫くすると猫の方が不機嫌そうに尻尾をバンと一回床にたたきつける様にしてから、外へと出て行った。
「い、一体??」
 困惑している小萩に瑠璃が気づいた。
「どうしたのよ?」
「いえ、今姫様に呼びかけたら、猫が来て。何をして欲しいのかさっぱり分からなくて戸惑っている内に、なんか怒った様に出て行ってしまって……」
 頬に手を当てて困惑も露わな小萩だが、瑠璃もさっぱり分からない。
「何、それ?」
「さぁ…?」
 お互いに首を傾げ合う事になった。
 猫のする事だから、と特に気にもとめていなかったのだが、暫くして戻ってきた猫に小萩は悲鳴を上げた。
「きゃぁっっっっっ!!!」
「何?!っ!」
 トコトコとやって来た猫は瑠璃の前にポトリと蝶の死骸を置いた。
 先程小萩は、猫が銜えているものが蝶の死骸と気づいて思わず悲鳴を上げたのだ。
 流石に瑠璃は悲鳴を堪えたものの、一瞬息を呑んだ。
 鼠や小鳥でないだけマシだと思うしかなかった。
 そして、後で女房が悲鳴を聞きつけて集まってくるだろうと思うと、瑠璃は面倒くさいなーと思った。
「小萩、そんな大きな声を出すようなことじゃないじゃない」
「ですが、瑠璃様っ」
「んな?」
 ピクッ。
 見れば耳を動かして、猫は満足そうと言うか、胸を反らして偉そうにしている。
 きっと捕まえてきた獲物を持ってきて、贈り物をしてくれているのだろう。
 だからきっと褒めて欲しいのだろう。
 いかんせん、蝶の死骸だけれど。
「る、瑠璃様っ!その様なものを触られるなんて…」
 小萩の言葉にピクピクッと猫の耳が動く。
 仕方がない、と瑠璃はその死骸を懐紙越しに取ると庭先へと向かい、そっと地面に置いた。
「仕方が無いじゃない。このまま部屋に置いておくなんて出来ないし、あんた触れないんでしょ?」
「瑠璃様!それでも、でございます!姫様がその様な事をされて、あまつさえ端近くに行かれるなんて!」
 小萩のちょっと大きくなった声に、猫はペタッと耳を伏せた。
 パンパンと手を払って、元の位置に戻って座れば、酷く緊張した猫に気づいた。
「瑠璃様!」
 小萩の声にヒュッと猫が怯える様に体を小さく丸めた。
 えっと?
 さっきから猫が変な動きしてるなーとは思っていたのだけれど。
「聞いていらっしゃいますの?」
「はいはい。聞いているわよ」
「取り敢えず手を洗う御手水をお持ち致しますから、少しお待ち下さいませっ!」
 そう言って小萩が立ち上がって瞬間、猫はパッと身を翻して瑠璃の後ろにと逃げていった。
 そんな事に気づきもせず、小萩は局を出て行ったが、丁度出た所で集まってきていた女房達と出くわしたらしく、猫が蝶の死骸を…とか何とか話しているのが微かに聞こえた。

 えーと。

 先程小萩が私を呼んだら、猫が寄ってきたとか。
 それに今の。
 小萩が“瑠璃”と言うたびに耳を反応させ、最後には怒った感じで立ち上がった小萩に怯えたかの様に逃げた。

 これは。

「あー…“ルリ”?」
 まさかね、と呼びかければ小さい猫の鳴き声がした。
「……うな…」
 おずおずした様子で猫が瑠璃の傍にやってきた。
 獲物を捕まえて戻ってきて、褒めて貰えると思ったのに、小萩が大騒ぎするものだから、きっと叱られたと思いこんだのだろう。
 元気のない様子の猫に、瑠璃は苦笑した。
「やっぱりルリ、なの?」
 言えば、猫が何?という風に目を向けてきた。

 ………。

「おいで、ルリ」
 そう呟いて、両手を広げて見せるも、何とも複雑な気分だった。
 猫が自分と同じ名前だななんて。
 いや、猫が嫌いな訳では無いのだけれど、猫と同じと思うとやはり気分は複雑だ。
 しかし、猫の方も瑠璃の言葉に近寄ってくるが、明らかにしょげている。
 先程の小萩の事を気にしているのだろう。
「………ルリ」
「…」
 ジッと瑠璃を蒼い目が見上げてくる。
「偉かったね。素敵な贈り物を有り難う」
 蝶の死骸だけれど、そう笑顔で言って、瑠璃は猫を撫でた。
 すれば、嬉しそうに尻尾を振った後、気持ちよさそうに目を閉じて喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
 猫の機嫌は直ったらしかった。
 取り敢えず、猫の名前は“ルリ”でいいらしい。

 『蒼い目の三毛猫で、ルリと言う名の迷い猫を預かっています』

 そう言ったら、飼い主は名乗り出てきてくれるだろうか。
 しかし、猫の名前は拾った自分と同じ名前なのだから、言い出しにくい。
 下手をすると猫の飼い主だって同じだろう。
 なんせ、ルリという名の猫を、瑠璃が保護したのだから。

 どうしたらいいだろうかと思いつつ、瑠璃の手はひょいひょいと動いていた。
 瑠璃が手に持っているのは赤い紐。
 右に左にフラフラと、瑠璃が動かしては紐の先っぽの房が揺れるのを、猫が何とか捕まえようと躍起になっている。
 まだまだ幼いのだろう。
 紐にじゃれる猫を瑠璃は見つめた。

 

 ―――あぁ、猫と遊んでいる場合じゃない、よね。

 

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