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『月に願うは恋散華 6』







変わらない優しさ。変わらない眼差し。

神子様の心のなんと強いことか。

神子様が微笑まれる。哀しみを湛えて。

その度に自分の弱さを突きつけられるような気がいたします。

ですが、神子様。私、もう嫌で御座います。

哀しそうなその微笑みを見るのは。

最近思うのです。

私は………。





 藤姫はガタガタと震えてしまいそうになる体を必死に押さえようと頑張っていた。歯を食いしばるようにして耐える。不気味に天を覆い尽くした黒雲に、瘴気を纏わせた不快な風が吐き気すら催す。すぐ側にいて藤姫を護ってくれている地の八葉達ですら、眼前のあかねと同じ仲間である天の八葉達にばかり視線を向けて藤姫の事に気を掛ける余裕がない。

 最後の戦いに臨み、誰か一人を…と言う藤姫にあかねは首を振った。誰か一人なんて選べない、と。だが、八葉全員で挑むことはできない。取りあえず直接戦闘に参加する者を選び、結果中心となるのは天の八葉と決まったのだ。だから、今あかねのすぐ側にいるのは天の八葉。そして少し後方、藤姫と一緒に見守るようにしているのは地の八葉達だった。

 鬼の首領であるアクラムが黒龍を召喚した。細い蘭の叫び声と天真の妹を想う呼び声が辺りに木霊する。まるで実体化したかのような黒い瘴気の塊に体を拘束されて動けなくなる。

「…神、子様っ…」

 藤姫は必死にあかねを見つめた。

 最後くらいは危険かも知れないけれど一緒に行こう、と言ってくれたあかね。本当に、本当に嬉しかった。真実あかねには自分はどうしたって勝てはしないだろう…と心の奥底で悟っていた。

 近くて遠くにいるあかねが。

 チラリと視線を流して、藤姫の近くで跪く友雅を見つめた。そして藤姫を。他の八葉全員を。優しさの溢れたその真摯な眼差し。

「駄目だっ、神子殿!」

 必死の友雅の叫びも瘴気のせいか余り声となって出てはいない。本当ならば他の誰よりも側にいて護りたいというのにこんな処で何をしているのだろう、と歯痒い想いにギリッと噛み締めた唇から僅かばかりの朱が散った。それでも必死に何度も呼びかける友雅の言葉を藤姫はまるで夢の世界でのことのように聞いていた。

 フラリ、と藤姫が立ち上がる。

 全く動けない八葉を後目に、フラフラとあかねに近づいていく。天に両手を伸ばし、白龍を召喚するあかねに近づく。

「藤姫!」

 何故動けるというのか。それが星の一族の血故なのか。藤姫の小さな背中を見つめながら友雅は何をするつもりなのかと訝しんだ。

 天の一画が割れ、光が溢れ、まるであかねの姿を浮かび上がらせるように光が注がれる。そして天より急速に飛来する白きその龍神の姿に息をのんだ。

「あかねっ!!」

 思わず叫んだ真名は彼女に届いたのか。一瞬白龍に包まれる直前のあかねが友雅の方を振り向いたような気がした。僅かな時交わった視線が永遠の如くに感じられて。しかし無常にも次の瞬間には光の粉をまき散らすかのようにしてあかねの姿が消えた。

 そして藤姫の姿もまた…消えていた。残された八葉全員は呆然と晴れ渡り、清らかな風が吹き始めた神泉苑で立ちつくすことしかできなかった。





『暖かい…』

 あかねはあまりの心地よさに目を閉じて、ふわりと体を丸めて宙に漂っていた。いや、漂うと言うよりは存在そのものが空間にとけ込み掛かっていた。膝を抱えるようにして、そう、まるで赤子が母親のお腹の中で微睡むようにしている。そしてその姿はうっすらと透け掛かっていた。

 存在が。

 消えかかっていた。

 ―――あかねっ!!

『誰…?』

 声にあかねの意識がフッと覚醒する。今誰かが呼んだ。懐かしい声、だったような気がした。暫し考え込んで、直ぐに止めた。どうでも良い事のように思えて、考える事を放棄する。

『このままでいい…』

 ―――あかねっ!!

 再び呼ばわる声に苛々する。この声を聞くと何故こんなにも心の中がざわめくのか。さっきまで穏やかで暖かく満たされて、とても気持ちが良かったのに。目を背けたいのに、その声はそれを赦してくれない。どうしても気になる。あかねの魂そのものを惹き付けて止まない。この声は……。

 ―――あかね、戻ってきて欲しいっ!

『嫌、呼ばないで。もう…呼ばないで……っ!』

 ―――君が居なければ私は生きている意味を失ってしまうっ!!

『や…めて……』

 余りにも悲痛なその呼び声を無視できなくてあかねは涙を零しながら膝を抱えてその体を一層丸めた。

 ―――君が還ると言うのなら私も連れて行って欲しい!!

『何を言っているの?』

 ―――それならば藤姫も関係ないだろう?!

『駄目、そんなの駄目だよ…。』

 ―――ならば私を殺していってくれ!!魂だけとなって時空を超えて君を見守ろう!!

『………』

 あかねはそっとその瞼を開けた。眼前には何処までも果てしなく錦に輝く何もない空間が広がっている。先程から聞こえる声はどこからしているのか見当も付かない。ただ、胸が痛くなる程の相手の想いだけがさざ波のようにあかねを包み込む。

―――あかねっ!!

 再び真名を呼ばれてあかねは、小さく笑みを浮かべた。

『友雅さん……』

 そっと大好きな人の名を呟いた。胸の中が暖かく何か満ちていくような、それで居て穴が開いていて酷く物足りないような哀しみに心が支配されそうになる。好きなのに、好きと告げる事も叶わない恋。それがあかねの心を蝕んでいた。

 ふわり、と淡い光があかねの体を覆う。いや、そうではなくあかね自身がうっすらと光っていた。

『暖かい?』

 先程までの全てを委ねてしまいたくなるような満ち足りた温もりとは異なる優しい想いに満ちた光にあかねは戸惑った。

『何?』

―――あかね…

 ふわん。

友雅の声に反応するように、徐々にその光は強く熱くなる。次第にあかねの体が実体を持ち始める。先程までは向こう側が透けて見えてしまう程であったのに、今ではもう見る事もできない程になっている。

―――あかね…愛しているよ……

『どうし、て……』

 抑えきれない熱い恋慕の情があかねの頬を涙となって伝い落ちる。後から後から止まることなく流れ続ける。大好き。大好き。大好き。きっと一生で一度の激しい恋。本当に相手の魂までも請うる恋。傷つけたくないからとか、自分は相応しくないからとか、色々な理由をつけて逃げていた自分に気付く。余りにも激しくて。余りにも深い恋。怖くて。逃げていた。藤姫の為とか言って自分が身を引いたと綺麗事を言って、そうして自分の事を美化して、飾り上げていただけ。そんなのはそもそも藤姫に対して失礼にしかならない。あなたの為に身を引いたの。だからこの人を上げるわ。そんな事を言われて藤姫が喜ぶはずもない。

―――喩え君が何処へ行こうとも側に行く

 友雅が今までずっと自分を見守ってくれていた事に甘えて。逃げてばかり居て。それでも尚こんな自分を好きだと想いを寄せてくれるのが嬉しかった。

『友雅…さん…わたし……』

―――君のいる場所だけが私の居場所なのだから

「好き……」

 自然と何の衒いもなく零れ落ちた言葉が、あかねの心の中に波紋を引き起こしながら広がっていく。なんだかんだ言った処でこの想いを忘れるなんて事も、諦める事も出来ない。誰も傷つける事のない恋なんてない。グイッと涙を拭うようにして視線を上げた。

―――あかね、戻っておいで。私の腕の中に……

『還りたい…。還りたいよ。』

 どうして良いのか解らずにあかねは周囲を見回した。自分の他には誰もいないその不思議な空間。突然友雅とは別の声が響いた。

―――神子よ。還るか。

「……この声は…龍神様?!」

―――神子よ、帰還を望むか。

「龍神様!」

―――何処へ還るか?その胸の中の者と共に?

「え?胸の…中?」

 一瞬何の事か解らなくてあかねはキョトンとした。胸。見下ろしてみれば未だに僅かに光っている。さっきまで全身を覆っていたあの光だ。今は大分弱々しい。

「これ…何……」

―――その者を連れ元の世界へ還るか?

「龍、龍神様!この光は何ですか?!」

―――星の一族が魂。そなたに仕えし者

「………それって……藤姫……?」

―――然り

 呆然となったあかねはそうっと光る胸に手を当てた。暖かい。消えてしまいそうだった自分を包み守ってくれていたこの光。コレが……藤姫?

―――そのものは我を召還せしそなたに付いて此処までやってきた。星の一族が持つその特殊性に置いて可能であった事

 言葉が出ない。其処までして自分を守ってくれていたのか、と思わずにいられない。

―――そなたが元の世界に帰ればその星はそなたの中で留まり続ける。力つきて還るべき肉体に戻る事は出来ないだろうからだ。だが、京へ戻るならばまだ何とかなるだろう……。神子よ、そなたはどの道を選ぶ?

「私は……」

 藤姫を死なせるなんて事出来るわけがなかった。だが、京に戻れば友雅の事で、こんなにも尽くしてくれた藤姫を傷つてしまうだろう。そんな事納得いくわけがなくて、さっきはあれ程までに強く友雅の事を想い決意したというのに、もう既にぐらついている。どうして良いのか解らなくなって。ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き毟りたい衝動に駆られた。

「え?」

 その時心の中に流れ込んできた暖かい想い。それは藤姫の想いだった。友雅への淡い恋心。あかねへの強い思慕。本当の藤姫の隠す事のない純粋な願い。

 思わず涙が出そうになってあかねはグイッと上を向いた。

 私は神子様が大好きです。友雅殿よりも。お二人が一緒にそろってお幸せそうになさっているのを見るのが本当に楽しみなのでございます。私を一人の女性(にょしょう)として認めてくださるのなら、変に私の事で気遣いなどなされないでくださいませ。同じ一人の”女”として見てくださいませ。………神子様。私、神子様の笑って居られる顔が一番大好きですわ。

 なんだか唐突に「上を向いて歩こう」の歌を思い出して、クスッと吹き出しそうになった。古い歌だけれどあかねは好きだった。海外では「スキヤキ」と呼ばれて愛されている歌。ことさら明るい声音で生を貫こうとする歌に込められたその強さが身に染みた。お陰で、更に溢れそうになった涙を零さないようにと真上を見上げる。

 歩かなければいけないのだ。生きている限り。生きたいと望みながら滅んでいった鬼達を思えば、生き残った者達はその分までしっかりと責任を持って生きねばならないはずなのだ。傷つきながらも立ち止まる事など赦されては居ないのだから。

「そう、だよね。藤姫……ありがとう……」

 誰に言うとでもなく口に出して瞼を閉じると、嬉しそうにはにかむように微笑みを浮かべる藤姫が見えた。

―――あかねっ!!

 友雅が呼んでいる。

―――神子よ、そなたの望みを叶えよう

 龍神の声が静かに、穏やかに、重く響き渡る。

 生きていく。友雅と共に。あの京で。自分がなした事の結果を最後まで見届ける為に。消えていった哀しきものたちの為に。あの場所で一生懸命生き抜いてみせる。だから。だから、願いは。

 口に出す前に龍神の気配が優しくあかねを包み込んだ。そして世界は真っ白になってあかねを飲み込んで消えた。



@01.11.15/01.11.16/