『月に願うは恋散華 7』
まるで夢の中を歩いているかのように現実感がない。ふわふわとした足下は本当に大地を踏みしめているのだろうか。頬を撫で、髪を揺らす風は本当に吹いているのか。
眼前に広がる神泉苑の泉は風に揺れる湖面に陽を弾いて煌めいている。美しいはずのその光景を見ても何も感じない。感じるのは胸を切り裂かれるような哀しみばかり。
ゆっくりと歩みを進めた友雅は呆然とあかねが姿を消した辺りまで来て、跪いた。
一体何時の間にこんなにもあかねに心を奪われてしまったのだろう。一番最初、鬼の仕業で心の欠片を奪われたと言われた。それは後々あかねと行動を共にすることで取り返したはずなのだが、実際には自分の元には戻っていなかったのではないかと思える。あかねの中に吸い込まれた自分の心の欠片を、あかねを通じて取り戻した気になっていただけではないのかと。そうして何時の間にか欠片だけでなく心の全てを奪われた。
『友雅さんっ』
あかねの声が聞こえる。弾けるような笑顔と共に。
『友雅さん…』
耳に木霊する。哀しげでありながら相手を思いやる強さを秘めた優しさと共に。
『友雅、さん…』
胸に突き刺さる。身を震わせるあかねの慟哭と共に。
胸の中を去来する様々な思い出。楽しいものもあれば、哀しいものもある。
その全てを。自分はたった今失ったというのか?!
「あかねっ!!」
一つ真名を呼んでみたが何も変わらない。世界は色を失ったまま。心臓は血を流し続けたまま。
友雅は懐から一枚の和紙を取り出す。それは先だってあかねから送られた何も書かれていない文。友雅にとって今までに貰った文の中で一番大切なもの。この文以上に友雅の心を揺さぶり、絡め取ったものなどありはしなかった。
掌に握りしめて。グイッと睨み付けるように天を仰いだ。
「泰明。」
「なんだ。」
「確か人の名は呪(しゅ)…だと聞いたが?」
「そうだ。名は一番短い呪だ。」
「ならば、名を呼べばそれは呪いとなって絡め取ることが出来るだろうか。」
「………相手が応えるならば。出来るだろう。」
背を向け、天を仰いだまま訥々と問いかける友雅に泰明は少しだけ目を細めると簡単に答えた。
「晴明様も仰っていた。」
「そうか。」
一言だけ返した友雅は微動だにしない。じっと天を仰ぎ続ける。
「ならば呼びかけよう。全身全霊私の全てをもって。命すら掛ける程に……」
―――あかねっ!!
あかねの姿が消えた瞬間、友雅の体を突き抜けた衝撃。この身を切り裂かれ、切り刻まれた方がまだましだ、と思える程の苦しみ。これ程の哀しみがあるなどと知りはしなかった。自分は大切で失えない存在を護ることが出来ると根拠もなく思いこんでいた。あまりの馬鹿さ加減に自分で自分を斬り殺してしまいたくなる。
―――あかねっ!!
諦めない。あかねを諦めるつもりなど何処にもなかった。こんな風に目の前から姿を消されてしまう事など考えもしなかった。時間がないことは承知していたが、それでも必ずあかねをこの腕に絡め取るつもりでいた。失えば何も残らない。自分の中は虚無に満たされてしまう事くらい既に承知していた。
―――あかね、戻ってきて欲しい!!
初めて胸の内に灯った情熱。何と甘美に熱く激しく燃えるものなのだろう。気が付けば全てを燃やし尽くされてしまった。だから、今の私の中にはあかねへの情熱しかないというのに。なのに、彼女を失えばその情熱も消えてしまう。真実、空っぽになってしまう。失える筈などないのだ。
―――君が居なければ私は生きている意味を失ってしまうっ!!
どうしてもあかねが嫌だと言うならば自分はこの世界を棄てるつもりでいた。そもそも彼女のいないこの世界で生き続けたとして何の意味があるというのか。色も美しさも、何もない世界が死ぬまで永遠に続くだけでしかない。
―――君が還ると言うのなら私も連れて行って欲しい!!
だから一緒に何処までも着いていくつもりで居たのだ。自分が生まれ育った都。それなりに愛着のあるこの都。それを棄てても構わなかった。見知らぬ世界ですら怖くはなかった。あかねを失う、その恐怖に比べたならば。
―――それならば藤姫も関係ないだろう?!
そうすれば彼女がずっと苦しみ続けていた藤姫の事だって解決するはずだ、そう思っていた。自分は何をどうしたってあかね以外を選ぶことなど出来なかったから。あかね以外の何を選ぶというのか。この京でさえ彼女の存在に比べれば大したものではないと言うのに。それでも嫌だというのなら。それでも私の存在を、想いを受け入れることが出来ない、私を選ぶことが出来ないと言うのならば。
―――ならば私を殺していってくれ!!魂だけとなって時空を超えて君を見守ろう!!
いっそのことあかねの手で全てを終わらせて欲しかった。この情熱をくれたのがあかねならば、絶望もまたあかね以外の何ものからも受けたくはなかった。魂だけとなれば自由に時空を超えることが出来るだろう。嫌、それで消滅する事になろうとも構わない。あかねのいる世界で藻屑となれるならば。彼女を包む風となって、光となって見守り続け流事が出来るだろう。
―――あかねっ!!
それすらも………許してはくれないというのか?
『友雅さん……』
遠く。あかねの声が聞こえた気がした。ずっと呼びかけ続けていた。この呼びかけは既に呪とすら呼べるものではなかっただろう。実は何だって良かった。”呪”であろうとなかろうと。ただ、そう言うものがあるのだと言う事実に逃げていただけ。そうすればあかねを取り戻せるかも知れないと藁にもすがる思いで、しがみついていただけなのだから。
「あかね…」
一瞬過ぎて、空耳かと思った。だが、先程までは微塵も感じ取ることの出来なかったあかねの気配を感じる。遠く弱く、近く強く。あかねが応えてくれたのだと…思えた。
「あかね…愛しているよ……」
天に向かって呟いた。それこそが最後、全てをなくした自分の中に残るものであったから。友雅は両腕を天に差し伸べた。その全てを受け止めるかのように。ふわりと髪が衣が風を孕んで揺らいで見せた。
「喩え君が何処へ行こうとも側に行く。」
唯一の望み。自分勝手と言われようとも何と言われようとも。それだけは譲れない願い。
「君のいる場所だけが私の居場所なのだから。」
目を細めて、そうっと微笑みかけた。まるで目の前にあかねがいるかの如くに。
『好き……』
風に乗るようにして囁かれた言葉に友雅はより一層笑みを深くした。その眼差しに宿る光は歓びにたゆたう。自分の想いに応えてくれた、それだけで十分。それこそが何よりも望んだもの。この世界を掛けてでも、棄ててでも欲したもの。
先程からずっと天に差し伸べた両腕をそのままに。決して一度として揺らぐことなく天を求めていたその腕に。
「あかね、戻っておいで。私の腕の中に……」
誠心誠意を込めて告げる。
今自分の全てを掛けて。
「あかねっ!!」
呼びかけた。
その日、浄化された京の空から天女が舞い降りた。
ただ一人の男の為に。
そして、男はその天女を腕に抱きしめて、幸せそうに微笑んだ。
ただ一人の女の為に。
藤姫はあかねがその時、腕に抱きしめていた。あかね以上に衰弱してはいはいたものの、回復してすっかり元気になった。そして初夏の日射しの中穏やかな笑みを浮かべていた。幸せそうに佇む大切な人達を遠くから見守りながら。
月下に散ったは何れの恋の華。
月下に咲いたは何れの恋の華。
願いは叶い、叶わず、ゆるゆると。
時空を超えて鮮やかに。
―――月の雫に、恋散華―――
@01.11.16/