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『月に願うは恋散華 4』


 パチンと扇をならして友雅は牛車を止めさせた。御簾を片手で払い上げ、優雅に降りた友雅は、そのまま従者達に暫く待っているようにと命じると、フラフラと月に誘われるように歩き出した。最近では日課になりつつある主人の行動に従者達も大人しく命に従ってその場に残る。決して主人の後を追うようなまねはしない。

「月。……月。桃源郷の…月…」

 そうっと自分の傍らの道沿いに続いている壁に手を触れる。それは土御門邸。時の左大臣の屋敷を覆う壁。

 側近くにいる事をあかねに拒絶されて以来、藤姫や他の八葉に不審がられないように左大臣邸を訪ねることは訪ねるが、その回数は仕事だなんだと理由をつけて確実に減っていた。あかねもそれを知ってか知らずか、余り供にと友雅を選ぶ事もなく、時折みんなの手前という感じで友雅を連れて歩いた。

 結果、極端に逢える時間が減った。

 そのことにこれ程までに自分がダメージを受けるとは友雅は思っても居なかった。まるで空気。あかねに逢い、顔を見、声を聞き、その気配を感じ、話をする。ただそれだけの事がなんと自分に取って息をする如く大切な事であったのか痛感させられた。何をしていても息苦しく、寂寥感ばかりが心を支配する。

 そして、逢うに逢えない寂しさや苦しさから、夜になると左大臣邸に来てはその周囲でせめてもの慰めとして、龍神の神子の氣を遠くに感じ取る事だけが最近の友雅にとっての楽しみになっていた。

「…月…」

 抑えきれない想いに懐から徐に取り出した笛を吹く。何処か哀切を漂わせた音色が闇夜に消えていく。一番あかねの気配を感じ取れる辺りで壁に凭れるようにしながら月を見上げつつ笛を吹く。

 この笛の音色は彼女に届くだろうか―――

 こんな風に館の周囲を彷徨くなど、自分が馬鹿な事をしている、と自覚しつつもどうしても止める事が出来ずにいた。

 やるせない想いを慰めるかのように吹いていた笛を止める。どうしたって笛などがあかねの替わりに等なるはずもなかったから。余計に物狂おしくなって友雅は目を堅くつむって髪を煩わしげにかき上げた。胸元の宝玉がチリッと月光を弾いたと思うと友雅はビクリと体を硬直させた。

 壁越しに伝わるこの気配。

 忘れようもない、一番愛しい……。

 ヒュッ。

 壁の向こう側から飛んできた物が友雅の足下に転がり、その音にやっと体の拘束から解かれた友雅は屈み込むと拾い上げた。それは小石を包み込んだ一枚の和紙。銀色に僅かに侍従の香りが染み込んだそれ。物忌みの前夜あかねから届けられていた物と同じそれ。月下に慌てて中を開いてみれば何も書いていない。ただ、濡れたような染みが右下の方に出来ていた。指先でそっとその紙の何も書かれていない面を撫で。濡れた部分に触れて。グッとその文を胸に抱きしめた。

 何も綴られていない、言葉なき文。ただ、ただ、愛しい人の哀しい思いを伝えるかの如く残った涙の跡が余りにも切なくて叫び出したくなる。

 紙を前に筆を持ったまま、書くべき言葉を見つけられずに、静かに涙を零していたのだろうあかねの姿を思うとそれだけで、今すぐにでも側に行って抱きしめたくなる。

 大切にその文を懐にしまい込み、壁に両手を添える。一枚壁を隔てたこの向こう側に恐らく立っているだろうあかねを想う。

「神子殿……」

 返事などあろう筈もないのに。直ぐ側に居るかのようにあかねの気配を強く感じて。其処にあかねの自分への想いを見つけてしまい、余計にやるせなくなる。

 ガサガサッ、と走り去るような音がして。

「!神子殿っ…」

 思わず小さく声を上げた。遠ざかっていく愛しい人の足音を聞きながら、追いかける事も出来ない自分に知らず涙が零れ落ちた。

「…………私の……ただ一つの、情熱……」

 目を瞑って、再びその壁に背を預けた。背後に感じる遠いあかねの気配。今、泣いているだろうか。

「月よ…お願いだ。本気で初めて望んだ唯一のものを…奪わないでくれ……」





「やはりお二人のご様子がおかしいと想うのですが…鷹通殿はどう思われます?」

 不安そうに首を傾げて聞いてくる幼い星の姫君に鷹通はどう答えたものかと戸惑った。

 最近友雅は自分と一緒に行動する事が多い。それはひとえにあかねが友雅を連れる時は、同じ天地の白虎が揃う時のみだからだ。それ以外の時は殆ど友雅を共に加えない。まだ他の八葉達は気付いていないようだが、共に居るからこそ鷹通は気付いてしまった。自分が居る時以外、そう、必要最低限以外友雅は呼ばれていない。あかねに避けられているらしい、と。

 同じくあかねと八葉の事に一番心を砕いてきた藤姫も気付いてしまった。ともすれば自然と視線が追ってしまう友雅の姿を最近見る事が少なくなったからだ。最初八葉の役目も放り投げて、と思ったのだが、直ぐにそうでない事に気付いた。友雅はきちんと通っている。この左大臣邸に。でも、あかねが選ばないから、自分も必然的に直接合う事がなくなったのだ。

 そして今日は少し朝早めに訪ねてきてくれた鷹通に思い切ってうち明けた藤姫だったのだが。

「そう、ですね。私如きには神子殿や友雅殿の考えていらっしゃる事は解りかねますが……」

「何かお二人の間であったのでしょうか?」

 心配そうに瞳を揺らす藤姫に鷹通は安心させるかのような笑みを浮かべた。

「仲違いをなされている、と言う感じではありませんでしたよ。一緒に居られるのを私が見ている限りでは。」

「そうなのですか?」

「ええ。」

 鷹通は微妙な言い回しをしつつ、しっかりと頷いた。三人一緒に居る時もあかねと友雅は直接話をしたりはしない。鷹通が二人と話をしている、そんな感じではある。だが、戦闘の最中でも、何でもないちょっとした時でも、二人がお互いの事を切なげな愛おしげな眼差しで見合っているのが解る。きっと双方は気付いていないだろう。片方が背を向けた時、横を向いた時、視線が離れた時、そんなときに狙い定めたかのようにチラリと相手の様子を窺っている、そんな様子だから。

 恋愛事に疎い鷹通でもそんな二人の間にしっとりと流れるような感情の機微に気付いてしまう程。だから、嫌いあっているとか、憎みあっているとかではない。そう断言できる。

「確かにお二人の様子は奇妙なものですが、お互いがお互いを想い合っているのが解ります。」

「………」

「こんな時に、と思わないでもありませんが、あの二人を見ていると逆にそう思う自分が少し嫌になります。」

 黙り込んだ藤姫に気付かず、鷹通は苦笑を浮かべながらそう言った。

「故意に………友雅殿が神子殿に近づかないようにしている……そんな風にも感じられましたが。」

「友雅殿が…」

「はい。酷くお二人ともお辛そうで見ていられません。」

 キュッと藤姫は唇を噛み締めた。

「そうですか。鷹通殿、ありがとうございました。神子様に話を聞けるようなら聞いてみますわ。」

「そうですね。宜しい時にでも。では、私は控えておりますので。」

 そう言うと穏やかな笑みを浮かべて立ち去る鷹通の背を藤姫は見送った。





 初夏の風がさわり、と吹き込んで藤姫の長い髪を緩やかに揺らした。

「あの時見たのはやはり神子様だったのですね。」

 ポツリと呟いて藤姫はキュッと手を握りしめた。自分が友雅と話をしていたのを誰かが聞いていたのに気付いた。気付いた時には走り去るその本の瞬間見えた着物の裾だけ。その時少しばかり胸がざわついていたのはこの事だったのか、と藤姫はため息を吐いた。

 何故友雅があかねを避けるのか。

 何故あかねが友雅を避けるのか。

 それでも二人は想い合っているという。

 何故。

 理由が掴めずにいた藤姫はフッと顔を上げた。もしや自分の気持ちにあかねが気付いたのだろうか、と。優しいあかねの事、私の事を慮って自分を犠牲にする事など造作もなくしてのけそうである。

「まさか……」

 ギュッと手を胸の前できつく合わせる。

 振り払おうとすればする程、その考えが真実に思えて頭から離れなくなる。呆然と立ったままだった藤姫はお付きの女房に声を掛けられて我に返り、あかねの元へと向かった。今朝の供は誰にするのかを聞きに。


@01.11.14/01.11.15/