『愛(いつく)し戀(こい) 4』
「神子様。」
部屋の中に入ってきた藤姫に呼ばれてあかねは振り向いた。
「もう、藤姫…ったら、もう私は神子なんかじゃないんだからっ!」
「で、でもっ…」
「はい、呼んで?」
ニコニコと微笑まれて藤姫も少し頬を染めながら口を開いた。
「姉、様…」
「はい、何でしょう?」
穏やかに微笑まれて藤姫も嬉しそうに笑い返した。ずっと一人っ子で、母親も早くになくし、ずっとこの広い館で一人生きてきた。女房達は大勢居るが、それは家族とはまた別のもの。
心の何処かがくすぐったくなるような幸福感を噛み締めながら藤姫は思わずポフッとあかねに抱きついた。自分を受け止めてくれる柔らかで暖かい温もり。懐かしい母を思い出させる。
「藤姫…ったら…どうしたの?」
藤姫を受け止めながら、そっとその艶やかな髪を撫でる。
藤姫はあかねの手が動くたびに薫る柔らかな侍従の香りに、ハッと我に帰った。
「まぁ、私としたことが…失礼しました。」
「もう、何で謝るかな〜?私は嬉しかったよ?」
「………その、本当に宜しいんですの?」
―――抱きついたりして?
少し不安そうに見上げてくる藤姫にあかねは安心させるように笑みを浮かべた。
「私、お兄ちゃんはいたけど、妹は居なかったし。妹が出来て本当に嬉しいの。だからもっと甘えてくれて良いのに。」
少し拗ねるようにして言うあかねに藤姫は一つ微笑んだ。
京を護るために召還された少女。支えなければならないはずの自分達が気付けばあかねに支えられていた。真実この方こそ自分が仕えるべき龍神の神子様。それは今でも変わらない。優しく、強く、見事京を救った大切な人。大好きで、あかねが京に残ると聞いて本当に嬉しかった。
その神子が自分の姉。
嬉しいけれど、何処まで甘えて良いものか計りかねていた。だと言うのにあかねはそんな戸惑いすら軽々と乗り越えてしまう。それどころか藤姫の中にあったものすら壊して手を差し伸べてくれるのだ。
「ありがとう。」
敬語も何も付けずに言った言葉。
あかねは少し目を見開くと、ギュッと藤姫を抱きしめた。
「……………あ。」
「え?何、どうしたの?」
突然小さな声を上げた藤姫にあかねは首を傾げた。
「私ったら、あまりの嬉しさにツイツイ忘れてしまいましたわ……」
ちょっと茫然自失の藤姫。一方あかねは意味も分からず藤姫を見つめる。
「あの…姉様、本当にごめんなさい。私ったら、姉様にお知らせに来たのにすっかり忘れてしまって。」
「お知らせ?」
「ええ、鷹通殿がいらっしゃってるんです。それで、お通しするのにまず姉様に連絡を…と思ったのですが。」
「た、鷹通さんが!」
フッと今までの穏やかだったあかねの雰囲気が変わる。まるで別人ではないかと思う程に艶やかに。そわそわと落ち着かず、その眼差しが何処か遠くを見ている。自分の髪を弄って整えてみたり。華やかな恋する少女のいじらしさ。でも、その中の翳りある眼差しに気付くには藤姫はまだ幼すぎた。
「もう、大分時間が経ってしまいましたわ。本当にごめんなさい……」
シュンと落ち込んでしまった藤姫にあかねは抱きしめた。
「そんなに気にしないで…大丈夫だから…ね?」
「姉様……」
ちょっと泣きそうな顔をした藤姫は気丈にも堪えると、さっと立ち上がった。
「姉様、今鷹通殿をお通ししますからっ!ちょっと待っていてくださいねっ!!」
「うん、宜しく。」
パタパタパタと遠ざかっていく足音を聞きながらあかねは胸の前で手を握りしめた。
鷹通には数日ぶりに会う。先日も何処かよそよそしいままだった。何とかしようと思えば思う程緊張してうまくいかない。その緊張した気配を感じ取って鷹通が更に態度を固くしているなんて言うことには全く気付いても居なかった。
パタパタパタ
藤姫の足音だろうか?走ってくるようなその足音に首を傾げた。鷹通が走って来るとも思えない。
「姉様っ…」
やはり姿を現したのは藤姫。慌ててあかねの前に座り込む。
「あのっっ……本当にごめんなさいっ!!」
「何っ、何かあったの?」
初っぱな謝られて、もしかして鷹通は待ちくたびれて帰ってしまったんだろうか?と不安になる。昔のように毎日会いに来てくれなくなった。
―――私に会いたくないのかも知れない……
その想いは日増しに強くなるばかりで。
「その、何と申しましょうか……」
酷く困惑した藤姫の次の言葉をあかねはじっと待ち続けた。
部屋の中にはいると、優しい侍従の香りが漂う。それだけで此処に鷹通が居ると分かる。分かってしまう。自分も同じ侍従を焚きしめているがやはり何処か違う。
「鷹通さん?」
そっと呼びかけても答えはない。
奥の方に入っていくと、きちんと座をただして座っている鷹通を見つけた。そっと近づいて。正面に回り込んでストンと座る。
其処には穏やかな表情で眠っている鷹通の顔。
そう、藤姫と少し話し込んでいる間に鷹通は眠ってしまっていた。藤姫はそれを申し訳なさそうに、ポソポソとあかねに話したのだ。それを聞いてあかねは自分から鷹通の処へ来ていた。わざわざ起こして自分の部屋に来て貰うまでもない、と思ったから。
じっと見つめる、寝顔。
―――少し…ううん、大分やつれた?
普段は穏やかに笑ってみせるから。今までと余り変わらないように振る舞うから。だからなかなか気付かない。良く見れば、目のしたにはうっすらとクマが出来てる。最近会いに来ないのも仕事が忙しいからなんだろうか?たとえ僅かとは言え、待たせてしまった数分の間に眠ってしまう程疲れて居るんだろうか?だったら、そんな時にわざわざ会いに来てくれて嬉しいのだが、申し訳ないとも思う。
その忙しい中でどれほど自分の事を考えて貰えているんだろうかと思うと情けない気がした。こんなに疲れた様子で好きな人が眠っているというのに、更に何を望もうというのか。
外から陽射しが射し込む。もう真夏の厳しい陽射しではない。何処か柔らかい。鷹通の髪が反射して光を弾いている。艶やかで真っ直ぐな黒髪。
―――大好き…
そっと手を伸ばして肩に掛かっていた一房を手にとって指先に絡める。スルリと癖のない真っ直ぐな髪は指をすり抜けていってしまう。
「あ……睫、長い……」
眼鏡越しに伏せられた目元を覗き込んでクスリと微笑む。起きていないが故に。眠っているが故に穏やかな雰囲気が二人を包み込む。それが寂しくて。でも、今この時が嬉しくて。
「ホント、鷹通さんたら格好いいよなぁ〜」
惚れ惚れと見惚れる。
穏やかな微笑みも大好き。哀しげな表情も、嬉しそうな表情も、辛そうなのも幸せそうなのも、全部全部大好き。でも、出来れば笑っていて欲しい。それが一番大好き。
「大好き………」
気付けば。
頬に触れる唇。
我に返ってあかねは自分で自分の口元を抑えた。
「や……だ、私っ……」
眠っている鷹通の頬に知らず知らずのうちにキスしていた。
初めて触れた―――頬へのキス―――
大好き、大好き、大好き………
想いが止まらない。
ただ、側にいるだけで心が震える。閉じられた眼差しが寂しい。
その瞳で真っ直ぐに私を見つめて。
その瞳に私を写して。
流れ落ちそうになる涙を必死に堪えようとして、後に人の気配を感じてビクリと振り向いた。
「と、友雅さんっ!!!」
「お邪魔だったかな?」
そこに立っていたのは友雅と頼久。今のを見られていたのかとあかねは顔をぼっと赤らめた。そんなあかねを見て、友雅の後に控えていた頼久が一言告げると逃げるように立ち去ってしまった。「―――失礼っ!」
「え?頼久…さん??」
頼久さんまで見ていたの?!と吃驚しながらも、恥ずかしくて、恥ずかしくて、鷹通の背後に回って隠れたあかねに友雅はクスリと苦笑を浮かべた。
と、急に騒がしくなった人の気配でやっと目を覚ました鷹通が困惑の表情を浮かべた。
「…んんっ………え?…………友雅、殿?」
「やっと目を覚ましたようだね。もう少し早くに起きれば良かったのに。残念だったね。」
「何を言って、…?」
鷹通は意地悪そうな笑みを浮かべる友雅に首を傾げていたが、自分の服を後から引っ張られているのに気付いて言葉を止めた。
振り向けば。
顔を真っ赤にして俯いているあかね。ギュッと鷹通の服を握りしめている。
「神、子殿?」
呼びかければ。
「…………。」
無言のまま顔を赤らめて、潤む瞳で見上げてくる。縋り付くような、助けを求めるような、甘えるような、その眼差し。
一瞬何もかも忘れて抱きしめてしまいそうになる。
「あの…一体何があったのですか?」
「く。くくくく。あははははははははは。」
「友雅殿っ!」
何も分からないが故に、そう素直に聞いた鷹通に友雅は声を上げて堪えきれないとばかりに笑った。
「本当に君は真っ直ぐだね。いや、君たち…かな?若いっていいねぇ〜。」
涙まで出ているのか、目元をその細い指先で拭う。
「まぁ、私に言えることは、先日と同じ事かな。君は本当に損ばかりしている。」
「友雅さんっっ!!」
余計なこと言わないで!と言外に制止するあかねに友雅は笑い、鷹通は目を細めた。
―――私には内緒、なのですね……
「ああ、姫君の御不興をかったらしい。ちょっと他にも気になる事があるんで、今日の処はコレで帰らせて貰うよ。」
一体何しに来たのか、そう言うとまだ肩でクツクツと笑いを堪えながら帰っていった。
二人残されて。
気まずい雰囲気が支配する。
「あの……」
「神子殿、今日は居眠りなどと大変失礼しました。」
真っ先にいつもの笑みを浮かべて謝罪した鷹通にあかねは泣きそうになった。
触れあう程側にいるのに遠い。
―――嫌だ。こんなのは…もう嫌だっ
「今日の処は帰ります。申し訳ありませんが……」
「待って!待ってください、鷹通さん!!お話、が……あるんです。」
きっぱりと鷹通を見つめながら語る姿はつい先程の恥じらう姿とは似ても似つかない。
強い光を秘めた眼差し。
愛おしげに鷹通はその眼差しを受けつつ、逃げたかった。嫌な予感がしたから。全てを…彼女から告げられる…そう感じたから。それ程の気迫を彼女から感じ取っていたから。
でも。
視線を逸らすことも出来ない程、この愛しい人に心を奪われている。
―――そうですね。もういい加減…逃げてばかりも居られないですね。
「話し…ですか?分かりました……その…宜しければ案朱へ行きませんか?」
「案朱………はい。」
二人一緒に櫻を見た。懐かしい場所。出来ることなら来年も二人で見たいと心の中で願っていた櫻。
そこで。
再びやり直すことが出来たなら。
あかねは決意を胸に頷いた。
@01.10.22/01.10.25/