『愛(いつく)し戀(こい) 3』
もそり、と寝返りを打って鷹通はことさら強く瞑るまぶたに力を込めた。そうすることで深い眠りに落ちていけると思いこんでいるかのように。
最近、夜一人になると心を占めるのは想いの届かぬ愛しい人の面影ばかりで眠れない日々が続いていた。今日もなかなか寝付けずにいた鷹通は、ついに固く瞑っていた目を開けると徐に布団から抜け出した。女房達があつらえてくれた寝所をチラリと一瞥して苦い笑みを浮かべた。
一瞬願ったこと。
―――今其処に神子殿が居てくださったなら……
叶うはずもない願いに、視線を逸らすと、そっと部屋の外にでる。
「綺麗な月夜…ですね。」
簀の子に座り込むようにして月を見上げた。時折ゆっくりと流れる薄い雲が月の顔を隠して闇を濃くする。その月に話しかける。
「眠れないのです……」
理由が分かっているからこそ、どうしようもないジリジリとした感情を持て余して暗く嗤った。
「神子殿…あなたに……」
―――お逢いしたい……
気付けば。
気を抜けば。
知らず知らずのうちにあかねの住んでいる左大臣邸に足が向いてしまう。その度に苦い笑みを浮かべて、引き返してしまう。
逢ってどうなるというのか。
逢えば胸が苦しい。
逢えば彼女は微笑んでくれるが、その全ては自分のものではない。
どうして自分のものではないのだろうか?と憎しみすら抱きそうになる。
逢いたいのに。
逢えない。
自分の中にこんな凶暴な想いが潜んでいるなどと考えたこともなかった。その強く深すぎる想いが彼女を引き裂いてしまいそうだ。どうにもならない現実に笑みを浮かべる。諦めることには慣れているはずだった。自分を抑えて、隠して生きていく事など大丈夫だと思っていたのに、一向に諦められない想いに振り回されている。
月を見上げてもその想いは鎮まるどころか深くなるばかり。
「こんな時に笛でも吹ければ、多少は心の慰めになるのでしょうに。」
呟いて今までそう言ったことに一切関心を示さなかった自分に苦笑いする。笛を嗜む事くらいしていれば良かった。そう思わずにいられない。友雅当たりなら、琵琶を奏でては心の内を上手に昇華してしまうのだろうか、とも思う。いや、そもそも彼ならこんな風に相手の心を掴めないと苦悩する事などないだろう。
「神子殿…あなたに…逢いたい……あなたに…触れたい…………」
気持ちを紛らわすものすらなく、言葉をなくして鷹通はクッと自らの胸に手を当てて、苦しげに身を屈めた。
手を伸ばせば触れることが出来る程近くにいる。
実際伸ばせば触れることが出来る。
でも、その心に触れることは叶わない。
ましてや、自分に触れられること等、頼久を慕っている彼女が望む筈がない。
逢えば。
触れずにいられない。
そのすべらかな頬に手を添え。
その瞳に自らの姿のみを映し。
淡き櫻の如き唇に重ね合わし。
小さき躯をこの腕に抱きしめ。
甘い吐息を己のものにしたい。
決して離すことなく。
一晩中感じていたい。
その赦されない、想い……
「浅ましい欲望だと分かっているのです。それでも尚求めずにいられない。」
逢えばあかねに何をしてしまうか分からない自分が怖い。
でも、逢わねば生きることさえ出来ない自分が愚かしい。
「どんなに月に想いを掛けても、冷たき月は想いを返す筈もない。分かっているのですが……」
月光が淡い影を作り、鷹通の姿を照らし出す。
全てのものが寝静まった静寂の中。
ただ一人今にもあかねの元へ駆けだしてしまいそうな自らを何とか抑え込む。
「遠い…幻の如き……月……」
小さく呟き、ため息を吐く。
最近は余り左大臣邸に通っていない。気持ちを紛らわす為にも必要以上に仕事に打ち込んでいた。逢いたいけれど逢えない気持ちを忘れるために。あかねの想いが自分に向かってはいないのだと言う現実から一瞬でも逃れるために。
本来なら毎日でも通うべきなのだ。京に残ることを決めたあかねはきっと故郷を思い、寂しさを感じずには居られないだろう。それも頼久の元から離れているのだ。
自分の側で。
―――どれ程、心細い想いをしている事でしょう……
その事実が胸に錐を打ち込まれたかのような痛みをもたらす。自分が側にいることであかねの心を慰めることも出来ない現実が。
護りたい。
そう思う一方で。
渡したくない。
彼女を護りたいというなら手放せばいい。そんな簡単なことは分かっているのに、それが出来ない。
自分以外の男の腕の中で幸せそうに微笑む彼女の姿を思い浮かべるだけでも胸が焼け付く気がした。
耐えられる筈もない。
「つくづく人の感情とは御しがたいものですね……」
際限なく膨らみ続ける欲望は果てしなく。
側にいたい。
少しで良いから。
側にいたい。
ずっと永遠に。
私だけを見つめて。
私だけを求めて。
いっその事このまま気付かない振りしてあかねの良人(おっと)として生きていくことが出来たらいい。しかし、それが無理なことは分かっている。
「後もう少し…後もう少しだけ……側にいて下さい……神子殿……」
願を掛けるようにそっと目を伏せると言葉を月に捧げた。
月はただ何も語らず、天空に輝くだけ。
鷹通は何時までも何時までも座ったまま、白み始める空で姿を薄くしていく月を見つめていた。
@01.10.23/01.10.24/01.10.25/