Novels

 

『名前を呼んで』

大したことじゃない。
ただ、呼んで貰うだけ。

しょう、と。

それだけの事なのに、こんなに嬉しいのは何故だろう?
こんなに切ないのは何故だろう?

きっとあの声で、だから。
あの眼差しで、だから。

そして、願ってしまうんだ。
呼んで欲しいって。

俺、だけを…。

 

 

 今日のシフトは午前中で終わりだったから翔はお昼ご飯を帰りに食べながら帰宅しようとして、ついでに本屋による事にした。
  午後は暇になるから、ちょっとした時間つぶしになればいいと思っていた。
  其処の本屋は結構大きく、品揃えも良かった。
  翔が欲しいな、と思うものは大抵揃っていた。新刊しか揃っていない様な小さな本屋とはちょっと違っていた。その分、駅前でアルバイトとかで出てきた時じゃないと寄るにはちょっと遠い本屋だった。
  本は欲しいものがあった訳じゃないから適当なのを手にとって選んだ。
  あれにしよう、これにしよう、色々悩んで。
  どうせ早く家に帰らないといけない様な理由はない。
  待っていてくれる人は誰もいないのだから。

 散々悩んだ挙げ句、ギャグマンガを買った。
  なんか明るく笑い飛ばしたい気分だったから。

 本を片手に店を出て。
  家に帰ろうとして、人混みの向こう側。ちょっと高級そうなレストランに見知った顔を見つけた気がして、ジッと見つめた。
  其処にいたのは。

 櫂と。

 瀬那。

 二人で向かい合って座って、何かを話し合っている。
  言葉なんて、当然何も聞こえはしないけれど。
  その表情だけで十分翔を打ちのめしていた。

 真面目に話している二人。
  真剣そうにしている。
  ふと、櫂が怒った様にその表情を荒げて、瀬那は何時もと変わらない穏やかさで。
  瀬那が何かを言ったのか、悔しそうな櫂の表情。
  偶々手に取ったティーカップ。その指先がキラリと一瞬光って、それがなんなのか気付いてしまった。
  結婚指輪。ちゃんとしているんだ。
  そう思うと、不思議と心は穏やかになった。
  きっとあの綺麗な女の人と穏やかな家庭を築き始めているのだろうと思えた。
  カップを置いた櫂は表情を改めていて、さっきまでの拗ねた様な風情は何処にもなくて、そこら辺の感情の切り替えは流石だった。
  そんな櫂に微笑んでいる瀬那の表情が。
  いつも自分に向けてくれるそれと同じで。
  いや。同じなのではない。あれこそが本当の瀬那の優しい眼差しなのだと思えば、それこそ心臓をギリッと握りつぶされる様に痛んだ。
『櫂』
  瀬那の唇が遠目にもそう動いたのが分かった。
  読心術なんて技術を翔が持っているはずがない。勿論、単なる思いこみかも知れなかったけれど。
  それに合わせて櫂の視線が瀬那に向けられて、翔の思い違いじゃない事を示していた。

 あの青い瞳に写っているのは櫂で。
  あの人に呼ばれるのも櫂で。

 決して自分ではあり得ないのだと、掌から砂が零れ落ちていく様に何かがサラサラと壊れていく気がした。

 俺を見て?ここにいるから。
  そしたら。
  瀬那を瞳に宿して、笑ってみせるよ。

 俺の名前を呼んで?ここにいるから。
  そしたら。
  瀬那の名前を俺も想いを込めて呼ぶから。

 叶うはずのない願いだと知りつつも。
  そう祈った。

 始終櫂は渋い顔をしていて、どちらかと言えば機嫌が悪い様だったけれども、それでも決して瀬那との話を中断しようとはしなかった。

 一体どれ位の間其処に翔は立ちつくしていたのか。

 ただ、ジッと二人の姿を見つめていた。
  決して翔の願いが叶う事はなく、二人は翔に気付く事など無かった。
  昨夜の瀬那の言葉を思い出して。きっと両親の形見云々の話をして居るんだろう、とそう思おうとした。
  それだけ、なんだって。
  そう思おうとしても。

 瀬那の笑顔が目に焼き付いて離れる事はなかった。

 瀬那の『櫂』と呼ぶ、唇の動きが忘れられなかった。

 決して自分に向けられる事のないであろうそれらに。
  悲しみが、絶望が胸を支配していく。

 やっぱり…俺じゃ駄目なんだ。
  瀬那が好きなのは櫂なんだから、当たり前なんだよな。
  そんな事実に乾いた笑いだけが唇から零れ落ちた。

 

 一体何処をどう歩いてきたのか記憶にはなかったが、気付けば自分の部屋で、自分のベッドの上に翔は寝ころんでいた。
  床に転がっていた、昼間買ってきたコミックを取り出した。
  馬鹿ばっかりのギャグマンガ。
  面白くて笑えた。
「あはは」
  笑いながら、何故か視界が歪んで続きを読む事が出来なかった。
「はは…馬鹿だよね〜」
  クツクツと嘲笑う様な声を上げて。
  翔は嗤い続けた。

 頬を伝い、枕元を濡らしていたそれを涙だなんて翔は認めたくはなかった。

 ガバッと身を起こすと、翔は時計を確認した。
  時刻は4時半を示していた。
  確か今日の夜には戻ってこれると瀬那は言っていた。きっと帰ってくる。
  その時には「ただいま、翔」と言ってくれるはずだ。
  笑って迎えなくちゃ。何時も瀬那がそうしてくれる様に。笑顔で。
  バタバタと走っていって顔を洗う。
  鏡の中の翔は、目を真っ赤にして、何かあったと一発で瀬那にばれてしまう様な有様だった。
  冷たい水で何度も顔を洗って。濡らしたタオルを目の上に乗っけて。
  ともすれば、思い出して再び涙ぐみそうになるのを必死になって堪えた。

 何時だって瀬那は優しくて。

 櫂の結婚式当日。一人で居られない翔を慰めてくれた。瀬那自身辛かったはずなのに、優しい眼差しで翔を包み込んでくれた。
  一緒に王国へ行くとも言ってくれた。
  色々とその為に必要な手続きとかもしてくれていたりする。
  もしかしたら来栖との連絡手段も瀬那にはあるのかも知れない。

 全部、全部。

 最近は何もかも彼に任せっきりで、おんぶにだっこで。

 一人で立たないといけないって。

 一人で生きていかないといけないんだって。

 そう、思ったはずなのに、気付けばまた彼の優しさに縋ってしまっている自分に気付く。

 駄目なんだ。これ以上甘えちゃ。
  だから。
  これ以上何を瀬那に望むと言うのか。
  これ以上何を願うというのか。

 そんな事、しちゃいけないって事位、翔にだって分かっているから。
  例え、瀬那も翔と同じで、結婚してしまった櫂から逃げる為に王国へ行こうとしているのだとしても。

「大丈夫。笑える。笑顔で…出迎えられる」
  鏡の中の自分に言い聞かせる。
  酷く思い詰めた様な表情をしているが、もう目は赤くない。
  大丈夫。後は笑ってみせれば瀬那には何も分からない。気付かれない。これ以上何か心配を掛けたくはない。
  彼の負担になりたくはない。
  そう、呪文のように唱え続けた。

 

 

 帰ってきた瀬那は笑顔で出迎えた翔を見て、一瞬顔を苦しげに歪ませた。
「おかえり、瀬那っ」
「ただいま。何もありませんでしたか?」
「何かって何?もう黒い翼に襲われる事もないし、何もないよっ」
「ならいいのですが」
  そう言うものの、瀬那は納得していないらしく、何処か翔の様子をジッと見て居る。
  上手く笑えなかったのかな?
  翔はちょっと内心ドキドキしたものの、それでも曖昧にしか聞いてこないって事は瀬那には何も気付かれていないんだって思う事にした。
  そんな事よりも今は他に気になる事があったから。
「それで、瀬那の方こそもう良いの?」
「ええ、粗方大丈夫ですよ。後はあなた達二人にロベール殿下と真理さんの遺品を見て貰って処分する手続きをすれば殆ど終わりです」
  玄関からあがって、ダイニングへと行きながら。
「瀬那、何か飲む?」
「そうですね。ではコーヒーをお願い出来ますか?」
「うんっ」
  インスタントコーヒーしかないから、簡単に出来る。
  背中に何かを問い掛ける様な瀬那の視線を感じながら、翔はちょっと何時もと雰囲気の違う瀬那に戸惑っていた。
「はい、どうぞ」
  結局二人分作った。自分の分はミルクたっぷりの甘いコーヒーだ。
「俺も直人に電話したんだ。今度会う約束したんだ」
「そうですか。きっと青木君も喜んだでしょ」
「うん」
「まぁ、それもこれもクリストファー陛下の許可がないと駄目ですけど」
「うっ…」
  言葉に詰まった翔に瀬那はやっと笑った。
「なので話をつけてきました」
「え?」
「丁度、こちらにレイヤードが来ていたので彼に伝えておきました。取り敢えず、一ヶ月後にまたこちらに来るそうなので、その時、私たちの準備が終わっていれば連れていってくれるそうですよ」
「ほんと!」
「ええ」
  にこり、と微笑む瀬那に翔はわーと手を挙げた。
  何故か無性に嬉しかった。
  元々櫂と一緒にいるのが辛くて逃げるようにして行く事になったウィンフィールド王国。なのに何故今こんなにも行きたいと思うのだろう。
「瀬那ありがとうっ!俺、一人じゃどうして良いか分からなかったしっ!本当にサンキューっ!!」
  そう言って嬉しさの余り瀬那に抱きついた。
「おっと」
  その衝撃でコーヒーが零れそうになった。
「ご、ごめんっ」
「いえ、大丈夫ですよ。それにそんなに喜んでもらえるなら、こちらも嬉しいですよ」
  向けられた青い瞳は何時も通り。
  キュウッと胸が痛んで、パッと翔は瀬那から離れた。
  それから切なさを隠す様に笑顔を浮かべた。
「うん。スゲー嬉しいっ!」
  なのに、また帰ってきてすぐの時に見せた様な、苦しげな表情を瀬那は浮かべて見せた。
  なんでだろうと思う。
  でも、聞く事なんて出来なくて。
「瀬那はご飯食べてきただろ?」
「ええ、結構遅くなってしまいましたので」
「んじゃ、お風呂の準備は出来ているから入って来なよ。疲れてるだろ」
「そうですね。翔…あなたは入ったんですか?」
「うん。先に入っちゃったから大丈夫っ」
  嬉しくて自然と笑顔になった。
  今度は瀬那は変な表情を浮かべる事もなく、同じ様に笑い返してくれた。
「じゃぁ、ちょっと入って来ますね。レイヤードの件もありますし、その後話をしても大丈夫ですか?」
「話?うん、平気、平気。待ってるから、ゆっくり入って来なよ」
「ありがとう」
  そう言ってお風呂へと姿を消した瀬那の後ろ姿を翔は見送った。

 やっと。

 やっと呼んで貰えた。

 たったそれだけの事なのに。
  やっぱり声を聞けた時と同じで嬉しい。
  電話で聞くのとは違う、瀬那の声。やっぱり直接会って聞く声の方が好き。
  低くて、穏やかで、クールな感じがするのに優しくて。

 ずっと呼んで欲しかった自分の名前。

 それだけで。

 それ以上を望んじゃいけないんだって、わかっているから。

 だから。

『翔』

 呼ばれた音と、唇の動きを。
  記憶に刻みつける様にした。

 

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