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『声を聞かせて』

気付けば願ってた。
聞きたいな、って。

低くて、穏やかで、クールな様で優しくて。
大好きな声。

聞けなくなる事がどういう事がなんて気付いても居なかった。
こんなにも苦しいって知らなかった。

だから。
瀬那……聞かせて?

 

 

 はぁ、と一つ溜息を吐いて翔は家を出た。
  何時も通りアルバイトの時間。
  でも、何時もと違うのは見送ってくれる人が居ないと言う事。
「行って来ます」
  それでも誰に言うでもなしに言葉にして翔は扉に背を向けた。
  玄関を背に目に入った空は眩しい程の晴れ渡った青空だった。

 

 それは二日前の夜。
「済みません。暫くの間出掛けてきます」
「出掛けるって何処に?」
「一応、王国の方へ行くとなれば色々と準備をしておかないといけないので」
「ふーん?」
  瀬那には瀬那の生活が今まであって。今だって瀬那が本当の所どうしているのかとか、今までどうやって生きてきたのかとか翔は何も知らない。
  きっと聞いてはいけないと思っていたから何も聞かないで来た。
  ただ、翔と再会するまでの17年近くを瀬那は一人で生きてきた訳で、それなりの柵とも言えるものがあったとしても不思議はなかった。
  会いたい人に会っておくとか、金銭面で処理するべきものがあるとか、誰かと約束事をしているとか、なんだかんだと色々あるだろう。
  この人間界で瀬那は天涯孤独の身とは言え、誰と接する事もなく、ただ一人きりで生きてきた訳ではないのだから。
  だから、曖昧に頷いただけで翔はそれ以上を追求しようとはしなかった。
  特に、瀬那が抱えている過去はきっと触れて欲しくない類のものなんだろうと思えたから。
  それはウィンフィールドで黒い翼との戦いの中、何度か話をした時に感じた事だった。
  余りそれを表に出す事はしないものの、彼は常に控えめで自分を軽んじる傾向にあったから。
「それでどれぐらい掛かるか分からないのですが、多分二、三日は帰ってこれないと思うので」
「二、三日も?」
「ええ」
  頷いた瀬那に、そっかと翔は頷いた。
「分かった。二日経って、もっと掛かる様だったら連絡いれてくれればいいから」
「分かりました。所有物などの処分やら、銀行関係など色々纏めておかないといけないですからね。そう言えばそこら辺翔はどうなんです?」
  言われて翔はう〜んと悩んだ。
  別れの挨拶をしたい友人なら幾らでもいる。直人や杏里にその他のクラスメイト達。剣道で知り合った人達にも出来れば挨拶したい。
  逆に私的所有物がどうのとか銀行がどうのとかになると一切分からない。
「今度直人とかみんなに挨拶行こうかな、とは思ってるけど」
「良ければ、面倒な法的な手続きは私がしておきますよ?」
「いいの?」
「ええ」
  願ったり叶ったりな瀬那の提案に翔は頷いてお願いする事にした。
  所詮まだ20歳にもなっていない。社会的にも認められていないし、そう言った手続きをするのに無用なトラブルを起こさない為にもその方がいいだろう。瀬那なら信頼出来るから任せる事が出来るし。
「後、クリストファー陛下にも連絡を取らないといけませんね」
  こっちの方が重要問題ですが。
  そう言って瀬那は笑った。

 

 瀬那が朝家を出て言ってからまだ一日とちょっとしか経っていない。
  最初はどうって事はなかった。

 でも。

 家に帰ってきた時にいつもで迎えてくれる瀬那が居ない事が酷く寂しかった。
  電気が消えて真っ暗な家。人の気配のしない家。
  瀬那が一緒に暮らす様になってから大した日数は経っていないはずなのに、こんなにも寂しいと思ってしまう。
  数週間前はこれが普通で日常で、何も思わなかったはずなのに。

 一人でご飯を作って。
  一人でご飯を食べた。
  美味しくなくて、残してしまった。

 眠る時も一人で挨拶をする相手もいなくて。
  眠れなかった。

 今朝は何時も通りの朝なのに「おはよう」の挨拶を言う相手がいない事に驚いた。
  昨日から瀬那が出掛けていてそれが当然なのに、何を今更驚いて居るんだと自分で笑えた。
『おはようございます、翔』
  ふとダイニングを見つめて、其処にいて笑いかけてくれる瀬那の姿が見えた気がした。
「馬鹿だなぁ〜」
  呟いて翔は一人でご飯を食べる気にもなれなくて、そのまま準備をしてアルバイトに出掛けたのだった。

 

「羽村ー。ちょいと時間に早いが、もう良いぞ」
「え?でも…」
「いいからいいから。顔色とか余り良くないぜ。体調が悪いんだったらさっさと帰って眠ってろ」
「あ、ありがとうございます」
  ぺこりと頭を下げた。
  いつもより10分ほど早くに仕事を切り上げた翔は鏡に映った自分を見た。
「はは…酷い顔」
  ピンと鏡に映った自分を指先で弾いた。
  暗い顔して、顔色も悪い。今にも泣き出しそうな情けない顔。
  バイト先の人にまで心配を掛けてしまって、こんなんじゃ駄目だなと思う。

 一体、何時の間にこんなに瀬那の存在に依存してしまったんだろう。

 以前は、辛くても笑えたはずだった。

 哀しくても、負けたりしなかった筈だった。

 一人で立ち上がって、前を向く事が出来たはずだった。

 こんなの自分らしくない。
  こんなんでは瀬那のお荷物にしかならない。いや、もう既にお荷物なのかも知れない。何もかも彼に甘えてしまっている。

 分かってる。

 分かってるんだ。

「じゃ、お先に失礼します!今日は済みませんでした!!明日は大丈夫ですからっっ!」
「おう。何があったか知らないが、元気出せよ。羽村が暗いとらしくなくていけねぇー」
「そうっすね。それじゃ、お疲れさまでした!!」
「また明日なっ!」
  手を振って翔はバイト仲間に別れを告げた。

 らしくない。

 分かっているけれど。

 寂しいんだ。

「声…聞きたいな…」

 ポツリと思わず零れた言葉に翔自身驚いた。
  そんな風に思っていた自分に驚いた。

 寂しかった。
  まだ二日目。それ程経っていないのに、随分長い事、瀬那に会っていない様な気がした。
  声を聞きたかったんだ。
  あの大好きな青い目を見たかったんだ。

 瀬那の気持ちは分からない。
  一体どうして瀬那が翔を抱いたのか。やっぱり櫂の身代わりだったのか。翔の事をどう思っているのか。
  何も分からなくて酷く不安で、辛くて、苦しくて。
  なのに、側にいないと安心するどころか寂しくて堪らなくなる。

 本当に、好きに。
  なっちゃったんだな…。

 そう思った。
  気付いてしまえばもっと声を聞きたくなって。
  もしかしたら、家に帰ったら瀬那が居るかも知れないと急いだけれど。
  真っ暗な自分の部屋を見つけて、溜息が漏れた。

 一人、ご飯を作る気になんてなれなかったから、適当なものを買いに行く事にした。
  家を目前にして、真っ暗な家に背を向けた。
  それでも。
  きっと戻ってきた時も同じく電気は消えたままに違いなかった。

 予想に違わず誰もいない家に一人帰宅し、美味しくもないご飯を食べた。
  思い出したのは瀬那と一緒に食べたご飯美味しかったなとか、楽しかったな、とかそんなどうでも良い事ばかり。
  お風呂から上がって来て、さっさと眠ってしまおうとして、瞬間目が瀬那を探していて、それに気付いて自分で笑ってしまった。
  誰もいないのに。
  今この部屋には自分以外誰も、挨拶をする様な相手はいないのに。
  一体誰に「お休み」を言うつもりだったのか。
  涙が出そうになってグッと唇を噛み締めた。
  そのまま布団に入ってしまおうとして、電話が鳴った。
  一瞬体がビクリ、と震えた次の瞬間電話に飛びついた。
「はい、羽村です!」
「ああ、翔?」
「瀬那っ!」
  電話越しに聞こえてくる声はいつもとはちょっと違う風に聞こえる。
  それでも聞きたくて聞きたくてしようがなかった声に違いはなくて。
  胸が苦しくなって、何かが今にもせり出してきそうで、言葉に詰まった。
「ええ、私です。翔?どうしたんです?何かありましたか?」
  少し心配そうな声が寂しさに悲鳴を上げていた心に染み込んでいく。
「ううん、なにも、ない…」
  なんとか口にした言葉は酷く舌っ足らずで可笑しかった。
  ぽたり、と零れ落ちたのはきっと言葉に出来なかった何か。
  頬を滑り落ちて、顎から雫が何度も流れ落ちていた。
「なら、いいんですが。ああ、それと後もう少し掛かってしまいそうなので、明日の夜になってしまいそうです」
「うん、わかった」
「今日は懐かしい人に会いましたよ。10年以上会っていなかったので。それから翔の資産関係も色々出てきたので、出来れば今度処分するのに翔が決めて下さい。実はロベール殿下や真理さんが持っていらしたものが幾らかあるんです。ただ、それらを相続すれば黒い翼に存在をすぐに知られてしまうので今まで放置していたんです。すっかりそんな事も忘れて私も旅に出てしまっていたので。もっと早くに気付けば良かったのですが、済みませんでした」
「別にいいよ。でも、父さん達のもの、か。どんなもの?」
「大きなものでは家とか土地ですね。他に真理さんのアクセサリーの類からロベール殿下がこちらに持参されたものなど色々ですよ。黒い翼は白い翼の血筋を狙っていましたが、別に金品の類を盗もうとしていた訳ではなかった様なので」
「そっか。それじゃー櫂にも聞かないと…」
  すらっと櫂の名前が出てきて、翔は吃驚して言葉を留めた。
  ああ。
  こうやって人は苦しみを忘れていくのかな、と思えた。
  逆に新しい苦しみを抱えながら。
「ええ、そうですね。櫂にも連絡しておきます」
「ん、ありがと」
「それじゃ、詳しい事は家に帰ってからと言う事で」
「うん!」
  サラッと出てきた瀬那のその一言が嬉しくて翔は元気よく頷いた。
『家に帰ってから』
  意識しなくても瀬那からそう言う言葉が出てくる自然さが何よりも嬉しかった。
「お休みなさい、翔」
「うん、お休みっ!」
  挨拶をして電話が切れた。
  ツーツーツーと味気のない電子音が耳元にあてたままの受話器から聞こえてきて、翔も受話器を置いた。

 寂しかったけれど。
  先程までとは違って、何処か満たされていた。

「おやすみ…」

 たった一言。
  言い合えたその事だけで。
  こんなにも嬉しいなんて。

「信じらんない」

 ついこの間まで櫂だけが好きで。今だって櫂が好きなのに。
  こんなにもついこの間までの自分と違う。

 くすくすと笑いながら、翔は布団に入り込んだ。
  きっと朝またおはようの挨拶が出来ないと言って、寂しく思うのだろうけれど、今朝みたいな事にはならないとそう思えた。
  もう大丈夫。
  ちゃんと出来る。
  一人でだって、大丈夫。
  声を聞かせてくれたから。
  元気を貰えたから。

 ちゃんと帰ってきてくれるって、思えるから。

 そう思っても……いいよね、瀬那?

 

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