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『好きでいたいんだ』

与えられた赦しは信じられない程心に染み込んで。
嬉しかった。

あっさりと受け入れてくれる存在が。
優しかった。

だから。
きっと、だからなんだ。

 

こうやって気持ちは変化していくんだって。

思った。

 

 

 あれから数日。
  瀬那は暫く日本に滞在するつもりなのか、同じホテルにずっと泊まっていた。
  そして暇があれば翔は瀬那と一緒に時を過ごしていた。でも、最初の時以来、体の関係は一切なかった。

「瀬那、いつまで日本にいるの?」
「さぁ、どうしましょうか」
  相変わらず旅をしている瀬那は特に時間に追われていると言うのがないらしく、曖昧に笑って居るだけだった。
「だってずっとホテルだとお金かかるじゃん」
「そうですね。いい加減何処か部屋を借りようかと思っていますが」
「なら、俺ん所来る?狭いけど、何とかなるよ?」
  思い切って言ってみた。
  ほんの少し驚いた様な瀬那は暫くしてから聞いてきた。
「良いんですか?」
「良くなかったら、自分から言ったりしないって」
  ドンと胸を叩いて笑ってやった。

 櫂の家を出てから、翔は一人暮らし。
  別に一人暮らしが出来ない訳じゃない。元々孤児院育ちで、大抵の事は自分で出来る。
  バック一つを背負った瀬那を翔は自分の家に連れて行った。
「ちょっと汚いけど、さ」
「ふふ…そうですね。少しは掃除をした方がいいですよ、翔」
  所詮男の一人暮らしで、特に気を遣わなければ部屋の中なんて荒れ放題な訳で。
  翔の部屋を見て瀬那はそんな風に言ったのだった。
「ちぇーっ」
  少しふて腐れた翔に瀬那は笑った。

 一緒に暮らす様になって数日。
  朝起きて、誰よりも一番最初に挨拶をした。
  あの青い瞳が何時も通り優しく其処にあった。
  一緒にご飯を食べて、ちょっと話をして。
  そして翔は仕事に出掛けた。
  仕事と言っても簡単なアルバイトだ。
  働かなくては生きていけない。櫂と別れた以上、経済的だろうがなんだろうがお世話になる訳には行かない。
  今度、本当にウィンフィールドへ行くつもりで居るが、なかなか来栖に連絡が取れない為行くに行けないで居た。
  人間界にいるのは辛かったから。
  出来るだけ櫂と距離を置きたかった。そうでなければ何時何処で偶然の名の下に再開してしまうか分からない。
  その時笑って居られるかどうかまだ自信がなかった。
  逃げだと言われればその通りだと頷くことしかできなかったけれど、ウィンフィールドに行きたいんだと言った手前、実際に向こうに行かない事には櫂に示しが付かないのも事実だった。

 夕方戻ってくると瀬那がお帰りなさいと迎えてくれた。
  なんだかくすぐったかった。
  櫂は仕事が忙しくて、そんな事は滅多になかったから。
  一緒に夕飯の材料を買いに行ったり、作ったりした。一緒にご飯を食べて、テレビを見て笑った。
  沢山お喋りもした。
  瀬那の旅行先での話とか、瀬那が居なくなってからの遊星学園での事とか。

 お風呂上がりのズボンを履いただけで上半身裸の瀬那を見る度に、あの夜を思い出してドキッとしたけれど、全然瀬那は気にした風もなくて、その度に自分だけが気にしている様で恥ずかしかった。
  おやすみなさい、と挨拶をして。
  おやすみ、と返事が返ってくる。
  こそばゆかった。
  幸せ、だったのかも知れない。

 

 そんな日々の中で一体どういう話の流れか初恋の話になった。
  翔にとっては小学生時代の同級生がそうだ。
  ちゃんと初恋は女の子なんだ、と言えば瀬那は笑った。
「笑いすぎ!」
「済みません」
  そんな遣り取りの後だったと思う。
「瀬那の初恋って誰?」
「私ですか?そうですね、私の場合…真理さんですかね」
「真理さんって俺の母さん?」
  驚いてちょっと素っ頓狂な声が出た。
「ええ、そうです。おかしいですか?」
「そ、そう言う訳じゃないんだけど…なんか…自分の母親が初恋とか言われると…ジェネレーションギャップが…」
  ブツブツと言ってみる。
  何故それ程、驚いたのか実は翔自身よく分かっては居なかった。
  ただ、目の前に居る男が母親に惚れていたと言われれば大抵は驚くだろう。
  しかし、当時瀬那は12歳位なわけで。初恋としてはそんなものなんだろうと思い直した。
「うーん…初恋が人妻。なんか凄い☆」
「そうですか?」
「そうだよ!幼稚園のお姉さんとか学校の養護教諭とか、ありがちなパターンとはちょっと違うし!」
「あ、ありがちなパターン…」
  翔の言葉をオウム返しにして瀬那は笑った。
  何やら笑いのツボを付いたらしい。
「な、なんだよ。そんなに笑う事ないじゃんっ」
「結構、翔もロマンチストなんですね」
「うっせーっ☆」
  暫くの間、肩を震わせていた瀬那に翔は唇を尖らせた。
  何時までもくすくすと笑っている瀬那に、翔は声を掛けた。
「瀬那は今でも好き、なの?」
「好き、とは真理さんの事ですか?」
「うん。母さんと俺達二人を守るって約束…したんだろ?ずっとその事気にしてたみたいだったから」
「そうですね。今でも…好きですよ」
「そ、そうなの?!」
  驚けば瀬那はあっさりと頷いた。
「翔だって小学生の頃の初恋の彼女。今でも好きでしょう?」
「そりゃーそうだけ、ど」
  本当に淡い感情で、好きも嫌いも殆ど残っては居ない。ただ、そうだったんだよなぁ〜と言う感慨深い思い出として心に残っているだけだ。
「好きなら好きで。別に忘れなくちゃいけないものではないと思うんですよ」
「忘れなくても、いい?」
  その瀬那の言葉が胸にじんわりと染みた。
「叶わなかった想いは時が経てば優しい思い出になってしまうかも知れませんが、相手と想いが通じなくったって、好きでいる分には良いと思いますから。あ。言っておきますけど、真理さんをロベール殿下から奪いたいとかそう言う風に思った事はありませんでしたよ。ロベール殿下の事もとても大好きでしたから」
  そんな事を瀬那は言ったけれど、後半部分は余り聞いていなかった。

『想いが通じなくったって、好きでいる分には良いと思う』

 なんだか、許された気がした。
  自分から約束を破って、櫂から離れた。
  それなのに、未だに櫂が好きだなんて、駄目なんじゃないかって思っていた。
  なんだかんだ言っても、まだ櫂が好きで。
  好きだと言う気持ちを殺してしまいたくはなかったから。

 そっか、と思った。
  好きでいたいと思っても良いんだって。

「じゃぁ、他に好きな人って居ないの?ずっと母さんを好きなままなの?」
「…さぁ、どうでしょうね」
  翔の質問に瀬那は一瞬目を苦しげに細めてから、素っ気なく答えた。
  何となく、翔には瀬那に好きな人がいるんだとそう思えた。
「ただ、真理さんは真理さん。他の人は他の人。どっちも好きになれると思いますよ」
「母さんを好きなまま?他の人を?」
「ええ」
「母さんは…その死んじゃってるからあれだけど、どっちも生きてたら大変じゃない?」
「好きは好きでも、違うでしょう?昔好きだった人と今好きな人では。好きには色んな種類がありますし。でも、どちらも好きに違いはない」
  でしょ?
  と微笑まれて翔は首を傾げた。
  なんだか分かる様な、分からない様な。
「ふ〜ん?」
  難しいやと気のない返事をすれば、やっぱりおかしそうに笑っている瀬那が居て、舌を出してアッカンベーをしてやったら、余計に笑われた。

 でも、その好きが変化するのは一体何時なんだろう。どういう風に変化していくんだろう。
  自分の中で苦しい程の想いは何時か違う穏やかな想いへと変わるのは。
  時間とか、出会いとか、ちょっとした切っ掛けとか。
  本当に可思議なものなんだろうな、と思ったりした。

「でも、そうだよね。無理に忘れなくても良いよね」
「ええ。秘めていなければならない恋でも、報われない恋でも、許されない恋でも。消してしまうなんて出来ないんですから」
「なんか流石だよね。そう言う恋…してきたんだなって思っちゃうよ」
「ふふ…色々経験してきましたからね」
  大人なんだから当然、みたいな瀬那が酷く眩しく思えた。
  色んな苦しみを乗り越えて、こんな風に優しい眼差しで笑える様に俺もなりたいと思った。

 そうして、櫂を好きなままでいたかった。
  自分から櫂の手を離してしまった分、余計にそう思えた。

 

@04.05.04>04.05.09/