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02『見てるだけでも』

本当はこんな事望んでなかったんだ。

ただ、優しくて。

その優しさに包まれているのが凄く気持ちよくて。

駄目だって分かっているのに、拒む事が出来なかったんだ。
馬鹿、だね。
きっと後で苦しむのに。
きっとこんなにも優しい人を苦しめてしまうのに。

ゴメン、なさい……。

 

 

 朝起きて暖かい温もりに包まれている事に安堵を覚えた。
  思わずその温もりに縋り付く様にしてからハッと我に返った。
  櫂と別れてからこんな風に朝、人の温もりを感じた事はなかったから。
  顔を上げれば、やっぱり優しい青い眼差しとぶつかって、余りの眩しさと申し訳なさと気恥ずかしさに翔は俯いた。
「おはよう」
「お、おはようっ」
  さらり、と挨拶をしてきた相手に翔もなんとか答えたが、言葉はなんだか裏返っていて情けなかった。
  そんな翔を笑うでもなく相手は額に触れるだけのキスをしてベッドから出ていった。
「お腹空いたでしょう?何か簡単なものを準備してきますから、待ってて下さい」
  そう言って彼が姿を消した途端、翔はガバリと起きあがった。

 体は服を何も着ていなくて。
  あちらこちらに散った赤い痕が昨夜あった出来事を裏付けしていて勘違いでも、記憶違いでも、夢でもないのだと突きつけていた。

 昨日は櫂の結婚式。
  一人で居るには苦しくて、寂しくて。
  偶然見つけてくれた瀬那に誘われるまま一緒に時間を潰した。
  ご飯を食べて。家に送りますよと言う瀬那の言葉を断った。

「翔?」
「一人に…なりたくないんだ…」
「翔…」
「お願いだから…」
  戸惑う瀬那に懇願した。

 今。
  櫂がどうしているのだろうと思うだけで心が引きちぎれる気がした。
  今。
  あの綺麗なお嫁さんを腕に抱きしめて居るんだろうかと思うと。
  かつて自分を包み込んでいたあの温もりが他の誰かを愛おしんでいるのかと思うと。
  気が狂いそうだった。

 ブンブンとその想像を振り払う様に頭を振って、瀬那に縋る様な眼差しを向けた。
「一人に…しないで」
  一緒にいてくれるだけで良いから。話をしてくれなくてもなんでも、側にいてくれるだけで、それだけで良いから。
「そんなに好きなのに、何故黙って見ていたんです?」
「え?」
  苦しげとも取れる表情で瀬那が聞いてきて翔は一瞬なんの事か分からなくて瞬きをした。
「櫂の事が好きなのでしょう?ならどうして櫂の手を離したんです?」
  ストレートに聞いてきた瀬那に翔はなんと言って良いか分からなかった。

 櫂が自分に向けてくる感情とは別に、彼女に恋をしていたから?
  自分が櫂の兄だという意識を捨てきれなかったから?
  櫂に幸せになって欲しかったから?
  櫂の義父に言われたから?

 どれもこれもあっている様で、あっていない様で、上手く言葉に出来なかった。

 ただ。

「………櫂を愛していたから、かな?」

 たっぷりと悩んで、間を空けてから答えた。そうとしか答えられなかった。
  きっと瀬那達はあの結婚式に姿を出さなかった翔を心配していたのだろう。好きな癖に自分から櫂を手放して、なんでそんな事をするのかと。でも、これは仕方の無かった事。そうする事しか出来なかった。
  そう。櫂を好きだったから。一人の人間として。そして何よりも兄として。
「忘れさせてあげますよ」
「え?」
  伸びてきた手から逃げる暇さえなかった。
「翔」
  耳元で囁かれて、ゾクリと肌が粟だった。
「せ、瀬那?」
  呼んだ名前は途中から瀬那の唇の中へと吸い込まれて消えた。
「んっ…ふ、ぅんっ…」
  触れてきた唇はしっとりと翔の唇を包み込んだ。
  そのまま、歯列を割って奥へと入って来た舌に自分のそれを絡め取られて息が上がる。
「はっ…ん」
  優しくて、甘いキス。
  でも、深くて、激しくて、ねっとりと腰に響いてくる様な濃厚なキス。
  櫂以外と今までした事がなかったけれど、瀬那のキスって上手い?!とか思っていれたのは本の少しの間だけで、直ぐさま何も考えられなくなってしまった。
「翔…」
「…翔…」
  甘い囁きと愛撫に思考能力は奪われて、巧みな愛撫に快感を極限まで引き出されて、身悶えた。
  真っ白になった頭では何も考えられなくて、ただ、ただ、その大きな背中に腕を回してギュッと爪を立てた。

 

 

 今、部屋を出ていった瀬那の背中に残っていたその爪痕が何とも恥ずかしかった。
  こんな肉体関係になる事なんて望んでいなかったんだけれど。
  でも。
  お陰で忘れていられた。
  今、櫂がどうしているだろうかと頭にこびり付いていたそれから解き放たれる事が出来た。
  だけど。いや、だからこそ、か。
  後悔していた。
  瀬那にあんな事をさせるべきではなかったと。

 あの優しい眼差しに包まれているだけで良かったのに。
  昔と変わらない青い瞳を見て居るだけで、心が落ち着いて穏やかになれて、優しい気持ちになれて。
  それ以上なんて望んでいなかったのに。
「翔…パンを焼きましたけどこっちに持ってきましょうか?」
「え、あ、ううん。いいよ、行く」
「そうですか?体は…大丈夫ですか?」
  相変わらず丁寧な言葉遣いの瀬那にカッと顔が赤くなった。
「だ、大丈夫だって!」
「じゃぁ、着替えを持ってきますね」
  そう言って瀬那は姿を消すと、翔が着替え?と戸惑っている間に服を持って戻ってきた。
「私の服なのでサイズが合わないとは思いますが。昨日のは取り敢えず洗濯しておきます。帰りまでには乾くでしょうから」
  そう言ってまた部屋を出ていった。
  渡された服を持ったまま、どうしようかと悩んだが、実際この場に自分の服はない訳で、裸のままで居る訳にも行かない。
  腕を通せば洗い立ての香りがした。
  そのままシャツを羽織り、ジーンズに足を通した。
「むっ」
  赤穂浪士の「殿中でござる!」が出来そうな程、裾が余ってちょっとばかり腹が立った。
  よいしょよいしょと捲り上げて、なんとか裾は収まったのだが、ウエストばかりはどうしようもなかった。
  そう、ウエストがかぱかぱで大きすぎてともすれば脱げてしまいそうで何とも心許ない。
  なんだか男としての体格の差を見せつけられた様でやっぱり面白くなかった。
  そのまま部屋を出て。
  瀬那の姿を探していると、服が馴染んできたのかふわっと覚えのある香りに包まれた。
「なんだろ?」
  そう思って、記憶を攫ってから昨夜一晩中翔を包み込んでいた瀬那の匂いだと気付いた。
  なんだか無性に恥ずかしくなって顔が熱くなる。きっと真っ赤に違いない。
  火照った顔を冷やしたくて、顔を洗おうと洗面所を探した。
  バシャバシャと冷たい水で顔を洗えば、頬の熱と一緒に気持ちも落ち着いて、目も覚めて気持ちが良かった。
  鏡に映った自分は大きめなシャツを羽織っているのだが、サイズが合っていないのがまる分かりで。
  大きく開いた胸元から赤い痕が覗いて、咄嗟に手で前をかき合わせた。
  一番上まで釦で留めて、ほっと一息吐いた。
  寝癖が付いたままの髪も水で濡らして手櫛でなんとか落ち着かせる。

 ようやっと身支度と心の準備を終えて、瀬那を見つけた翔は思わず瀬那に見とれた。
  机の上には焼きたてなのだろうパンが置いてあり、レタス付の目玉焼きまで置いてある。コーヒーからは暖かな湯気がゆらゆらと揺れていた。
  朝日の当たるダイニングで瀬那はコーヒーを片手に飲みながら、眩しそうに窓の外を見つめていた。
  その眼差しが酷く幸せそうで、でも、切なく寂しそうでもあった。
  赤毛の筈の彼の髪が朝日を受けて白金に煌めいていた。
  長い足を組んで、物思いに耽る様は格好良くて、見惚れずには居られなかった。
「ああ、翔…待っていたんですよ」
「あ、うん。ありがとう」
  気配に気付いたのか振り返った瀬那は昨日同様優しい眼差しを翔を向けてきた。
  昨夜あった事など関係ないと言わんばかりに、変わらない態度に何とも言えない不安を覚えた。

 いいのだろうか。こんな風に甘えたままで?
  何もなかった事にしてしまっていいの?
  瀬那は…それで良いの?

「バターとかつけますか?ジャムもありますけど」
「えっと、バターにいちごジャム、かな」
  そう答えれば、バターといちごジャムがさっと前に出された。
「サンキュ」
「いいえ、どう致しまして」
  にこり、とやっぱり瀬那は微笑んだ。

 彼は何も聞かない。
  昨夜どうして?と聞いてきたあれ以外何も聞いてこない。
  きっと知っていて聞いてこない。
  優しいから。
  でも、それが辛くもある。

 甘えるままじゃ駄目だって分かっているから。

 なのに。

 これでは、離れられなくなってしまう。

「いいんですよ。何もかも承知の上なんですから。あなたが気にする事はないんですよ」

 まるで翔が何を考えているのか分かっているかの様なタイミングで瀬那はそう呟いた。
  驚いて見上げれば。
  吸い込まれそうな程綺麗な青い瞳。
  見て居るだけで、心が落ち着いてしまう様な深い青。

 こんなに瀬那の目は綺麗な色をしていただろうか?
  なんで今まで気付かなかったんだろう。
  不思議に思いつつも、もっとずっと見て居たいと思ってしまった。

 だから。

「ゴメン。それから…ありがとう…」

 言えば、苦笑とも言える笑みを瀬那は浮かべて見せた。

 その時食べたパンはサクッとしていて、ジャムがとても甘くて、コーヒーはちょっぴり苦めだった。

 

@04.05.04>04.05.09/