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『櫻回廊 15 〜暁光〜』

柔らかな朝の陽射しが眼にまぶしくてふと目が醒めた。
小鳥の爽やかな囀りが微かに耳に心地いい。自分の体を暖かく包み込む布団が気持ちよくてツイツイそのまま眠りそうになって、龍麻はハッとなった。
怪我をして意識の無かったはずの壬生が寝ていたベッドに自分が寝ていることに気づいて龍麻は慌てた。

―――壬生っ・・・・・・

周囲を見回しても壬生の姿は見えない。あの傷で、よく動けたモノだ・・・と思うモノの、どちらにしてもまだ体調はかなり悪いはずだった。
実際には龍麻の気を受けて、必死だった龍麻が意図するよりも壬生の怪我は回復していた。でなければ、ベッドの脇で自分の体に覆い被さるようにして意識を失っていた龍麻をベッドの上に寝かせるなんて事は出来なかったのだが。起きたばかりの龍麻にはソコまで考え至ることは出来なかった。
寝起きの朦朧とした頭を振って意識をはっきりさせようと勤める。

ど、何処に行ったんだ?

言葉にしようとして声が出ない。
体に力も入らず、上半身を支えるのがやっと。ソレですら頭がクラクラして平衡感覚が鈍くなっているのか気を抜くとベッドの上に倒れ込んでしまう。

「くぅっ・・・」

倒れ込んだベッドの上で自分の体の異常に龍麻は眉を顰めた。
すぅっと意識が途切れそうになったり、クラクラと目眩がする。
そのまま。
微睡むように。
頭の中で不思議と。
色々なことが浮かび上がる。

ソレは【龍麻】の知ることの無かった記憶。
いや、失われていた記憶。

自分を育ててくれた両親、家族。中学、そして以前通っていた高校での友人。様々な想い出。今まで自分が覚えていたモノを遙かに超えた深く厚みのある【自分】としての記憶。
懐かしさに涙が滲む。
今まで自分に無かった【歴史】がある。
心が温かくなる。
ソレは確かに自分が自分だと胸を張って言えるような、しっかりとした安心感。

―――それでも。俺は緋勇龍麻・・・だ。

そう言える。
確かに桜の言ったことは本当だったらしい。自分は自分のまま。特に桜の意識に飲み込まれたとかそう言う気はしない。
元から同じ人間。同じ魂。例え飲み込まれたにしても、きっと違和感などは無いのだろう。ソレは、あたかも二つに分かれていたモノが再び溶けて混じり合って。一つに戻ったかのようで。

ベッドの中で龍麻は暫く動けないまま、一人遠い過去に思いを馳せる。
そして自分は全てを取り戻して、今まで不完全でどこか不安定だったモノが、やっと落ち着いた・・・そんな満たされた思いの中で。
やはり心はたった一つの事へと収束される。

「壬生・・・」

零れ落ちた言葉は溢れた気持ち。彼への愛しさを抑えきれずに。
だから。
彼を。
迎えに行かなくては・・・

―・◆・―

ひらひら、ひらひら

風に舞う櫻の花弁は軽やかに目の前を舞い降りる。
去年見た景色と何も変わらない。薄紅色に染まった景色の中で、木々の間から零れ落ちる陽射しが櫻色の欠片をきらりと浮かび上がらせる。
何も知らずに歩いた道を再び歩く。

ソレはまるで思い出を探して歩くかのように辺りを見回しながらゆっくりとしたものだ。
自分に降り注ぐ櫻の花弁はまるで桜の想い。
優しく自分を包み込んでくれる。
手を差し出せば、ひらりと舞い降りた一つの欠片を愛おしげに壬生は見つめた。

「変わら、ないんだな・・・」
美しい櫻の風景の中、自分はどれ程変わっただろう・・・そう思う。
色々な想いを知った。感情を知った。今まで知りもしなかった自分を知った。
今まで生きてきた中で一番・・・辛くてでも大切な事を経験して、沢山のモノを得た。
懐かしい想いを胸に甘く切なく思い出す。

この道で。
彼女に出逢った。

この櫻の木の元で。
愛に出逢った。

ソレが愛と気づかずに。ソレを愛と知って。全てはこの場所で始まった。ソレは遠い過去の記憶。そう、ソレは・・・過去の・・・・・・

「過ぎた・・・記憶・・・」

立ちつくす壬生の上に櫻の花弁が舞い落ちる。
掌の中の櫻の花弁を見つめてきゅっと握りしめる。

「壬生っっ!!!」
名前を呼ばれて。
とっさに顔を上げて声のした方を見る。
忘れる事なんて出来るはずもないその声。
自分が誰よりも一番愛した、音。

横道から走ってきたのか息を切らした龍麻が出てきた。櫻の花弁舞い散る中で、陽射しが彼を照らし出す。
かつて桜に初めてであったその場所で。
再び―――出逢う・・・
ふわりと風が吹いて華が散る。
降りしきる薄紅色の欠片の中で、まるで初めて出逢った頃の【桜】の様に長い髪の毛の龍麻の姿。風に櫻の花弁と共に黒髪が艶やかに揺れる。
淡く光り輝くように浮かび上がるその姿に壬生は驚きながら心が震えた。
「・・・龍、麻・・・?」
やっとの事で震える声が・・・彼の名を呼ぶ。
龍麻はゆっくりと壬生に近づいて。にっこりと微笑んだ。
「俺の名前を・・・呼んでくれるんだ?」
その意味に、壬生は苦笑を浮かべた。
「・・・それ以外の名前なんて無いだろう?」
そう。もう既に・・・桜は龍麻で、龍麻は桜。そして今は・・・緋勇龍麻・・・ソレが愛しい人を示す名前。間違えようもない。【彼】は【桜】であって【龍麻】なのだから。
「ああっ・・・」
その通りだと、頷く龍麻に壬生は愛おしげな視線を投げる。【桜】の身代わりではなく、【龍麻】自身を見てくれているのが解るから。
嬉しくて。
「よく・・・ここだって・・・分かったね・・・」
「ん?きっと・・・壬生は初めて逢った場所にいるって、そう思った・・・」
「・・・・・・・・・・た、龍麻?」
にっこりと自分を見上げるようにして笑う龍麻はまるで楽しそうな確信犯。
「返事・・・聞かせてくれるんだろ?」
壬生の気持ちを・・・知りたくて聞いた言葉。
今の自分は過去も知っているけど、それでも【龍麻】として、今現在の自分を見てくれるのか?愛してくれるのか?と・・・怖くて真っ直ぐには聞けない龍麻の精一杯の言葉。
ソレはかつて壬生が【桜】とした会話の続き。

『ずっと一緒に?まるでプロポーズみたいだね?』
『えっ!???』
『お返事は今度逢ったときでいいかな?』

ちょこっと首を傾げるようにして真っ直ぐな漆黒の瞳に捕らわれる。

―――再び・・・出逢い、惹かれ・・・あう―――

「・・・・・・まさか・・・」
壬生はあり得るはずがないと驚きに眼を見開きながら頭を軽く振る。
「聞かせてくれないのか?」
「龍麻・・・君、記憶が・・・」
「なぁ、壬生?」
龍麻は悪戯っぽい表情のまま壬生の事には答えない。でも・・・どこか不安気に揺れるその眼差しに、壬生は腕を伸ばし掛けて。
その腕をぎゅっと自分で握りしめて動きを抑える。
そして壬生は静かに首を横に振る。

返事など・・・返せるはずがなかった。
【桜】の記憶が戻った龍麻。彼が自分に向けてくれる優しい瞳。笑顔。それだけで。自分は許させているような気になってしまう。
でも。そうじゃない。
罪を犯したのは自分。
赦されることのない、罪。ソレは例え龍麻が赦しても自分が許せなくて。だと言うのに。
ゆっくりと龍麻は同じように首を振る。

全てを受け入れる、全てを赦す、しなやかで強かな魂。そして全てを・・・捨てられるその強さ。

彼は無言で見つめてくる。溢れる程の優しさを湛えた瞳で。真っ直ぐな眼差しで。

ひらり、ひらり
ひらひら

ひらり

花弁が零れ落ちる。

まるで桜と同じ眼差しをする・・・

そう思った。
初めて龍麻にあったとき桜と違うと思った。
氣が違う。眼差しが違う。
そう、強く思った。
でも・・・今の龍麻は桜と同じ強さを持った瞳をしている。優しくて誰よりも強い、真摯で真っ直ぐな瞳。深く深く。吸い込まれそうな程の、綺麗な眼。
クラリとなる。
再び、同じ櫻の木の下で、同じ強い眼差しに心惹かれて。
抗えない・・・

そうっと龍麻が両手を壬生の方へと伸ばして、差し出される。
全てを承知の上で、尚かつ自分を赦すというのか。
壬生は思わず泣きそうな貌をして、抑えきれない想いに龍麻の体を抱き寄せた。

与えられたのは・・・・・・赦しではなく、無償の・・・やさしさ。癒し。

言葉が無くとも、お互いの気持ちは通じていたから。
この場で。
その眼差しで。
全てが・・・お互いに解り、解ってくれるから。
言葉はいらない。
許しを請う言葉も、許しを与える言葉も、必要はない。

「龍麻・・・」
ぎゅっと抱き締められて、龍麻は壬生の背中に手を回した。
「龍麻、龍麻、龍麻っ!!」
溢れる想いで、壬生は何度も何度も名前を呼んだ。
龍麻はあまりの幸せに涙を滲ませる。
「壬生・・・」
「ああ、ずっと一緒だ。いつまでも、君を離さないっ・・・!一緒に生きていきたい・・・」
壬生の想いの籠もった言葉。
それは<返事>。
龍麻はぎゅっと壬生の背中に回した腕に力を込めて。壬生の胸に顔を押しつけた。
「ずっと・・・一緒に・・・」
「ああ。約束した通り、もう離れない・・・」
そっと壬生は龍麻の顔を上げさせる。
涙で潤んだ瞳が自分をじっと見上げてくる。長いまつげに涙の滴が美しく、櫻色に艶やかな唇がそっと動いて自分の名前を形作る。
「壬生・・・」
「君が、好きだよ。龍麻・・・」
そのまま龍麻の唇にキスをした。
何度も何度も軽く触れては離れて。そっと口づける。

―・◆・―

どれ程の間そうしていたのか。
さわりと風に吹かれて壬生は我に返った。
一旦体を離した後、同じように我に返ったのか、少しばかり恥ずかしそうに頬を染める龍麻のこめかみにちゅっと軽くキスをすると壬生は龍麻の体を惜しむように手放した。
「っ、みっ・・・」
我に返ってからこんな道の往来でされたキスに龍麻は一層顔を赤らめて言葉に詰まる。
そんな龍麻に壬生は笑みを浮かべる。
「・・・髪の毛・・・どうしたの?」
唐突に問いかけられて龍麻は一瞬何のことかと眉を潜めた。
「・・・ああ、なんか・・・起きたら記憶が・・・戻って来て、体の調子がおかしくなって。で、動けるようになって鏡で見たら髪の毛が伸びてた。」
あっけらかんと龍麻はそう言って笑う。
自分が龍麻をベッドに寝かせて家を出てきたときは短いままだった。ソレが・・・たった数時間で十センチ以上も延びれば驚くというモノ。
今まではそれどころではなかったから、ツイツイ忘れていたけれど。
「体調?もう大丈夫なのかい?」
「ああ、もう大丈夫。それに・・・体も・・・ね。なんか元に戻ったみたいだ。」
「・・・元に?ソレは・・・」
「なんか、今年に入ってから女性化って言うのかな。女に戻ってきてたんだけど。すっかり元の・・・と言うのも変か。【俺】にとっては、元に戻る・・・何だけどさ。」
わかる?と斜めに見上げられて壬生は苦笑をした。
「ああ。」
ソレは・・・両性具有は変わりはなくても、メインになるのが男の体になった・・・と言うことだろう。あくまでも、男でもあり女でもあるわけだが、一見すると男にしか見えない。そう言うことだ。
「やっぱり一目で分かる?俺自身はあんまり区別・・・つかないんだけどさ。」
「そうだね。そんなにハッキリとは解らないかな?」
クスクスと笑う。
元々龍麻はそれ程、男、男していたわけではない。中性的であったのだから。結局、彼は【桜】の記憶を受け入れることで、自分は自分という確固たる意識を持った。その意識が、彼の体を安定させた。今まで壬生への想いに、【桜】の想いに揺れていた龍麻の体は固定されたのだ。もう二度とベースが女性化する事はないだろう。まぁ、妊娠でもすれば話は別なのかもしれない。(出来れば、の話だが・・・)
「なんだよ。笑うなよ。」
憤懣やるかたなし、と言う風に龍麻は唇ととがらせる。
「結構気にしてたんだね。」
「当たり前じゃん!」
「僕にとっては男でも女でも関係ないから。気にもしてないんだけど、ね?」
「・・・っっっ」
かぁーっと顔を赤らめる龍麻に壬生は幸せそうに微笑む。
龍麻は照れ隠しのように、ペシペシと自分の顔を両手で軽く叩くようにしている。
そんな龍麻の片手をそっと取ると、軽く口元に持っていって、指先にキスをして龍麻の眼を見つめる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
さらに顔を赤くする龍麻に愛おしさが溢れて。
「櫻の華のようにピンク色だね?」
「み、壬生の馬鹿っ!!」
「あははは。」
龍麻は恥ずかしさの極致なのかピンクを超えて真っ赤なのだが、壬生はそんなこと気にすることもなく龍麻の手を握りしめたまま、櫻の咲き乱れるその道を歩き始める。

ひらひら
ひらり

ひら、ひら・・・

二人の上に降り注ぐ櫻の花弁と木漏れ日。

なんだかんだと小さく口の中で壬生に文句を言う龍麻もおとなしく手を繋いだままゆっくりと壬生と並んで歩く。
時折壬生が龍麻を見ては優しい眼差しを投げかけて。
龍麻もそれにふわりと微笑んで返す。

ひらり、ひらり
ふわふわ

ふわり

櫻の花弁が舞う中、二人の後ろ姿がゆっくりと消えていく。
天上を覆う程の見事な櫻の隙間から零れ落ちる木漏れ日が美しく彩る櫻並木の道を二人して歩いていく。
二人の上に舞い降りるのは光に輝く薄紅色の欠片達。
全てが、再び新しく始まる。
だから。
もう二度と後ろを振り返ることはないだろう。

二人の背中が、薄紅色の霞の向こうに。
消えていった―――

【―完―】