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『櫻回廊 壱話 〜逢期〜』

とある拳武館に属するその道場を訪れたのは副館長の仕事だった。
館長が現在の居場所を副館長以外に内緒にしたまま姿を消して既に3ヶ月近くなる。そんな日々の中、おそらくは東京に居ない館長に代わり自分を監視するが如くの壬生が邪魔であったのだろう。別段壬生としては監視しているつもりもないし、実際には鳴瀧の居場所も知らず、連絡のとりようもなかったのだが・・・副館長は壬生は知っていると思いこんでいるらしかった。
ならば邪魔者を一カ所にまとめて、それがたった数日のモノであれ、自由なひとときを得ようとした副館長の浅はかな考えによる仕事だった。
ただ・・・それは壬生にとって幸運なことであったのか、どうか・・・運命は違った形で巡り始める・・・

 

 

櫻舞い散る穏やかな日に、彼は出逢う・・・

 

 

その支部の道場の周囲は見事な桜並木で鮮やかな薄紅色に染まっていた。爽やかな風が吹き、ふわりふわりとその欠片が零れ落ちていた。
「・・・・・・」
道場への道を歩きながらそうっと頭上を見上げる。見事に生い茂った薄紅の美しさに言葉も忘れる。
風景を、美しいと感じたのは久方ぶりだった。
昔・・・美しいモノは美しいと感じていたはずの心は既に失われていた。では・・・何故今になって美しいと感じることが出来るんだろう。
疑問に想いながらも、それ程までに此処の櫻は美しいのだと・・・ゆっくりとした足取りで櫻に魅入りながら前へ進む。
櫻の花弁の隙間から白き輝きの陽射しが零れ、時折風に揺れた木々の隙間から覗く蒼い空は何処までも美しく櫻の薄紅色に抱かれた哀しみのようであった。
ふと前方の道場へと続く道に唐突に現れた一人の少女に視線が引き寄せられる。
おそらく道場へと向かうこの道への脇道から現れたのだろう。

肩より少し長いくらいの黒く艶やかな髪を風に揺らしている。ふとちょうど射した陽の光が彼女に降りかかり、その姿を美しくも浮かび上がらせる。
櫻の花弁が淡く色付いて彼女の廻りを彩る。
セーラー服姿の彼女が周囲に視線を軽く巡らせるとそのまま壬生の方へと視線を向けた。

視線が・・・重なる・・・・・・

―――ドクンッッ

一つ大きく。
心が揺れた。
その黒く真っ直ぐな瞳が壬生を見つめる。何故か心惹かれるその光の宿る瞳。強い眼差し。
少し驚いているのかその瞳が軽く見開かれたと思うと彼女はそうっと微笑んだ。
それだけで・・・周囲の櫻さえも彼女を彩る単なる装飾品の様になる。あれ程までに美しかった櫻が・・・色あせるように彼女にその存在感を譲る。
そんな彼女から視線を外すことも出来ずに壬生はゆっくりと歩みを進めた。当然、彼女に近づいていく事になる。

・・・トクン・・・トクンッ・・・

それに呼応するかのように・・・心地良い鼓動が・・・響く。そんな自分に苦笑してそっと通り過ぎる時に前方を見据えた。
「あの・・・貴方も道場へ行かれるんですか?」
彼女の前を通り過ぎようとした時に涼やかな声が聞こえた。一瞬人の声かと疑う程心の中に響くような耳に心地いいその声音。
「・・・そうですが?」
彼女の方にチラリと視線を流して一言だけ応える。
「私もなんです。一緒に良いですか?」
彼女のその伸びやかで物怖じしない様子に・・・壬生は好感をもった。
大抵自分の身に纏うその硬質な雰囲気は女性に限らず相手を萎縮させる。別にだからといってどうと思うわけではないのだが、それでもおどおどとした態度を見せられるよりは、その何処か自信を持った強い意志を伺わせる眼差しを真っ直ぐに向けてくる相手の方が印象が良いのは当然の事だった。
「別に構いませんが。」
短く応えると彼女がにっこりと微笑んで。
その美しい微笑みが壬生の心に刻み込まれた。

―・◆・―

今日の櫻は一段と美しい。
何時もながら見事な桜並木を歩きながら桜はそう思って薄紅色に染まった頭上を見上げた。
淡い色が陽射しを受けて輝く。その見惚れる程の美しさにほうっとため息を吐きながらトコトコといつもの道を歩いていた。
先の怪異より鳴瀧の元で古武術を学んでいた。毎日学校のある日は授業の終わった後で。学校のない休みの日は朝からと殆ど毎日通い詰めていた。だからこそ・・・何時も通る美しい櫻の並ぶこの小道が大好きだったのだが、今日は何時もと何処か変わって見えた。

道場へと向かう大通りに合流して道が広くなる。再び眼前に広がる薄紅色の乱舞。その花弁が風に舞い、まるで木々の間から零れ落ちる陽射しと戯れる小さな精霊の様に見える。そんな美しさの中で自分の方を見る気配を感じて視線を向けた。
濃紺の学生服を着込んだ、涼やかな美貌の一人の少年。春の暖かな陽射しを受けながらこの桜並木を歩いてくる。そのゆったりとして己の道を進む様な、しっかりとした足取りが・・・桜の心を惹き付けた。なのに何処かこの春の風景に彼は溶け込んではいなかった。その身に纏う気配のせいだろうか?しかし、そのせいかどうかは分からないが、桜には薄紅色の櫻の花弁が彼をまるで慕うようにふわりふわりと舞い、辺り一面全ての櫻が彼を包み込んで癒そうとでも言うかのように見えた。

櫻に愛されてる・・・

相変わらず桜の目には彼の周囲を飛び回る桜の精の姿が見えていた。
思わず目を目を見張って彼の方を見つめてしまった。当然彼と目線が合って。

ドクンッッ―――

一つ大きく鼓動が跳ねた。

その漆黒の闇を思わせる瞳に宿る切ないほど美しい光。今にも闇に包まれて呑まれてしまいそうな程か細く光る。だと言うのに、その身から放たれる強い氣。背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見据えて歩く、その姿。
しなやかで無駄の無い動きで近づいてくる彼にどうしようもなく惹かれて目が離せない。

・・・トクン・・・トクンッ・・・

何処か心地よい程の鼓動が胸に刻まれる。
そうっと目の前を彼が通過する。先程まで合わされていた視線がふっと逸らされて、彼が前方を見据えた。
美しく真っ直ぐで強い視線。何故か寂しくなって・・・もっとその眼差しに触れていたくて気がついたら口から言葉が零れ落ちていた。
「あの・・・貴方も道場へ行かれるんですか?」
チラリと再び流された彼の視線と絡まる視線・・・それだけなのに何故か躯が熱くなる。
ドキドキと高鳴る胸に不思議な高揚感。
「・・・そうですが?」
少し首を傾げる風にして横を向いた壬生の髪がさらりと揺れる。それは木漏れ日に当たって淡い光をはじいている。
短く応えた彼の声に宿る響き。
低く静かな声音。でも・・・耳に心地よい程のその涼やかで何処か懐かしさをも感じさせるその声に。
魂が振るえた―――
もっと側にいたくて。
「私もなんです。一緒に良いですか?」
ただ一緒に居たくてそれだけの想いが桜を動かした。
自分に向けられた彼の眼差しを受け止めながら、その瞳が哀しい事に気がついた。
どうしてだなんて分からない。

ああ、優しい人だ・・・

そう・・・思った。
もし、理由を挙げるなら、櫻達が彼を慕っていたからだろうか?別に実際櫻がどうというわけでもない。桜本人にそう見えただけなのだが、桜にとってはそれで十分だった。
そして何故か自分も又・・・そう、桜の花弁と同様彼の側に居たいと思う。彼の何処か寂しいその瞳を癒したいと、守りたいと思えた。
「別に構わないが。」
余り多くを語らない彼の言葉がまるで乾いた砂に水が染み込むように、すぅっと桜の心に染み渡る。
何かどうしても欲しくてたまらなかったモノをやっと・・・見つけた。そんな気になりながら、一緒に居られるその事実にうっとりと微笑んだ。
たとえそれがどれ程危険なことか分かっていても。もう・・・既に時は遅く、流れ出した奔流は止めることなど出来はしなかった。

 

 

櫻舞い散る春の日に。二人は出逢ってしまった。
ソレは意図されなかったモノ。あり得るはずの無かった・・・出逢い―――
純粋にお互いの心に響き合うの存在に惹かれて。
もう、その出逢う前には戻れない。
二人ともに何も語らずに歩き始める。ソレが当然の事とでも言うように。まるで自然なことだというように違和感を感じない。その事実に気付くことすらなく二人は・・・お互いの存在のみを・・・感じていた。

櫻、櫻。
櫻薫る風の中でそっと二人は気付かぬ内に恋をしていた―――