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『愛(いつく)し戀(こい) 1』


 京に平和が戻って数カ月が経った。もう既に暑い夏は通り過ぎ、夜には涼やかな虫の音色が煩いほどになった。美しく晴れ渡った夜空にくっきりとした月が浮かんでいる。

 月を見上げて。

 胸を押さえるようにして鷹通は小さくため息を吐いた。

 ―――月……月の姫……

 押さえる掌に更なる力が込められた。眉根は苦しげに寄せられて、真摯な眼差しはじっと月だけを見つめていた。

 ザワザワザワ……

 時折風に乗って流れてくる宴を楽しむ人々のざわめきも鷹通には全く聞こえていない。だから、近づく人の気配や足音にも気付かなかった。

「美しい月だね。」

 艶のある低い響きの良い声が聞こえて鷹通はハッと振り返った。

「友雅殿。」

「最近の君は悩ましげだ…と噂だよ?一体何があったんだろうね?」

 含みのある言い方と微笑み。前と変わらぬ友雅の様子に鷹通は眉を顰めた。

「またご冗談を……」

 いつものことではあるけれど、それにつき合う余裕は今の鷹通には無い。少しばかり眼差しをきつくする。

「冗談なんかではないのだけれどね。女房殿に良く聞かれるのだよ。『物憂げなお顔がお美しくていらっしゃいますけど、何かあったんでしょうか?』とね?」

「………そんなことは……」

 律儀に応えようとして言葉に詰まる鷹通に友雅は好もしげな笑みを浮かべた。

「まぁ、婚儀の事を言っているのだろうが、神子殿を得たのだと知ったなら、誰もが納得するかも知れないがね。」

 そう言って友雅は鷹通の様子を注意深く窺うようにしながら杯をあおった。

 鷹通の側に居たいから、と京に残ることを決めた龍神の神子。世間的には元の世界へ戻ったとされていた。その方が穏やかで普通の生活を送ることが出来るだろう、との配慮だった。その後慣れ親しんだ藤姫の義姉として京に留まる事になったが、突然左大臣の養子になった氏素性の知れない娘で、後ろ盾は主上ご自身だとの噂まで流れて、十分京の人々の注目を集めていた。

 そして、鷹通はと言えば、藤原姓とは言え摂関家ではなく傍流の流れ。確かに有能で、主上の覚えも目出度いのは分かっているが、婚儀の相手が養子とは言え左大臣の娘であるというのは結構な噂になった。身分違いでもあったし、今までの単なる固く真面目だと思っていた男が何やら急に翳りを持ち、悩める色香を漂わせ始めれば、元々容姿は十分なのに色事に疎いからと騒げなかった女房達が色めき立っても仕方のないことだった。

 しかし、そんな渦中にあってさえ、未だにそこら辺、女房達の様子に気付かない疎さが何とも鷹通らしい。

「……。」

 ビクリと固まってしまった鷹通に友雅はそっと息を吐いた。先日あかねの元を尋ねたが彼女もまた哀しみを抱えていた。とてもではないが、苦しかった片恋が実って、婚儀を控える二人とは思えない。

 友雅は自ら杯に酒を注ぎ、鷹通の杯に酒を注ぎ、懐かしく思い出す。鬼たちと神子と一緒似戦った日々を。そしてそれからのことを。

 神子が残ると言った時には天真や詩紋が大騒ぎで。ついで蘭が三年もの間行方不明で今更現代に戻っても、普通の生活に戻るのは難しいだろうから、と京に残ることを決めた。そのせいで、天真も一緒に京に残ることになった。

 八葉は一人欠け、『神子』は『龍神の神子』たる”力”の殆どを失った。とは言え未だに五行に影響を受けやすく、あくまでも彼女は『神子』だった。だからこそ側に常に八葉であったものが控えていることが必要とされた。そして鷹通とあかねの婚儀の話はトントン拍子で進むことになった。

 ―――その頃からだろうか。

 ふと、友雅は遠い目をした。

 月の上を雲が流れ、月光を遮る。

 ―――神子殿から幸せそうな微笑みが消え始めたのは。

「我らが姫君は元気かい?」

 唐突に物思いを中断して、鷹通に声を掛ければ黙ったまま、唇をかみ締めるようにして無言で返された。

 何があったのかは分からないが、こんな状態が何時までも続く筈がないと静観していれば早三ヶ月ほど。いい加減友雅も黙っていられない。とは言え、あかね以上に、苦しげな風情の鷹通に気軽に聞くことも出来ない。小さく溜息をつく。京に平和が訪れて。誰も彼もが幸せになる…その筈だったのに。

「月を………手に入れました。」

 今まで黙ったまま月を睨むように、挑むように、愛おしげに、寂しげに、赦しを請う様に見つめていた鷹通がポツリと言った。その手に持つ杯の酒に月が映る。

 ゆらゆらと揺れる月。

「手にはいる筈のない月が落ちてきました。恋焦がれて居たが故に手放すことなど出来なくて。」

「鷹通?」

 友雅は少し首を傾げた。

 月とは恐らくあかねのこと。だが?何か話が食い違っているようで。

「私は罪を犯しました。そしてその罪が顕かになり、全てを失う瞬間にひたすら怯え続けている。」

「………。」

「人とは何と容易く罪を犯す事が出来るのでしょう。友雅殿、あなたならきっと愚かで馬鹿らしいとお笑いになられるのでしょうね。」

 まるで鷹通らしくもない自虐的な笑み。

 しかし、月光を反射して、杯の中に零れ落ちた美しい鷹通の一滴の涙に友雅は切なげに目を細めた。

 雫で一度壊れた月がゆらゆらと再び姿を現す。

「鷹通。」

 友雅には珍しい真剣な声。それでも視線だけを友雅に向けて鷹通は無言だった。

「私は君のような情熱を知らない。だから、君のことを笑う等と言うことは出来ない。そんな資格がない事くらいは私だって分かっているのだよ。だが……真実を知ることは時には怖いものだが、君の場合は、損をしているだけのようだね。」

「……………どういう意味でしょうか?」

 クスクスクス。

 もういつもの友雅の笑み。悪戯っぽく、人を翻弄する、何を考えているのか相手に読ませない不思議な笑み。この人もまたその微笑みを武器に自分を護って居るんだろうか、そう思った。

「自分で答えを見つけることだ。でなければ、本当に全てを失ってしまうよ?」

 そう言うと、優雅に立ち上がると「ではね」と立ち去っていった。

 一人残されて、友雅の言葉を反芻する。

「言われなくても分かっています。いいえ、私は失うものなど本当は何もないのです。最初から持っていないのですから……」

 独語する。

 実際月は自分のものではない。

 そう、そんなことは分かっている。

 だが…。

 損をしているだけ、とはどう言うことだろうか?

 妙に縋り付きたい思いで友雅の言葉を胸の中で繰り返し続けた。

 秋を思わせる寂しげな風がふわりと鷹通の髪を揺らして通りすぎていったのにも気付かずに。



@01.10.19/01.10.22/01.10.23/