『キスと罠』
天気も良くて。
最近敵の動きもなく。
帝都は実に平和。
しかし、なんの問題もないはずなのに、我らが花組隊長大神一郎は不機嫌そうに窓の外を睨み付けていた。
「なんか最近の大神さん変ですよね」
「ええ…何かあったのかしら?」
「でも、今は特に事件も何も無いはずですよ。私の情報網にもな〜んにも引っかかってないもの」
そんな事務の三人組の会話もそっちのけで大神は手を動かす事もなく外を見ている。
かすみが静かに大神の側へと行き、いつもの穏やかな微笑みで話しかけた。
「あの…大神さん?何か心配事でもあるんですか?」
「え?」
まるで心当たりがないとばかりに驚かれて逆にかすみは困ってしまった。
「何だか最近の大神さん、ずっと悩んでいたようでしたので…」
かすみが頬に手を当てて、戸惑うような表情を浮かべれば、慌てた大神が手を振った。
「ああ…ごめんっ!大したことじゃないんだよ。ほんと。心配掛けてしまうなんて、まだまだだね」
そんな事を言われてしまえば逆にかすみの方がいたたまれなくなってしまう。
何時だって人の事ばかり考えて、自分の事は隠そうとする大神の事だ。今回も何かを一人で抱えて悩んで居るんじゃないかと思っただけで、大神の負担になどなりたいわけではない。大体、人間誰しも悩み事があるもので、それを表面に少し出したからと言ってそんなに気に病む事でもない。
だと言うのに、ある意味大神程悩みを多く持っている人間は居ないだろうに、彼程悩みを誰にも打ち明けずに我慢している人間も居ないだろう。
結局それ以上何も言えなくなったかすみは仕事を再開した大神の側から離れるしか出来なかった。
「はぁ〜あ…ほんと、何やってんだろ、俺は」
深夜。寝静まった帝劇で花組隊長としての業務日誌を最後につけていた大神は溜息と同時に呟いて、机の上に伏せた。
ふっと自分の唇に指先を当てて。
ぎゅっと唇を噛み締め、その指先を握りしめた。
「信じらんない…よな」
つい先日の事を思いだして、大神は目を閉じた。
その日は公演が終わった直後でもあり、大神にとっては珍しい休日だった。しかも天気が良くて。
本当なら何処か出掛けようかとも思ったのだが、加山は仕事の都合で捕まらなかったし、花組のみんなとご一緒するのでは楽しいのだがある意味ストレス発散にはならない。
仕方がないから、取り敢えずゆっくりと時間を贅沢に潰し、午後中庭で本を読んだ。ちょっとした木陰に座り込んでいると、爽やかな風がゆったりと吹きとても気持ちがいい。
そのまま日頃の疲れもあったのか、ウトウトとしていた大神は名前を呼ばれたような気がした。
『大神…』
それは大神に随分と馴染んでいて、心地よく。何時までも聞いていたいと思うような声で。
『大神…?』
本来、軍人でもあり人の気配などには敏感なはずの大神が目を覚ましたくないと思うようなものだった。逆により深い眠りに引きずり込まれるような感覚に身を任せてしまった。
そのままどれ程の時間が経ったのか大神には一切分からない。
ふと。
優しく胸が切なくなるようなその感触に目を覚ました。
「あれ?」
キョロキョロと周囲を見回すけれど、そこには誰もいない。
穏やかな午後の中庭は大分陽が傾き影が深くなり始めていた。
「え?」
静かな中庭に居るのは自分だけ。
なのに。
「嘘、だろ……」
感触だけが残っている。
そうっとその感触が残っている、自らの唇に手を当てて。
「そ、んな…」
ドキドキと一人顔を赤らめた。
唇に残る感触が告げていた。
誰かが触れたと。誰かに唇を触られたのだと。それが泣きたくなる程柔らかく優しいものだったと。
キスなのか、どうなのか。
そんな事大神には分からない。
もしかしたら指で触れられただけかも知れない。
なんにしても、その事実にカアッと顔が羞恥に赤くなる。
軍人として、男として。こんなの恥ずかしくて誰にも言えたモンではなかった。
近づいてくる人の気配に気づく事もなく眠りこけていたなんて、情けなさ過ぎる。米田に知られれば呆れられるだろう。例え帝劇の中であろうと無かろうと油断しすぎだと。
なのに。
何故こんなにも胸が暖かいんだろう。
何故こんなにも。
切ないんだろう。
「情けないな。こんな事ぐらいで動揺して。かすみさん達に心配を掛けてしまうなんて…」
もしかしたら花組のみんなも気づいているかも知れない。そう思うと居たたまれなくなる。
相手が誰なのか見つけたいと思う。
でも、見つけるのが怖い。
周囲に心配を掛ける程、気になって仕方がないのに。
ぶんぶんと首を振った。
「…何してるんだ?」
突然近くから声が聞こえて大神は大きく体を震わせて、声の方を向いた。
机の直ぐ側にある窓からいつものように加山がひょっこりと顔を出していた。
「いよぉ〜大神ぃ。今夜も月が綺麗だぞ〜♪」
「加山…」
いつも通りの加山に大神はぷいっとそっぽを向いた。
「なんか用か?」
「ん〜?いや別に用事があった訳じゃないんだが…ちょっと大神の顔でも見たいな〜と思って」
「なら俺はもう寝るから。もういいだろ」
素っ気ない言葉がぽんぽんと出てきて大神自身止められない。
「どうしたんだ?」
少し眉を潜めた親友に、大神は音を立てて立ち上がると背を向けた。
「どうしたって何が?」
「なんか怒ってるだろ?」
「そんな事無いよ。眠いんだ。多分そのせいじゃないのか」
そう言うと、加山を気にするでもなくさっさと服を着替えてベッドの中に入る。
「お休み」
「…あ、ああ……」
とりつく島もない大神に加山は最後にご丁寧にも電気を消して部屋を出ていった。
「お休み、大神」
最後に残された言葉が大神の胸に突き刺さって痛かった。
一人布団の中で眠る事も出来ずに大神は唇を噛み締めた。
「馬鹿だ、俺…」
分かっていたはずだった。
学生の時から同室だった加山は不思議と気配を消すのが上手くて。いや、加山が消すつもりが無くても何故か大神は加山の気配だけはなかなか気づけなかった。
夜遅くに帰ってきた加山に気づかないのは日常茶飯事だったし、気づけば直ぐ側にいるなんて言うのも普通だった。
昔からそうで。
だから今も。いや、今は月組の隊長となってしまった加山は更に気配を隠す事に慣れてしまったせいか大神には見つけられなくなってしまっている。だから、加山の声がするまで気づかない、と言うのもやっぱり今の日常茶飯事で、さっきみたいに気づけば側にいると言うのも普通で。
あんな風に素っ気なくするつもりなんて無かった。
加山は何も悪い事をしていないのに。ちゃんとした話しとかあったかも知れないのに。問答無用で追い出すような事をしてしまった。
申し訳ないと思う。
「単なる八つ当たりだ…」
呟けば加山への罪悪感が増した気がした。
先日何者かの接近と言うよりは接触を許してしまった。しかも眠ったまま目を覚まさないと言う最低な状況。
そんな中で、今もやっぱり加山の気配を読めない事が苛立たしく、より一層自分が不甲斐なく思えた。
「…情けないっ」
最後の加山の声が胸に痛い。
『お休み、大神』
暖かくて。優しくて。耳に心地いい。
「…加山…」
今すぐにも謝りたいと思う。でも、謝れないかもしれないと不安にもなる。また変な意地を張ってしまうんじゃないかと。
このままジッとしていても眠れるとは思えない。
どうしよう。
どうしたらいい?
「畜生っ…」
そもそもにして眠った上に気づかなかった自分も悪いが、意識のない人間に近づいてきて何かをしていった相手も悪い。
むしゃくしゃとした怒りの矛先がわかりもしない相手に向かう。
眠っていられなくて、ムクリと起きあがってカーテンを開けた。
煌々と輝く月の光が冷たく差し込み、美しい満月に目を奪われた。
「そう言えば加山の奴がそんな事を言ってたな」
呟けば、加山が何しに来たのかが気になった。
と、視線を下に向ければそこに物陰があって、大神は静かに、探るように窓を開けた。
大神の部屋の真下。それは人影だったようで、壁に背中を預けて煙草の煙をくゆらせている。
大神からは真上から見下ろす形になるのでハッキリと相手の顔が見えるわけではない。
でも、この気配。
「…加山?」
「お…大神?!」
小さく名前を呼べば、下にいた人物が驚いたように上を見上げてきた。
月光に照らし出された加山はいつもとは少し違ってみる。戯けるような、剽軽な部分が抜け落ちたかのようだ。
意外だったのか、驚いた素振りの加山の様子に大神は何だか嬉しくなった。
「そんな所にいないでさっさと上がって来いよ」
「…いいのか?」
「ああ」
少し不安そうに聞いてくる加山に苦笑しつつ大神は頷いた。
すれば部屋の中に夜気を漂わせた加山の体が静かに流れるように入ってきた。
冷たい気配に加山が長い事外にいたのだと知り大神は窓を閉めた。
部屋の中は電気の消えた暗いまま。だが、窓の外からの大きな満月の光が思いの外明るく二人の姿を照らし出していた。
「ずっと外にいたのか?」
「いや…ま…その…月が綺麗だなと思ってな」
否定しようとして、真っ直ぐに貫く大神の眼差しに諦めた様に加山はそう答えた。
ほんの少し苦笑して、悲しそうとも嬉しそうともとれる加山の様子に大神は今なら謝れる気がした。
きっと先程加山の気配をなんとなしに感じ取れたからかも知れない。勿論それは視野に入ってきたからなのは分かっていたが、殆ど黒い影でしかなかったそれを加山と断じる事が出来た事が嬉しかったのだ。
加山の気配を見つける事は出来ない。でも、加山の気配を識別する事なら出来る。
そんな風に思って大神は口元に笑みを浮かべた。
情けない中途半端な事には変わらないのだが、何だかそれだけで十分だった。
「大神?」
笑った大神の気配を察したのか加山は不思議そうに声を掛けてきた。
「ごめん…さっきは八つ当たりして…ごめん…」
「大神…いや、俺の方こそいつもお前の都合を考えもしないでスマン」
「お前の生活は不規則だから仕方がないし、そんなの構わないよ。お前に会えるのは俺も嬉しいんだから」
「大神…」
嬉しそうに微笑んだ加山に大神も笑い返した。
淡く微笑んだ加山はいつもの馬鹿っぽさがない。月の光の下では違う仮面でも持って居るんだろうか。いや、これこそが本当のこの男の素顔なのかもしれない。
「ありがとう…大神……」
大神はその声を聞いて目を見開いた。
懐かしい。
何故?
加山の声は学生の時から聞き慣れたものだ。懐かしいと思って当然。でも、なんか違う。違和感を感じる。
何故?
こんなに胸が暖かくなるような。軋むような。切なくなる。
その…『声』
何?
何で…心臓が。
苦しい程鼓動が煩くて。
見てしまった加山の眼差しがとてつもなく優しげで。
月明かりの中、嬉しそうに細められていた。
「…っ」
「…大神?」
少しだけ心配そうにその色を変えた瞳。
捕らえられ目を反らす事も出来ない。
「どうした?」
ゆっくりと伸ばされる指先。
優しく触れられた肩が熱い。
ビクリと体が震えてしまって。
「ぁ…」
「お…大神?」
戸惑うように。不安そうに。心配そうに離れていく指先。
向けられた眼差しにどうして良いか分からなくて。ドキドキして。切なくて。
「お、れ…」
唐突に。
「一体今日はどうしたんだ?」
気づいた。
「もしかして…」
「ん?」
「お前、か?」
「何が?」
何と言っていいのか分から無くて黙っていれば、沈黙が流れて。
ただひたすらジッと加山を見つめた。
何だか落ち着かない風情の加山は暫くしてから目をそらした。
「何で逸らすんだよ」
「…いや…なんか…」
苦笑いをする加山を大神は睨み付けた。
「言えよ」
「言えって何を?」
確かに全てを言わせるのは卑怯かも知れない。
だから。
「この間中庭で眠っちゃったんだ。お前…見てたんだろ?」
「……」
無言で明々後日の方向を向いている加山に大神は嘆息した。
「…何があったのか知ってるんだろ?」
「………スマン…」
長い、長い沈黙の後、加山がボソッと告げた。
余りにも小さい声で、普段の朗らかな声とは違いすぎて大神が聞き逃してしまいそうになる程弱々しい。
「違うだろ」
「大神?」
「そうじゃなくて。言ってくれよ」
謝って欲しいんじゃない。そうじゃない。違う事に気づいてしまったから。
でも、加山の本当の気持ちが分からない。一体何を考えている?何を望んでいる?
だから。
「教えてくれよ」
一歩加山に近づいた。
「加山」
間近で囁くように名前を呼べば、唐突に抱きしめられた。
「大神っ」
耳元で呼ばれた。
切羽詰まったような、熱い、掠れた声。
「お前…なんだろ?」
「なんで…わかった?」
「…やっぱり」
加山の胸の中にすっぽりと抱きしめられたまま大神は笑った。信じられない程、加山の言葉に安堵した自分が可笑しかったから。
「あの時名前を呼ばれたような気がした。でも、凄く気持ちが良くて。そのまま眠ってしまった」
「ああ、凄く気持ちよさそうに眠ってた。だから起こせなくて…ずっと隣に座ってた。でも…」
「でも?」
「…もう…時間が無くて。そろそろお前も起きるんじゃないかってそう思った。ずっとお前の寝顔を見てて。無防備なお前を見てて。もしかしたらって思った。賭…だったのかも知れない」
「賭?」
加山を見上げる。何処か切なげに瞳を揺らした加山は珍しくて、大神の胸が苦しくなった。
「俺が側にいる事をお前が気づいて居るんじゃないかって。眠っているけど、俺が側にいる事を許してくれて居るんじゃないかって。触れたら…」
何かが変わるんじゃないかと思ったから。
そんな言葉を飲み込んだ加山の背中に大神はゆっくりと腕を回した。
「無意識に気づいてた。誰か居ると分かっていても起きなくても大丈夫って。そんな風に勝手に思ってた。お前だったから…」
「大神?」
いまいち大神の真意がつかめなくて加山は不安そうな声で呼びかけてくる。真っ直ぐに見返せば、ちらっと自らの背に回された大神の手に視線を流した加山が苦しげに表情を歪めた。
「あれは…これ…なんだろ?違うのか?」
ツイッと。
触れるだけのキス。
大神から加山への。
「大神っ!」
驚愕にパッと大神を抱きしめる腕を離した加山の見開かれた瞳にちょっと拗ねたような、でも嬉しそうな自分の姿が映っている気がして大神は恥ずかしくなった。
きっと顔が真っ赤に違いなかった。
「やっぱり…感触が同じだ」
「!スマンッ…」
「謝るな」
ぎゅっと加山の背に回した腕に力を込めた。
「でも、お前の意志を無視した」
フルフルと首を振った。
「お前も言っていたじゃないか。気づいて居るんじゃないかって。つまり俺はお前に無防備な姿をさらす事を許したわけで。それは俺の意志だろ」
加山の戸惑いが大神を抱きしめて良いのかと宙を彷徨う腕に滲む。だが、それを無視して大神は加山に問いかける。
「”それ”がお前の気持ちだって…そう言う風に思っていいのか?」
「大神…」
今までと雰囲気の変わった、低く掠れた加山の声に大神の体がゾクリと僅かに震えた。
「なら、お前の気持ち、は…?お前怒っていたんだろ?」
「俺が?」
「ああ…俺を無視して、追い出した…。ここ数日、様子もおかしかったし」
「そりゃ誰がしてきたのか分かっていなかったんだから気になって当然だろ。お前だって気づいたのはたった今なんだし。お前を追い出したのは…」
「追い出したのは?」
加山の口調が何処か楽しそうなものに変化していた。何かを期待するような声に。
そして、いつの間にか戸惑っていた筈の腕は逃がさないとばかりに大神を抱きしめている。
ちらっと見れば、期待に満ちた、心底嬉しそうな表情の加山が居る。
そんな顔するな、馬鹿…。
何もかも見透かされてる様で、嬉しいのに悔しくなる。言葉にして伝えられなくなる。
腹がたったのは自分が気を許していない相手の接触を許したと思っていたからだ。加山だと最初から分かっていればあんなに自己嫌悪に陥ったりしなかった。ただ、自分の気持ちに気づくまで延々と悩み続けたかも知れないけれど。
「単なる八つ当たりだっ!」
恥ずかしそうにそう告げた後黙り込んだ大神に加山は小さく吐息を吐いた。
「お前が寝ているのをいい事にキスをした。気まずくて会えなくて、でも会いたくて。会いに来てみれば素っ気なくされて追い出されて。きっと大神は全部気づいていて俺は拒絶されたんだって思った。ふられたんだなって。俺はお前の事がずっと好きだったから。学生の時から好きだったから。だから、馬鹿みたいにお前の部屋の近くに立ちつくすことしかできなかった。ここから離れる事が…出来なかった…」
何も言わない大神に教えるように加山は囁く。
言葉一つ一つが大神に届くと同時に、意地っ張りな大神の体から力が抜けていく。
胸に縋り付くようにしている大神を加山は愛おしげに見つめた。
「賭…だった。もし気づいているなら俺の行動にお前がなんと答えるのか。本当に眠っていて気づかないままなら今のままで耐えよう。そうでないのなら…」
もう…今の関係に満足出来なくなっていたんだ…。
月明かりに照らされて二人の影が一つに重なって長く伸びる。
「お前が好きだ。大神」
真面目な顔の加山に大神は同じように真剣な眼差しで見つめ返して答えた。
「俺もお前が好きだよ、加山。お前だから許したんだぞ」
そう言って大神はもう一度触れるだけのキスを加山におくって。
やっと言葉にしてくれた大神に満面の笑みを返した加山はお返しのキスをした。触れるだけなんかではない、熱くて深いキスを。
@03.06.27>03.10.25/