『知らぬ人』
あれから数ヶ月。
すっかり陽射しは暖かく、風も肌に刺す様な冷たさから柔らかさへとすっかり変わってきた。
京一は天気のいい澄み切った春の空を見上げて、ポケットに手を突っ込んだ。
青い空。
白い雲。
耳に聞こえる日常の平和そのものの人々。
今、感じているそれら全てに心の中から満たされた気持ちになる。
自分達はやり遂げたのだと言う満足感。
京一は知らず胸を張って、ニッと口元に笑みを浮かべた。
3月。
桜の花が本格的に咲くにはまだ早いものの、早咲きの桜はちらほらと咲き始めた。だが、その殆どは未だ小さな蕾であり、花開くその日を待ちわびている。
卒業をして。
京一が中国に行く前に、とみんなで出掛けた卒業旅行。遠くに行くには京一の懐具合が都合付かなくて近場になったが、みんなで一緒に行動するのもこれで最後と、短くとも楽しい旅行だった。
そして後数日で京一は中国へと旅立つ。
胸にあるこれから始まる新しい生活への期待。
中国で得られるものが一体どういうものなのか。
そして、それらとは相反する一抹の寂しさ。
目を僅かに細めて京一はその寂しさを押し殺した。
そしてゆっくりと目的地へと歩き始めた。
「ったくあいつ何処行ったんだ?」
ムスッとした表情で京一は小さく呟いた。
これで最後と思えば、この一年で誰よりも側にいて、誰よりも信頼し、誰よりも大切だと思えた存在と一緒にいたいと思うのが当然で。
例え、振られてしまっていたのだとしても、その気持ちに変わりはなくて。
せめて、最後に一緒に旧校舎に潜るぐらいは良いじゃないかと思ったのに、その相手は何処にもいなかった。勿論何度も携帯に掛けたのだが、それも繋がらない。
葵や小蒔の所にも連絡をいれてみたが其処にも居なくて、一体何処に行ってしまったのやら。
「ちぇっ」
つまらなそうに京一は携帯のディスプレイを見た後、それを仕舞った。
「やっぱあいつの所かよ」
そう思って京一は恋敵でもある壬生を思い出して、口を尖らせた。
幾らなんでも恋人の家にまで出かけていくのもちょっとストーカーじみているし、二人の邪魔をするのもなんだか面白くもない。
結局、腹が減ったと途中でラーメン屋に入って腹ごしらえをした京一はそのまま旧校舎へと一人潜ることにした。
一応中国に行くのは修行なのだから、京一にとって柳生との戦いが終わったからと言って怠けている訳にはいかなかった。
アルバイトで金を稼ぎながらも剣の練習に励むなど、今までの京一にしては至極真面目に頑張っていて、それを真神の仲間達は驚きながらも、見守ってくれていた。まぁ、小蒔にはちょっとからかわれたりして、いつもの様な掛け合い漫才を披露してはいたが。
一人とは言え、現在の京一であればかなり深くまで潜っても何とかなる。ただ、一人なのだからそれこそ油断大敵。呪いなんて掛けられてしまったら最後だ。
気の抜けない戦闘の中で京一は己の集中力を養うには丁度言いと、へヘへッと自信に満ちた笑みを浮かべた。
2、3時間も経てば人の集中力というものはその持続力を失う。
そのフロアー最後のモンスターを倒した後、京一は油断なく周囲をさっと見回して、確実に敵の気配がないことを確認すると、息を吐き出した。
ギュッと手に馴染んだ木刀を握りしめて、京一は天を仰いだ。
トントンと肩に木刀をあて、暫し考えた後、今日はこのくらいにしておくかと、地上へと向けて歩き始めた。
「さってと、こいつら邪魔だしな。換金してくか。…しかし、アルバイトよりも稼ぎがいいんじゃねぇーか。もしかして」
ブツブツと呟きながら京一は今日の獲得物である様々なアイテムを思い返した。結構深い所まで潜ってきた為アイテムもそれなりの代物が多い。
何はともあれ、さっさと如月の店にでも行くか、と京一は足を速めた。
いつもの扉を開いて。
「いらっしゃい」
いつもの声に迎えられた。
「なんだ、君か。今日はどうしたんだい?」
「よお。こいつらを売りに来たんだ」
最初の声は客に対する柔らかい声で。次のものは素っ気ないもので。
でも、そんな店主、如月との遣り取りもこれで暫くは無いのだと思えば京一はクスッと小さな笑みを口元に浮かべただけで、特に文句を言うでもなく先程旧校舎で獲得したアイテムを差し出した。
「君…一人で潜ったんじゃないだろうね?」
「しょーがねぇーだろ。ひーちゃん居なかったんだし。これも修行の一環なんだしよ」
それでも危険だろうと顰められた眉に如月の不機嫌さを感じたものの、身構えた京一に対し、今回は如月も一つ溜息を吐く。
「余り無茶をしないことだ」
その一言だけを呟いて如月は京一から品物を受け取った。
そして続けて静かに告げた。
「晄華なら奥にいるぞ」
「何?!」
如月の言葉に驚いた京一だったが、如月はそんな京一に答える気はないらしく、黙々とアイテムを調べている。
そんな如月に京一は小さくサンキュと呟いた。
「なら、お邪魔するぜっ」
家主の返事も待たずに京一はドコドコと上がり込んだ。
京一が姿を消していった方をチラリと見つめて如月は小さく笑った。
「君の騒々しさもこれで暫くなし、か」
せいせいするね、と口に仕掛けてその言葉は不思議と出てこなかった。
そして、寂しく思っているのだと気付いて、そんな自分に如月は苦笑を浮かべた。
友など。仲間など。
いらないと。
一人で良いのだと思っていた自分。
だが、宿星に導かれて出会った仲間達。きっと一生の大切な存在であり続けるのだろう。そんなにソリがあったとは思えない京一の様な”仲間”であったとしても。
「ふっ…次のご来店をお待ちしております」
そう、呟いた。
営業的な発言とは裏腹に、きっと同じ高校に通っていた生徒達が見たならば、その優しい表情に目を奪われたに違いなかった。
襖を開けて、声をかけようとした京一は今日で一番重くて深い溜息を吐き出した。
「なんだよ。お前も居たのか」
「何か不都合でも?」
「いや、別に」
冷たい声に京一は首を振った。
其処にいたのは本日一番最初に探していた相手。緋勇晄華がいた。だが、彼女は一人ではなかった。一緒にいたのは恋人である壬生紅葉だ。
当然、京一にすれば恋敵に違いなく、面白い筈がない。
それは壬生にとっても同じだった。
そして、壬生にもたれかかる様にして無反応の晄華は眠っている様で。
「眠ってるし」
がくり、と京一は肩を落として座り込んだ。
やっと会えたのに。これで最後かな、と思っていたのに。
なんだよ、とちょっと拗ねて唇を尖らせた京一だったが、眠っている晄華の顔をジッと見つめた。
穏やかな呼吸で、安心仕切った風情で眠っている。
一体どれ程の間だその寝顔を見つめていたのか。
「何そんなに見て居るんだい?」
少しばかり不機嫌そうな声を向けられて、京一はハッと我に帰った。
「あ、いや。その、本当に眠ってるんだなって思って」
「?何馬鹿なこと言ってるんだい。誰だって眠るに決まってるだろ」
「そりゃそうなんだけど、さ」
小馬鹿にした様な壬生の口調に反論する事もなく、京一は再び晄華の寝顔を見つめた。
「本当によく眠る」
「え?」
呟いた壬生の言葉に京一は首を傾げた。
「ちょっと目を離すとすぐ晄華は眠ってしまうから」
「……そっ、か」
壬生の言葉に京一はグッと奥歯を噛み締めた。そして僅かな胸の痛みを押し殺した。
「?どうか…したのか?」
そんな京一に壬生は僅かに目を細めたが。
「いや、なんでもねぇー」
そう言っていつもの様に笑った京一に壬生は黙ったままだった。
教えてなんてやらねぇー。
そう思って京一は黙り込んだまま、再び眠る晄華を見つめた。
心底安心しきった顔して。
幸せそうに眠っている。
最後の最後で見せつけられた気分だ。
いや、実際見せつけられたのかも知れない。それは壬生がどうのではなく、晄華の壬生への想いだ。
去年行った修学旅行。そしてつい最近行った卒業旅行。
そのどれも。
晄華はみんなの眠りを見守るばかりで、みんなの前で眠ることはなかったからだ。
行きはさておき、帰りは大抵疲れてバスや電車の中で眠ってしまうのが普通だ。だと言うのに、晄華は一人起きていた。
「あれ?ひーちゃんは眠らねぇーの?」
バスの中でふと目を覚ました京一は殆ど全員が眠っている中一人起きていた晄華に気付いて声を掛けた。
「うん。なんか…こう言う時は眠れなくって」
「へぇー。でも、疲れてるんだろ?」
「まぁ…昔からだから、さ」
「そっか」
苦笑を浮かべた晄華に京一はふ〜んと不思議そうにして見せただけだった。
かと言って、そのまま眠る気にはならなくて京一はずっと晄華と一緒に起きていた。
「眠って良いのに」
「うんにゃ。俺は眠らねぇ!!」
「あはは。無理しなくて良いのに……ありがとうね、京一」
頑張る京一に申し訳なさそうにしつつも、最後に小さく呟いた晄華の言葉が京一の中で印象的だった。
振り返ってみれば、泊まった旅館とかでも何時も一番最後まで起きていて、一番最初に起きていたんじゃないかと思う。
きっと誰も晄華の寝顔を見て居ないだろう。
だから。
晄華の寝顔を見つめていて、もしかしなくても、これが初めて見たんだという事に気付いてから、驚いたのだ。
その事実に。
なのに。
壬生は言うのだ。
しょっちゅう晄華は眠っていると。
自分の側で彼女は眠るのだと。
壬生が何かを意図しているとは思えない。きっと気付いていない。
晄華が安心して眠るのは壬生の側だけだと言うことに。
「全く」
ここまで晄華の想いをハッキリと見せつけられれば、未だに未練として残っていた気持ちも踏ん切りが付くというもので。
「やってくれる」
なんだかスッキリとした気分で京一は晄華の額を突いた。
「…蓬莱寺」
咎める様な、冷たい壬生の声に京一はヘッと笑っただけだった。
と、晄華が僅かに身じろぎしたかと思うと目を覚ました。
「あ、あれ?」
「よぉ」
楽しそうに顔を覗き込んできた京一に晄華は目を瞬かせた。
すぐ側にある温もりは馴染みのあるもので、触れている所から感じる氣も愛しいもので、壬生が側にいるのだと分かる。
確認する様に、隣に座っている壬生にチラリと視線を向ければ、目があって酷く安心する。
にこりと微笑んでくれた壬生に晄華もフワリと笑みを浮かべたが、その後、自分がまた眠ってしまったのだと言う事に気付いた。
「ご、ゴメン。また眠っちゃった」
「いや、構わないよ」
「本当にゴメン!!…所でなんで京一がいるの?」
「さぁ、僕も知らないよ」
申し訳なさそうに謝った晄華は続けて壬生に問い掛けたが、壬生は余り面白くなさそうに答えただけだ。
視線を京一の方へと向ければ。
「ひーちゃんと一緒に旧校舎に潜ろうと思ったんだけど、ひーちゃんが見つからなかったからさ。一人で潜ってきて、その帰りがてら戦利品をここに売りに来たんだ」
説明されて晄華はああ、と頷いた。
「ご、ゴメンっ!」
携帯を探してみてみれば、何度か京一からの着信履歴も残っていた。それから、電車に乗った時にマナーモードにしたまま、解除するのを忘れていた事に気付いた。これでは連絡が取れないはずだ。
「まっいいさ。お陰でひーちゃんの寝顔を見せて貰ったしなっ♪」
「えっっ!?」
京一の言葉に驚いた晄華がサッと顔を赤らめる。
恥ずかしげに京一や壬生から離れた晄華を追い掛けて京一はその耳元で囁いた。
「本当にひーちゃん壬生のこと好きなのな。コイツの側なら眠れるんだし」
「ばっ」
瞬間にして茹で蛸以上に耳まで真っ赤に染まった晄華は側に来た壬生に気付いて、うひゃぁ!と奇妙な声を上げた。
顔が凄く火照って恥ずかしくて、壬生に見られたくはなかった。
だから、そのままグイッと火事場の馬鹿力宜しく、咄嗟に抗えない程の力でグイと壬生の体を反転させた。
「晄華?」
驚いた壬生だったが、未だに自分の体を拘束する力は弱まっておらず、後ろを振り向くことが出来ない。顔だけでもと思えば頭まで固定されて振り返れない。
一体彼女の力はどれ程のものなのか、とちょっと溜息が出そうになるが、それはなんとか堪えた壬生だった。
「もぉ!変なこと言わないでよねっ!!」
「そうか〜?」
「京一の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、馬鹿!!」
「ははははは♪」
後ろから聞こえる晄華と京一の遣り取りに壬生は眉を顰める。
酷く不機嫌なオーラを発し始めた壬生だがそんなことに晄華は気付くことも出来なかった。
「お陰で、スッキリした気分で中国に行けるぜ」
そう呟いた京一の声は真摯なもので、晄華はハッと口を噤んだ。
京一の気持ちを思えばなんて言って良いのか分からなくなったからだった。
「いいもん見れたしな」
京一はそう言って笑った。
「壬生。ひーちゃんのこと頼んだぜ?」
「言われるまでもないね」
やっと振り向くことの出来た壬生は当然の事を言われて面白くないと言う風情で言い放った。
そして晄華を自分の側にと引き寄せて、京一を睨み付ける。
そんな壬生に京一は驚きもしたが、それ以上に壬生に引き寄せられて嬉しそうにしている晄華の表情に気付いて目を見開いた。
ひーちゃん……なんて、幸せそうな顔してんだよ。
そう思いながらも、京一を睨み付けていてそんな晄華に気付かない壬生に京一は楽しくなった。
あんなにいい顔してるのに。俺なんか睨んで馬鹿な奴。
クスクスクス。
つい忍び笑いを浮かべてしまい、壬生はますます不機嫌そうにし、晄華には不思議そうにされた。
だが、京一の心は晴れやかだった。
晄華の寝顔も見れた。そして、恥ずかしそうに顔を赤らめて、でも輝かんばかりの心底幸せそうな顔も見れた。
壬生が知らない事、見て居ない事を自分だけが分かっている、それが嬉しくもある。
「蓬莱寺」
表の方から呼ぶ如月の声に京一は振り向いた。
「ああ、今行くっ」
きっとアイテムの査定が終わったのだろう。
京一は晴れ晴れとした笑みを浮かべて、二人をもう一度見つめた。
「んじゃ、暫く会えないと思うケドよ」
「え?」
京一は自分が何時中国へ行くとか誰にも言ってはいなかった。
聞かれる度に曖昧に誤魔化していたのだ。だから晄華も何時京一が中国に行くのか正確な日付を知らなかった。
ほんの少し不安そうな表情を浮かべた晄華に。
「またな、俺の相棒っっ!」
そう元気よく告げると京一はパッと身を翻した。
後を咄嗟に追い掛けようとした晄華を壬生が引き留めた。
「紅葉…」
首を静かに振る壬生に晄華は項垂れた。
後を追い掛けたって何も出来ない事は分かっていたから。京一の本当に望む様なことは一切出来ないことが分かっていたから。
唇を噛み締めた。
「見送り位したかったな」
そう小さく呟いた晄華を壬生は優しく抱きしめた。
遠くから京一と如月の遣り取りが聞こえてくる。
「お。今回は結構儲かったな」
「まぁいい品物が結構あったからね」
「にしても少し多い気がするけど……ま、いっか」
「……」
「んじゃ、如月も元気でな。またな!」
「ああ、君も、な」
扉の開く音がして、閉まって。
酷く寂しい沈黙が広がる。
行ってしまったのだろう。
彼はその力強い翼でこの大空を羽ばたくことの出来る人間だから。
一人、前を見据えて飛びたって行った。
見送ろう。
寂しいけれど。
扉を閉める前にきっと彼が見せたであろう、いつもの明るい笑顔が目に浮かぶから。
涙は浮かべまい。
「行ってらっしゃい」
呟いた晄華に壬生は黙って、抱きしめる腕に僅かに力を込めただけだった。
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