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『桜の杜』


 夕焼けに染まる校庭をジッと眺めた。

 まばらにいた人の姿がすっかり消え失せるまでずっと一人で。

 校門近くの桜の花びらは、風に揺れて、ゆらゆらとたゆたい、音もなく舞っているその様を眺め続けた。

 そうして、赤く染まった世界は何時しか深い藍色へと姿を変え、天を白き月が支配する闇の時が始まる。

 ひとり。

 其処は壬生にとってなんでもない教室だった。特に自分の教室という訳でもなく、ふらりと目に付いた鮮やかな夕焼けに誘われる様にして入っただけの場所だった。校舎の最上階にある事から、恐らくは一年生の教室だろう。

 だが、そんな事は壬生にとってどうでも良い事で、改めて確認するつもりもなく、ただジッと窓の外を見つめていた。

 数歩窓際へと近寄り。

 後一歩踏み出せば、窓の外から差し込む満月の光の線を越える、その場で止まった。

 自らの足の数センチ先は月の光に照らし出されて、思いの外明るい。

 佇んでいた壬生は小さく口元に笑みを浮かべた。それは自嘲的な苦々しいものだった。

 今日は卒業式。

 拳武館の一般生徒はさておき、壬生のような暗殺組において仲間だからとか、級友だからと言った甘いものはほとんど無い。

 それぞれが、それぞれの理由のもとに拳武館に集い、拳武館にて生き、拳武館にて死んでいった。

 昨年冬に知り合った”仲間”の様に”友情”や”信頼”と言う名の下に集った彼らとは違う。

 どれ程お互いがお互いの命を預けて戦ったとしても、根本的な所で違っている。

 その拳武館を壬生は今日卒業した。

 これで、あの血なまぐさい生活とは別れを告げる。

 とは言え、完全に足を洗える訳ではない。組織の内部事情を知るが故に、一旦拳武館に入ったからには死ぬまで組織を出る事は叶わない。

 過去には抜け出そうとして命を落としたものもいるらしいが、壬生にとってそんな事はどうでも良い事だった。そこまでして抜け出たいと思うものもなければ、そうしようと言う意志が無かったからだ。

 所詮、僕にはこの生き方しか出来ない。

 だから、浮かんだ笑みは歪んだものにならざるを得なかった。

 これからの自分の生活を思えば壬生には期待もなにもない。

 今まで通り。

 ただ、それだけ、だ。

 だが。

 今日で卒業する。

 高校生ではなくなる。

 それは一つの終焉。

 彼らとはもう……。

 小さく喉の奥で笑って壬生は踵を返した。

 煌々と輝く満月が夜を柔らかく照らしていた。開いていた窓からさわりと強い風が吹き付けたが、壬生は振り返る事もなく呟いた。

「幾ら風が強くても、ここまでは来ない……」

 月の光すら届かぬ場所なのだから。

 日が暮れるまで見続けていた、桜の花が舞い散る様を思いだした。

 ちらちら、ちら。

 ちらちら。

 遠目に淡い色の欠片が舞う。

 その桜の向こう側で微笑む人が見える。

 眩しい程の太陽の輝きにも負けない、誰に対しても変わらぬ笑顔。

 それは壬生に対しても同じで、余りにも自然で、変わらぬその態度を不審に思ったことがある程。

 だが、それが彼女の偽らない姿だと知れば知る程、壬生の突っぱねた言動の裏で彼女はドンドンと大切な存在へと変わっていった。

 側に。

 いつまでも。

 いる事が出来たなら。



 だが、それも今日で終わる。



 一月に宿星とやらに導かれた戦いは終わり。

 解放された。

 だが、壬生を縛り付けているのはそれだけではない。いや、そうではない。彼らとの一緒の戦いは壬生が望んだもの。縛り付けるなどと言うものは無かった。あれで縛り付けられていたのは黄龍や菩薩眼と言った特殊な存在のみで、自分達はそんな彼らを支える事を願った人間に過ぎない。

 真実、壬生を拘束しているのは拳武館と言う組織。この道を選んだ過去の自分自身の決断。そして、今まで犯してきた罪そのもの。

 それは終わることなく一生、壬生の背負うべき業。



 だから、ここまで届かない。

 遠く、闇に支配された壬生の所まで桜の欠片達は届かない。

 届くはずが……ない。



 かつん。

 かつん。



 電気も消え、誰もいなくなり静かになった校舎を漫(そぞ)ろ歩く。

 ふと壬生は自分の感覚に驚いた。まさか、懐かしいと言うような感慨がわいて来る事になろうとは思いもしなかったからだ。

 一年、二年、三年と過ごした校舎。

 図書室に音楽室。手芸部の部室に体育館、職員室、保健室、そして玄関。

 普通の高校生として生活していたスペースであるそれらに壬生は無意識のうちに、優しい目を向けていた。

 今更、館長室や仕事に関する場所に行きたいとは思わないからそのまま真っ直ぐ玄関へと向かった。どうせ、卒業したと言ってもそれらの場所とは今後も係わりを持っていくのだから。

 玄関で、靴箱から靴を出し。

 靴に履き替えて、上履きを紙袋の中に仕舞う。

 最後にパタンと靴箱の扉を閉めれば、やっぱり寂しさが込み上げてきて苦笑した。

 外を見る。

 電気の消された玄関から外は月明かりに明るく見える。

 一人、外へと歩いて行く。

 だが、これで終わりではないと知っている。

 高校生活は終わる。

 だが、拳武館としての生き様は続くのだから。

 一般人と同じ生活圏であった学校と言う唯一の場所。

 何とも思っていなかったはずなのに、卒業した今になって如何に優しい存在であったのかを痛感する。

 玄関を出ようと、一度だけ振り向いて。

 別れを告げた。





 もう二度と後ろを見る事もないだろうと壬生は前を見据えた。

「!」

 その時、月の光に照らし出された相手の姿に声もなく驚いて、凝固した。

 相手の背中で桜が月光に白く闇夜に浮かび上がり、ハラハラと舞い落ちていた。

「やっ」

 数歩近づきながら手を挙げた相手を壬生は見つめた。

「晄、華?何で君がここに…」

「なんでって…迎え」

「迎え?」

 何当たり前な事を聞いてくるのと言わんばかりな晄華が何を言っているのか分からなくて壬生は眉根を寄せた。

 晄華と会う約束などしていなかったし、今更旧校舎へ行くと言うのでもないだろう。

「紅葉が来てくれないなら、私が来るしかないじゃない?」

「……」

 やはり晄華の真意が分からなくて、壬生は心持ち途方に暮れた感じで首を傾げた。

 きっと拳武館の誰かが見たならばそんな壬生の表情に驚いただろう。

 常に他人を近づけず、孤独な存在だった壬生。その壬生が相手を直ぐさま拒絶しないばかりか、ほんの少し甘えたような表情をしてみせる等信じられないと首を振っただろう。

「ずっと校門の所で待ってたんだけどいつまで経っても紅葉ったら来てくれないからここまで来ちゃった」

 悪戯っぽく笑った晄華の笑顔がいつもより儚げなのはきっと月の光の下だからに違いない。

「はいっ」

 晄華にそう言って手を差し出されて、壬生は戸惑う。

 晄華は玄関の外から手を差し出してくる。

 壬生自身はまだ玄関の内側で佇み、惑う。

 先程の教室での事を思い出した。自分の足下は闇に染まり、ほんの少し先は月に白く照らし出されていた。あの時壬生の所まで月光は届かなかった。桜の欠片達も。

 だが、今。

 月の光に浮かび上がる晄華は壬生に手を差し伸べ、壬生は闇の中からどうして良いのか分からずに困惑している。

 きっと光の下にいる晄華には暗闇の中の壬生の顔など見えはしないのだろうけれど、壬生からは晄華の顔がよく見えた。

「僕、は…」

「卒業おめでとっ」

「!」

 言われて戸惑った。

 祝うべき事なのだろうか?卒業は…。本当に?

 だが、晄華の表情は本当に嬉しそうで。

「晄華…君も今日卒業式だったんだろ?おめでとう」

「うんっサンキュ♪」

 にっこりと爽やかな笑顔を返されてしまった。

「て事で、一緒に行こう」

「何処、に?」

「?何処って何処でも」

「?」

 やっぱり分からない。

「晄華?」

「別に何処だっていいけど。何処とかそう言う事じゃなくて。一緒に…生きていこう?」

「!!」

 言葉を無くした壬生は今の今まで、ずっと差し出されたまま一度として下られる事の無かった晄華の手を凝視した。

「学校卒業したからとかそんな理由で紅葉との縁が切れるなんて嫌だし」

「晄華…」

「どうせ自分は拳武館の暗殺者だからとかなんとか、卒業したけど、完全に拳武館との係わりが消滅する訳じゃないしとか色々考えてたんでしょうけど、紅葉は私の兄弟子だし。表裏の間柄だし。今更遠慮する必要ないじゃない?」

「そう言う…問題でもないと思うんだが」

 困惑も露わに呟いた壬生だが、その口元は知らず知らずの内に、緩やかな弧を描いていた。

 あっさりと壬生が悩んでいた事を一蹴してしまう晄華の強さは相変わらずで。

「そんなもんだってば。私は紅葉がどういう人か知ってる。信頼出来るって知ってる。認めてる。それに、私自身が鳴滝さんに武道を教わり、鳴滝さんを認めている。この時点で紅葉と一緒でしょ?」

 彼女は眩い光を放っている癖に、闇をうち消すわけではなく、闇を知って包み込んでくれる優しい光だ。

「成る程」

 壬生は込み上げた笑いを堪えて、小さく肩を揺らした。

「それに、もう紅葉は拳武館の餓狼・壬生紅葉じゃないんだし」

 確かにこれまで拳武館の暗殺者として生きてきた。それは事実。だが、これからの日々、壬生は拳武館の暗殺者ではあり得ない。元暗殺者と言う過去は消しようもないが、それは事実。

 その過去に纏わるが故に完全に一般人とはなれないが、それだからこその出会いがあった。後悔はない。

 そして、今からが。

 新しい自分の、新しい生活の始まり。

 終わりは始まりを示すのだから。

 新しい自分に少し位、何かを期待しても良いかも知れない。

「そうだね」

「って事で、はい」

 更に手を差し出されて。

 一歩踏み出せば、月の光が壬生を照らし出した。その光が存外眩しくて壬生はほんの少しだけ目を眇めた。

 パシッ。

 勢いよく晄華の手を取って。

 グッと握りしめれば、晄華は嬉しそうに笑った。

「これからも宜しく」

「こちらこそっ」

 ほんの少し恥ずかしそうにした晄華に壬生はくすりと笑った。

 きっと同じ様に恥ずかしそうにしつつも嬉しそうな自分の表情すら晄華にばれているんだろうと思いながら。

 一人この学校に何時までも居たのは何処にも行けなかったから。

 学校を出れば、高校生ではなくなる。

 そうすれば彼女達と共に戦った絆まで喪われるようで。

 かと言って自分から晄華の所には行けなくて。

 どうする事も出来ずに佇んでいた。

 いや、晄華の所に行けないように…とこんな遅い時間まで学校で時間を潰していたと言うのに。

 もう既に、他の仲間達と帰っていると思っていたのに。

 待っていてくれた。

 玄関まで迎えに来てくれた。

 予想外で。

 嬉しい、なんて。

 どうしようもないな、と思う。



「すっごく嬉しいなっ」

「そう?」

 むやみやたらと嬉しそうで、今にもふわふわと宙を歩いて見せそうな晄華を壬生は不思議そうに見つめた。

「何よ、紅葉は嬉しくないの?」

「……どうかな。よく分からないよ」

 卒業した事が壬生にとって良い事なのか悪い事なのか。喜ばしい事なのか、そうでないのか。ぐちゃぐちゃとした感情は自分自身でもハッキリと分からなくてそんな曖昧な返事が出た。逆に壬生からすれば何をそんなに晄華が喜んでいるのか分からなかった。そんなに高校を早く卒業したかったのだろうか。

 と、一転、晄華が暗い顔をした。

 悲しい、とか。寂しい、とか。そんな表情だ。

「晄華?」

「何で紅葉は嬉しくないの?やっぱり嫌?嫌だから?手を取ってくれたのに、違うの?」

 今にも涙を浮かべそうな晄華に壬生は慌てる。

「何の事だい?手を取るって、あれは一緒に帰る…そう言う事なんだろう?」

 そう問いかければ、唖然とした風情の晄華が情けなさそうな顔をした。

「分かってないんだ」

「何、が?」

 ガックリと項垂れた晄華に壬生は何となく申し訳ない気がしてしまうが、分からないものは分からないのだからしょうがない。

「何の事だい?」

「あーもうっ!紅葉に遠回しに言った私が馬鹿でしたっ!」

「……喧嘩売ってるのかい?」

「喧嘩じゃなくて、告白のつもりだったの!!」

「…………は?」

 余りにも予想外な晄華の言葉に壬生の頭の中は真っ白になった。

 たっぷりと間を空けてから、間抜けな声を出した壬生に晄華はやっぱりと脱力して見せた。

「もう、本当にこういう事には鈍感なんだからっ!あのねぇ?いい?一緒に生きていこう、なんて誰にでも言う言葉じゃないでしょ?私幾らなんでもそんな軽い人間じゃないわ。そりゃ、一緒に帰ろうと思って待ってたけど。紅葉の言う事は間違ってないんだけどさっ………」

 もどかしそうに頬を染め、少し哀しそうに涙ぐんだ晄華に。

 彼女の言葉の意味が理解出来るに連れて徐々に壬生の顔が赤くなる。

「でもさ、でもさ。私だって一生懸命勇気を出してね?あーでもない、こーでもない考えてさ。やっぱりこーかなとか、いやいや、あれがいいとか悩んで、みんなにどうしたらいいかなとか相談したりしてさ。でさ。あんなに笑顔で。普段余り笑ってくれない紅葉があんな笑顔で手を取ってくれてさ。やったぁああ♪♪とか天にも昇る気持ちでいたのにさ。なんかさ、そんなのさ、えーっとか。そんなぁ〜とか。嘘〜とか思っちゃったりしてさ……」

 ブツブツと文句を言い始めた晄華が無性に可愛かった。

 愛しくて堪らなかった。

「ごめん」

「え?そ、それは…その…どういう意味、で?」

 サッと表情を変えた晄華は自信ありげに手を差し出していた先程と同一人物とは思えない程で、仲間内で一番強い黄龍をその身に宿す人間とも思えない。

 一体壬生が何について謝っているのか判断しかねて、不安そうに眼差しを揺らす様子は恋する少女に過ぎない。

 嬉しくて。抱きしめたくて。

 でも、そんな彼女をもっと見て居たくて。

「違うよ。そうじゃなくて」

 彼女の不安を壬生はすぐに否定した。

「君のプロポーズに気づかなくて、ごめんって意味」

「うなっ!プ、プププププロポーズ?!」

 壬生の言葉に晄華は口元を引きつらせて、声を裏返した。顔は真っ赤だ。

 月の光の魔法だろうか。

 いつもは元気いっぱいで”少女”なんて感じじゃないのに。

「そ、そんな、プロポーズだなんて…いや、その、別に嫌じゃないんだけど、ほら、あの。ただ恋人になれたらなぁ〜とか、このままお別れは嫌だったから、そんな事を思ったりした訳で、こーね?……ご両親に紹介して欲しいとかなんとか、そんな事は全然!!これっぽっちもぉお!!」

 余りにも驚いたのか、支離滅裂な事を言い募る晄華が可愛くて壬生は目を細めた。

 そんな変化が全て僕のせいならいいのに。

 そんな事を思いながら、サラッと告げた。

「なんだ、そんな事ならいつでも構わないよ」

「へ?」

「明日、都合が良ければ一緒に病院に行ってくれるかい?」

「びょ、病院?」

 なんで?と未だに動揺から立ち直れていない晄華が頭の上にクエスチョンマークを飛ばしている。

「母さんの見舞いに付き合ってくれないかな」

「な゛?!」

「いや?」

「いいぃいいいいえ、嫌と言う訳ではなく!ほら、やっぱり心の準備と言いますか、なんと言いますかっっ!!」

 慌てふためいて、手をワタワタと振り回す晄華に壬生は堪えきれなくなって肩を揺らした。

「ふっ…」

 くすくすと口元に拳を当てても、堪えきれない笑みがこぼれ落ちた。

「く、紅葉ぁ〜っっ!!」

 顔を真っ赤にした晄華が怒鳴る。

 それでもやっぱり可愛くて。愛しくて。我慢出来ない。

「ごめん、ごめん。本当は、出来る事なら今日…君を母の所に連れて行きたいと思ってたんだ。だから…ポロポーズ云々は抜きにしても、明日…付き合ってくれないかな?」

 そうっと腕に抱きしめた晄華は思いの外小さくて、すっぽりと壬生の腕に収まってしまった。

「え?く、紅葉?あのっ??」

 突然の壬生にわたわたと慌てた晄華は、それでも解放してくれる様子のない壬生の胸元をギュッと握りしめた。

「……………あ、明日、デート…してくれるんなら……いいよっ!」

 晄華はそれだけ言ってギュッと目を瞑って俯いてしまった。

 壬生はそんな晄華の言葉にほんの僅か目を見開いた後。

「了解」

 晄華を見つめながら、それだけ言った。

 とても、幸せそうな壬生の声。

 壬生の様子が気になったのか、その声音に誘われたのか、晄華がちろっと壬生の方を見上げれば二人の視線が重なって、壬生は笑いかけた。

 自然とこぼれ落ちた微笑みは柔らかくて。

 晄華も壬生以上に嬉しそうな笑顔を浮かべ返した。

「行こうか」

「うんっ」

 やっと解放した壬生は今度は晄華の手を取った。

 一瞬ビクリと晄華の体が震えたけれど。

 長く伸びた二人の影は離れる事はなかった。



 月光に照らされて並んで歩く二人を柔らかな春風に乗った桜の花びらが追い越して行った。



@04.04.19>04.04.21/04.04.24/