Novels

 

『泡沫の夢のまにまに…』

 

何時までもそれが続くものだと思っていた…
変わらずにずっと…それが続くのだと。
決して喪うことなく、自分の傍らには…愛しい笑顔があるのだと…信じていた…

それが…喪われるまで……決して気付くことは無かった―――

 

唐突になった玄関のチャイムに龍麻はぼうっとなった頭で何も考えずに振り向いた。
誰もいない玄関に。
明かりもついていない玄関に。
ポツリと灯火が見えた気がしてふらりと誘われるように玄関に近づいた。
そのまま…躯になじんだ行動として自然に扉を開けていた。
「…京一……」
龍麻は扉を開けてソコにいた人の顔を見ると驚きに目を見張ってぴたりと動きを止めた。一瞬固まった龍麻はとっさに動くとバッと扉を閉めようとして京一の手にがっしりと扉を捕まれて阻止された。
「ひーちゃん…話し…させろよ…」
急に扉を閉めようとした龍麻をしっかりと睨み付けるようにその目を細めて京一はぐいと自分の躯を中へと押し入れた。
「…俺には…無い。」
むっとしたようにその表情を険しくした京一がぐいと龍麻の躯を押しのけるようにして完全に中へと入り込んで後ろ手にパタンと扉を閉めた。
「龍麻。」
強い口調で呼ばれて龍麻は顔を逸らして背中を向けると部屋の中へと入っていった。
そんな龍麻の後ろ姿を見ながら京一は小さくため息を吐いた。

―――信じていた。決して変わらないと…
たとえ何があっても。自分達は変わらずにいられると…だから、疑うことなど有りはしなかった。
終わりがあるなんて―――

直ぐさま京一は龍麻の後を追った。この期に及んで更に部屋の中に逃げ込まれては意味がないからだ。
足早に追いかけてその腕をキツク握りしめて捕まえる。

今まで何度も訪れた部屋。
共に過ごした日々と時間。
笑い合った思い出が京一の胸を切り裂く。

堪えきれないように京一は叫んだ。
「なんでだよ。何でなんだよ!」
「……」
龍麻は京一の哀しみと憎しみの混じり合ったような苦しげな瞳を見ていられずに、ぎゅっと目を閉じた。
応え…られる筈など無かった。
告げることなど出来なかった。
「一緒に中国へ行くって…約束だったよな?なんでだ?なんで急に!!!何があった?ちゃんとした説明も無しに、納得できるかよっ!」
もっともな京一の叫びに龍麻はただ黙って耐えていた。

共に。
いたかった…
一緒に。
過ごしたかった…

大好きな彼の側で。
京一に言われるまでもなく。
だから。共に中国へ行こうと思った。でも、それは許されないことだった。自分には…時間が残されていなかったから…
龍麻は切ない思いを隠すようにして、ただただ自分を見つめて何か答えを探そうと必死な京一の鳶色の瞳を見つめた。淡く光を受けて輝く双眸。
キシリ、と胸が軋む…

かつて…自分は「菩薩眼の女」として生まれた。だが…皮肉にも自分はそれだけではなく「黄龍の器」としての力も持っていた。そして自分は。選んだのだ。
「黄龍の器」たることを。
結果自分は女として育った全てを失い、男として生まれ変わった。別にそれでも良かった。それが自分の決断。選んだ道。たとえ自分の何を喪ってでも、護りたいと思った。だから…
でも。
戦いは終わった。
もう…自分は…身を守る必要も無い。愛するもの全てを護るための<力>も必要ない。
そして、自然は…残酷なほどに。
元の姿へと戻そうとする。あるがままの姿へ・・・
そう。女が男になるのは「黄龍の器」たる異常な程強大な力のせい。そして、ねじ曲げられた自然。
全てが終わり、その必要もなくなった現在。ねじ曲げられた現実は再び元に戻ろうとしている。
それは…龍麻の、消失―――

そう、自分は消えるのだ。
うたかたの夢の…泡の如くに。
何も無かったかのように。
その全てを…喪う……

もう。京一の側に「龍麻」としていられる時間は殆ど残されていない。
後わずか…
もう暫くすれば櫻の華が…咲くだろう。
きっと、自分は櫻の華を見ることは出来ないだろうから…
涙の滲みそうになる目を隠すように何度も瞬きする。
京一に気付かれないように。
悟られないように。
胸の内を押し隠して龍麻は無表情に立ちつくす。

「ごめん…でも…。説明、出来ない…」
「なんでだよ!何でなんだよ!!!そんな苦しそうな、寂しそうな、今にも泣きそうな目ぇしながら、なんで何も言ってくれねぇーんだよ!!!!」
その表情を歪めた京一は堪えきれないと言うように龍麻の躯を抱き寄せた。
「京一…」
ぎゅっとそのたくましく自分を包み込む暖かい体にしがみついた。
「そんなに…俺は信用…できない、のか?」
耳元で頼りなげな京一の声が…ささやきが龍麻を包む。
優しい…京一の暖かい氣が全てを抱き留めようとするかのように。
「ご、めんね…一緒に中国行けないくて。なのに、何も言えなくて…ごめんね……」
「龍麻…」
静かに二人は抱き締めあったまま何も言えずにいた。
どうすることも出来ずに京一はただ龍麻の細い体を抱き締めるだけだった…
長い沈黙を破ったのは龍麻だった。
「ねぇ、京一。お願い…聞いてくれるか?俺の…夢、叶えてくれる?」
「龍麻?」
したから見上げてくる龍麻を京一はじいっと見つめながら少しだけ首を傾げた。
「少しでいいから。お前の時間を…くれる?俺に、京一…を………」

―――くれる?―――

何処と無く頬を赤らめた龍麻にそう言われて京一は面食らった。
「俺。京一の事好きだ。」
「……俺もだ。…一緒に中国へ行こうぜ?」
龍麻の告白に京一は自分もだと答えるとそう言った。
でも、龍麻は黙って首を振るだけ…
「好きだけど、一緒に行けない……」
「……」
「だから京一。今この時の京一を、俺にくれよ。」
そう言って必死な瞳の龍麻は京一を見つめた。どこかうっすらと涙を浮かべた龍麻に懇願されるまでもなく、京一には龍麻を拒絶など出来るはずもなかった。
まるで誘われるようにそっと口づけた。
抱き締めて、キスをして。
熱いお互いの体温を感じあう。
「今だけじゃなくて…ずっとお前のモンだ……」
「京、一…………」
切なそうに目を細めて龍麻は京一を見つめると、そのまま自分からキスをした。

二人の吐息が絡まり合う。
お互いの全てを求めて。お互いの全てを与えあって。
何もかも奪いつくように相手を貪りあう。
「んっ…きょ、京…いちぃ……」
見えるのはお互いだけ。
感じるのはお互いの肌の熱さだけ。
甘く快楽に溺れた吐息だけが辺りを支配する。
何度も絶頂を迎えては、飽くことなく求めあう。
それが全て…とでも言うように………

二人だけの刻が熱く溶けて、消えた―――

龍麻は自分を抱き締めたまま、眠りについた京一の髪にそっと触れた。少し汗ばんでしっとりとしたそれ。指に時折絡めるようにしては髪を梳いた。その髪にキスをして。寝ている京一の唇にそっとキスを落とした。
これが、最後―――

そうっと京一に気づかれないように体を動かして龍麻はサイドテーブルの引き出しにあった包みを取り出す。以前、偶然手に入れて、持っていたモノ。決して使う事なんて無いだろう、そう思っていたモノ………
「使う、事になるなんて…ね………」
自嘲気味に呟いた龍麻はそっとその京一の散らした紅い刻印の刻まれた裸体を月下にさらしてコップに水を入れて戻ってきた。
「京一…きっと、怒るよね……。でも…。京一、大好きだよ………」
決して誰も聞くことのない龍麻の言葉を静かに窓の隙間から覗く月だけが聞いていた。
龍麻はそっと水を含むと、先程取り出した包みから粉薬を飲む。無味無臭の筈のそれは、酷く…苦く感じた。
龍麻は一瞬の躊躇いの後、素早く…京一にキスをした。
深く京一の唇を割って進入した龍麻の舌と一緒にクスリのとけ込んだ水も流れこむ。
「んっ………」
京一がピクリと反応して。
龍麻はそれに構わず、より一層深くキスをする。
京一の舌を絡め取って、歯列の奥まで舌先で愛撫するかのように擦りつける。
「ん、はぁ…」
夢うつつの中で京一はそっと龍麻の首に腕を回すと自分から龍麻の舌に己のそれを絡めて来る。
一瞬、京一が目を覚ましたのか…と思ったが、そうではなかったらしい。
「龍、麻………」
小さく京一の重ね合わされた唇から零れ落ちた言葉。未だ夢の中で京一は龍麻にキスをし続けている。
京一はそのまま龍麻から口移しで含まされた水を殆ど飲んでしまう。
「…、んっ………」
そっと…京一の口の中から水が無くなったことを確認して龍麻は京一から離れた。
そのまま龍麻はフラリと水道の所へ行くと新しいコップに水を満たして少し口を濯ぐ。
「俺には…必要ないから、ね………」
月光に照らし出された龍麻の顔に涙が一滴零れて落ちた。
そのまま、京一の方を振り向くようにして龍麻は何度も何度も呟いた。
「俺は忘れない。最後の一瞬まで。京一、大好きだよ……。大好きだよ…。愛して、る………」
そうして龍麻はそっと自分の体を掻き抱いた。

京一に飲ませた薬は記憶を操作するモノ。偶然手に入れた…それ―――。
きっと京一はこれで今日のことを覚えていない。
お互いに求めあったことも。触れあった肌の熱さも切なさも。全て忘却の彼方へと失われたはずだった。
覚えていなくていい。
こんな事を覚えていたら自分がいなくなった後京一が苦しむから。
自分の陰を……京一に残したくはなかった。
太陽の如く、光に溢れた京一だからこそ。
今のままでいて欲しかった。
覚えているのは自分<緋勇龍麻>だけでいい。
他の誰も知ることがなくても、それでいい。
………どうせ<緋勇龍麻>もすぐに消えてしまうのだから。
消えて……<緋勇桜>が再び現れる。
きっと、<桜>は京一の事を覚えていない。この1年、仲間と戦ってきた苦しくても辛くても、何よりも大切だったと思える思い出を。彼女は決して知らない。
少しだけ龍麻は笑みを浮かべた。
この記憶は自分のモノ。自分だけのモノ。
例え「桜」であっても渡さない。
みんなとの記憶は……自分だけのモノだから………

―――せめてそれくらいは俺にくれたっていいだろう―――

龍麻は一人ごちてそっと京一の寝顔を見つめた。
「<緋勇龍麻>は京一、お前だけの…ものだ………」
そうして再び軽く触れるだけのキスを………した―――

 

―・◆・―

「……、…。紅、葉……?」
そっと瞼がピクリと動いたと思うと長いまつげが物憂げに動いて開かれた漆黒の瞳が壬生の姿を映し出す。目を覚ました相手は嬉しそうにふわりと笑みを浮かべた。
「…桜…大丈夫、かい?」
「ん…。ここ………どこ?」
きょろきょろと周囲を見回す桜は見覚えの無い部屋の中で壬生に聞いた。
「ああ、君の……部屋、だったんだよ。」
「私、の?」
「ああ……」
陰のある瞳をそうっと伏せて壬生は桜から視線を逸らして部屋の中を見回した。
キチンと整理された部屋。彼の…部屋―――
「どうして……?私どうなったの………???」
不安そうに瞳を揺らす桜をそっと壬生は抱き締めた。
「君は。…使命を果たしたんだよ。全ては………終わったんだ………」
「終わった、の?」
「ああ……」
きゅっと壬生の背中に回された桜の手に力が入った。

桜は自分が「黄龍の器」として覚醒してからの記憶が一切無い。故に、自分が今までどうしていたのか解らないのだ。

何でここにいるの?
ここはどこ?
私は何をしていたの?
そして―――今までの私はどうなったの?

それに壬生は答えることは出来ない。
「もう全て……終わったんだよ………」
「………。う…ん………」
桜はひっそりと壬生に抱きついたまま涙を零した。
詳しいことを語らない壬生に。
桜はそう呟いて頷いた。

解っていたから。
自分の知らないこの1年。それは自分であって自分でない<彼>のものだから。
自分がしるべき事ではないから。
それは喪われた<彼>だけのものだから…

解っているから。
今自分を抱き締めてくれる腕があることを。以前と変わらずに自分を見つめ求めてくれる愛しい腕があることを。
自分はこの愛しい人との<時間>を再び取り戻したのだから…

「桜……泣かないでくれ………」
「………」
「……桜、お帰り……」
「…ただ、いま…」
二人はそう言って押し黙ったまま抱き締めあった。
壬生は桜を抱き締める腕に力を込めながらそっと…口だけで呟いた。

―――龍麻…―――

そして二人は目を閉じたまま動けずにいた。

―・◆・―

「京一はん?どないしたんや?」
中国の広大な大空の下、劉と一緒に客家の里に向かっていた京一に劉は驚いたような声を上げた。
「へ?どうかし………」
急に自分を見て驚きに目を見開いた劉に京一の方が戸惑いながら言葉を返して…途中で気がついた。

ぽたり。

零れ落ちた滴。
「なんや、ホームシックかいな?」
「………」
冗談に誤魔化すように言った劉に京一は答えることも出来ずにただ、ただ、自分でも意図しない涙に驚いていた。
「なん、で……」
涙は止まらない。
あれ程までに美しく眼前に広がっていた広大な景色が休息に色あせていく。
全てが…色を失ったかのように生彩の無いモノとなっていく。
何か大切なモノを………失ってしまった…そんな感じで胸が…寂しい………
空虚なものが広がっていく。
「京一はん……?」
劉の戸惑った様な声も京一の耳には入らない。
ただ…遠くから一瞬声が聞こえたような気がした。
とても大切で愛しい声が―――
決してこの手に入れることは叶わなかった愛しい氣を感じた。

―――京一…俺は、お前だけのモノだ………―――

涙が流れ落ちる。
止まることなく。
それはまるで血を流し続ける心のように。
紅く染め上げる。

 

思ってもみなかった。
喪う、なんて事は…
いつまでも一緒に。ずっと一緒に居られるんだと…そうだと……思っていた。
決してそれは喪われることがないと信じていた。

泡沫のなんて儚い夢―――
どうして信じる事なんて出来たのだろう………夢は夢のまま………

 

―――考えたこともなかったんだ。喪う、なんて……―――