『夏の蜻蛉』
コトリ。
机の上にお茶が置かれて、芳しい香りが漂う。
「良い香りですね。」
「ああ、先日…手に入れたんだが、なかなか滅多にお目に掛かることはない一品だからな。」
「いいんですか?」
少しばかり不思議そうな顔をした壬生に如月は軽く眉を上げて見せた。
「僕なんかがお相伴に預かっても…。」
「ああ、気にすることはない。僕が今飲みたいんだから。」
窓の外から夕暮れの鮮やかな朱の陽射しが射し込んで、湯飲みの影を長く伸ばした。
もうそろそろ冬。日の暮れるのは早い。
「君と出会ってからどれくらい経つのかな?」
「さぁ…確か…3年…ほどでしょうか?」
二人静かにお茶を飲みながら語り合う。
穏やかで。心落ち着く。幽玄の時。
自分とは違う“他人”が側にいながら何てソレを感じさせないんだろう。
余りにも自然に感じられて、今此処に自分一人であって、一人でないような、奇妙な感覚。
「君が鳴瀧館長に伴われてこの店に来てから…もうそんなになるのか……。」
「………結構時の経つのは早いものですね。」
クスクスクス。
壬生の小さい忍び笑いが響く。
「壬生?」
「だって…なんだかやけに年寄り臭いですよ。」
「……ああ…。」
二人お茶を飲みながら、過去を懐かしむかのような話をして。
思わず指摘されて如月は苦笑を浮かべた。
笑み。
最初は殆ど見ることの叶わなかったものだ。彼は心を冷たく閉ざしていた。まさに自分と同じように。
その彼が少しずつ本当の顔を見せてくれるようになったのは何故だろう。
でも、だからだろうか?
いや、そうじゃない。
彼は余りにも自分に似ていたのだろう。
側にいて余りにも違和感がなく心地よく。
だから寂しい心が彼の魂を求めた。
いつの間にか。
逆に心奪われて。
彼が尋ねてくるひとときを待ちわびていた。
今彼は目の前で笑う。
唇の端に笑みを張り付けたような、作り物めいたそれではなく。何処か暖かみのある優しい笑み。
その理由に思い至って、胸に切ない。
彼は最近彼女に出逢った。
自分とは関係のないことで。
彼より先に彼女に出逢って何となく想っていた。
―――出来るならこの二人を出逢わせたくない―――
その気持ちは無意識下のもので、ハッキリと自覚していたわけではない。
でも。
二人が一緒に居るのをみたその瞬間。
自覚した。
でも、遅い。
彼は変わった。
そう。思えた。
このまま穏やかな時が続いていくのだと想っていた。
彼が他の誰かに心開くことなどないのだと、運命を甘く見ていた。
夕日に壬生の顔が紅く染まる。
ふわりと伏せられた睫の影が目元に深い陰影を与える。
トクン。(あの瞳に熱く見つめられたなら)
湯飲みを持つ指が思いのほか長く、細く、綺麗だと言うのに男らしさを喪っていない。
トクン。(あの指先で触れられたならば)
湯飲みに付ける唇はキリリと引き締まり、男らしいと言うのに、何処か誘うように紅い。
トクン。(あの唇に触れることが出来たなら)
誘われるまま。
―――僕は“飛んで火に入る夏の虫”だったのかも知れない。
触れた唇は少しお茶の香りをさせていた。
「んっ…。」
何度か啄むようにキスを繰り返して。
「なんで…拒まない?何で逃げない?」
「…………さぁ。」
「わかって、いるのか?」
「…わかって……いるのでしょうね…。」
湯飲みに視線を向けたままだった壬生がそっと湯飲みを机の上に置いて真っ直ぐに如月の方を見た。
無表情なその瞳。
さっきまでの穏やかさや優しさなどを一切払拭した―――
冷たい眼差し。
「後悔…しますよ?」
「もう既に…している…。」
「………。」
「もっと早くに…するべきだったと…。」
緩く壬生は首を振った。
「無駄ですよ。」
「………。」
その表情からは壬生の内心を窺い知ることは出来ない。でも。
「他の誰と出会っていようと、他の誰と共にいようと。…きっと僕は“今の僕”なんですよ。」
キュッと唇をかみ締める。
言外に告げられた内容に心が傷ついた。
―――彼女を好きな今の僕―――
そんなことは分かっている。誰よりも分かっている。彼が誰にでも心を開く人間でないことを。だからこそ彼が心を開くのならば。それならば。逆に記憶を失っても、立場が違っても、状況が違っても同じに違いないことも。
壬生のその冷めた瞳を見ていられなくて、俯いた。
前髪がふわりと覆い被さって視界を遮る。
「え?」
スッと伸びてきた壬生の手が頬にあてられて上向かせられた。そのまま壬生の視線に絡め取られて、逸らすことも出来ない。
両手で頬を挟まれて。
近づいてくる壬生をただただ、凝視した。
「…壬、生……、っ…ん、……はぁ、ん…。」
キスされて。
先程自分がしたようなキスなんかとは違う。あんな悪戯をするようなキスではなく。
貪るように激しく口内を舌先で撫で回されて、絡め取られた舌を吸われた。
熱いはずなのに、冷たい………キス。
「どう…しますか?」
「何、を…。」
離れた壬生は間近で見つめてくる。
何処か狂おしい程の狂気を秘めた眼差しが見つめてくる。
ゾクリ、と背中が震えた。
知らない内に手が壬生の首へと回っていた。
壬生の首に手を回して、抱きつくようにして。
唇が触れ合う、その間際で。
「構わない。」
告げてキスをした。
体の芯が熱くなる。頭が真っ白になって何も考えられなくなる。
でも。
分かっているんだ。
彼が求めているのは自分ではないと言うことが。
「あなたが望むなら…。」
それでも尚“自分”を与える残酷な人。
断れるはずがないのに問いかけてくる嫌な人。
床に押し倒されながら目を閉じた。
ならば、淫らに濡れた眼差しで彼を誘おう。
闇の底へ―――
夏の日に見た蜻蛉。
僅かな時しか生きられない。
彼らは何を見、何をするために生まれてきたのだろう。
そして彼らは…何を想ったんだろう?
@01.05.01/01.05.02/