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『ツモルハナ』

 

 ひらひらと。

 舞い散る桜色の欠片達が降り積もる。
 まるで雪が積もるかのように。

 同じように降り積もる。

 一生懸命目を逸らして、知らないふりして、気づかないように、表に出てきたりしないように。

 隠して、抑えて、来たのに。

 不思議と降り積もって、気づけば、溢れている。

 最早、目を逸らしようもなく、気づかない振りも出来ない位、降り積もった想い。

 ひらひらと舞い降りる欠片が積もる。

 瑠璃は小萩の目を盗んで、いつもの様に野原に来ていた。そして、何時も見上げる大きな桜の木の下で佇んでいた。
「桜、かぁ…」
 瑠璃がそっと手を差し出せば、掌にひらりと舞い降りた花片(はなびら)ひとつ。
 綺麗な色をしている、と思っている間に次の花片がもう一つ、舞い降りた。

「惜しむ間に 桜の散るらし 匂はなむ 知らずつもりし 我が心ざし」
 〜まるで知らず知らずの内に、捨てたくても捨てられずに、積もったあなたへの私の想いように、惜しんでいる間にも、桜はどんどん散って、積もっていくのがとても美しい〜

 風がふわりと瑠璃の髪を揺らす。と同時に、風は春とは異なる香りを瑠璃の元へと届けた。
 今のお歌、聞かれていないといい、そう思いつつ、振り向かないまま瑠璃はクスリと笑みを浮かべた。
 こんな所にまで来たのだ、と思うと呆れると同時に嬉しかった。
 ふわりと瑠璃の手の上にあった桜の花片が風に攫われた。
 瑠璃はその欠片を目で追いながら呟いた。
「嫌になっちゃうわね。只でさえ、綺麗で思わず手放したくなくなるのに、どんどん降りしきって。一面の桜色」
 まるで私の想いそのままに。
 空を見上げれば、青い空に映える桜の美しい色が目に優しい。
 吉野の里を見れば、村そのものが桜に埋もれたかのように美しく、そして、二人を包むのは降りしきる桜吹雪。
 地面を覆い尽くす程に桜色に染めて。
 美しい、春。
「で、なんでここにいるの?ってか、ここにいちゃダメでしょう?」
 そう言って、くるりと振り返った瑠璃の目の前には一人の公達が立っていた。
 狩衣姿とは言え、只立っているだけでも気品を感じさせる。後日、偶々この公達を見かけた村人達は桜舞い散るこの里に桜の化身がいた、と密かに噂したのだが、そんな事は今の瑠璃達にとってどうでも良い事だ。
「姫に会いたかったんですよ」
 ニコリ、と口元に淡い笑みを浮かべて桜舞い散る中に佇むその姿に瑠璃は目を奪われた。
 春の穏やかな青空の下、桜吹雪舞う、一面桜色に染まったこの吉野で、まるで人ならぬものに出逢ったかの様だった。
「それにしても、振り返る前に私と気づいていただけるなんて、とても嬉しいですね」
 口元に優しげな笑みを浮かべた風情の公達に、瑠璃は既に積もった想いは深く、これ以上はないと思っていたのに、まだまだ余地があったらしい、と思い知らされた。
 いや、際限なく溢れているのかと思い直せば、瑠璃は内心可笑しかった。
 クスリ、と笑みを零した瑠璃に桜の公達も眩しそうに目を細めた。
「その香を焚き染めているの、私は鷹男しか知らないもの」
 鷹男と呼ばれたその公達は、嬉しそうに瑠璃に近づいた。
「私の香を覚えていて下さったんですね」
「そりゃーね」
 悪戯っぽく目を煌めかせた瑠璃に鼓動を跳ねさせ、鷹男は苦笑をかみ殺した。
 瑠璃は決して美人と言うのではない。なのに、人を惹きつける不思議な魅力が一体なんなのか鷹男にもわからなかった。恐らくは瑠璃の持つ人柄や魂のありようが人を惹きつけるのだろう。
 桜舞い散るこの景色の中にとけ込んでいる瑠璃。長い髪を緩やかに結び、風に遊ばれるままに揺らしている。相も変わらず顔を隠す事もせず、こんな野原に一人で居るのは頂けないが、この吉野の桜の風景の中にいる瑠璃を見る事が出来たのなら、感嘆の吐息と共に許してしまえる程、美しかった。
「お約束通り、お迎えに参りました」
「え?約束なんてしていたっけ?」
 鷹男の言葉に瑠璃はキョトンと小首を傾げて見せた。
 瑠璃のきらきらと輝く目が楽しそうで、なんと生き生きとしている事かと、鷹男は魅せられた。風に舞う、悪戯好きな桜の花片の様で、掴もうとした瞬間にふわりと何処かへ飛んでいってしまいそうだ。
 舞い散る桜の中に佇む今の瑠璃は人ならざる者の様な、不思議な雰囲気を身に纏っていた。
「えぇ、例え姫が知らないと言っても、私は約束したのです」
 鷹男の艶やかな笑みは舞い散る桜に彩られ、酷く妖艶で、妖しいまでの美しさで瑠璃の心を浸食していく。
「最後にお会いした…あの時…に」
「あの時?」
 瑠璃は不思議そうに目を瞬かせた。
 鷹男が吉野へと行く瑠璃の元へ、僅かでもいいから逢いたいと三条邸に忍んで来た時の事を瑠璃は振り返った。だが、思い当たる様な約束など思い出せない。
「えぇ、あの時……」
 そう言いながら、鷹男は自分の唇をそうっと指先でなぞって見せた。

「……触れた…姫の唇に……」

 男の癖に綺麗な桜色の爪が鷹男の朱唇を撫でるさまに瑠璃の視線は搦めとられて、頬を染めた。
 その夜、初めて鷹男は己の唇で瑠璃のそれを知った。溢れ、溺れそうな感情の中、鷹男は誓ったのだ。必ず瑠璃を手に入れる、と。
「約束したのです」
 しっとりと囁かれた鷹男の睦言は風に吹き消されてしまいそうなのに、何故か瑠璃の耳にしっかりと届いた。まるで耳元で囁かれた様で、鷹男の吐息すら感じた気がして、瑠璃は足の力が抜け、そのまま座り込みたくなったが、何とか堪えてみせた。
「そんなの私は知らないわ」
 思い出して顔を真っ赤に染めた瑠璃が気丈にも鷹男を睨み付けるが、逆効果でしかない。その潤んだその眼差しに鷹男の想いが激しく揺すぶられるだけだ。
「そうですか?でも、私の唇は……」
 鷹男はそう言いながら、今度は瑠璃の唇をツッと撫でてみせた。
「この唇と約束したのです。そして、姫の唇はそれに応えて下さった…」
「そ…んな、の…」
 理不尽な言いがかりだと言えずに、瑠璃の眼差しが揺れた。
 ふわりと吹いた風に髪が揺れ、まるで瑠璃の気持ちそのままに鷹男の腕に絡み付く。
 ―――あぁ…。
 まるで魔性のもの。東宮とは春宮とも書くけれど、この目の前の存在は確かにこの春の支配者にして、春の化身。桜そのものの様に美しく、人を魅了する。
 こんなの、抵抗しようなんて思っていた自分が馬鹿だったのだと、瑠璃は視線を鷹男から逸らす事も出来ず、考える事を拒否し始めた頭の片隅で思った。
「瑠璃姫…あなたが好きですよ。誰よりも、何よりも、鮮やかに私の心の奥深くに入り込んで、咲き誇る私の華。あなたを手に入れる為なら、吉野など遠くはありません。姫の唇も髪も、私を好きだと、こんなに素直なのに…」
 そうっと、鷹男の腕に絡んだ瑠璃の髪を、鷹男は優しく取り、指先に搦めると愛おしげに口付けた。
「最早、あなたは私の華。私の為だけにある華。だから私だけが愛でる事を許されている」
「鷹男…」
 瑠璃はどうにか鷹男の名を呼んだが、鷹男と言う存在全てに酩酊していた。
 ボウッとなっていた瑠璃はスッと腰を引き寄せられて、抵抗する間もなく、鷹男の広い胸の中に抱きしめられてしまう。
 トクトクと聞こえる鼓動は鷹男のものか、それとも自分のものか。きっと、自分のものに違いないと瑠璃は思った。耳に木霊する鼓動に周囲の音がかき消され、聞こえないのだから。
 だと言うのに、それでも素直な耳は律儀にも鷹男の声だけは拾ってしまう。
「だから、約束通りに……手折りに来ました……」
 そうして、クイッと顎を持ち上げられて、上から優しいのに、獲物を狙う様な鋭く強い眼差しに貫かれて、瑠璃は体をビクリと震わせた。
 それは捕縛される事に対する恐怖なのか。それとも期待にも似た、歓喜なのか。
 素直な体も顎に触れた鷹男の手をうっとりと受け入れてしまう。
 悔しいと瑠璃は思った。自分ばかりが鷹男に翻弄されているから。自分ばかりが鷹男を好きになっているから。鷹男が好きすぎてどうしようもないから。
 だから、せめて何か一言、言ってやりたかった。
 そして、唇が重なり合う瞬間、何とか手で鷹男の唇を受け止め、声を絞り出してみせた。

「鷹男…私は接吻一つで心を渡す程、軽い女じゃないわ」

 鷹男は瑠璃の言葉に目を見開いた後、フッと目を和ませたかと思うと、優しさを拭い去った捕食者たる光を湛えて、自らの唇に触れている瑠璃の指先をチロリと舐めあげた。
「!」
 鷹男は咄嗟に手を引こうとした瑠璃の手を捕まえ、自分の方へと引き寄せ、更に強く瑠璃を抱きしめた。
「では、何度でも姫の為に私の唇を捧げましょう…私の姫に。私の華に。私を溺れさせ、狂わせる事の出来るあなたに……」
 鷹男の腕の中にすっぽりと包み込まれてしまう、小さくて、華奢な瑠璃に愛おしさを煽られながら、鷹男は問答無用とばかりに瑠璃の唇に己が唇を押し当てた。
「んっ…」
 一瞬、目を見開き、抵抗する素振りを見せた瑠璃を無視して、何度も口付ければ、瑠璃の抵抗も止んだ。チロリと唇に舌を這わせ、震える瑠璃の唇を押し開き、中に押し入り、舌を強く絡める。
 想うまま深く唇を重ね、接吻を繰り返す。
「んっ…ぁ…う……」
 二人から零れる吐息は酷く甘く、途中から瑠璃は溺れる者の様に鷹男の背に腕を回して縋り付き、鷹男を更に煽り続けた。
「姫…愛しています…」
 何度も囁き、接吻を繰り返す。
 何時しか、座り込んで接吻を繰り返す二人の上に桜の花片が降り注ぐ。

 ひらひらと。
 ちらちらと。

 長い事、繰り返し続けた接吻が、回数とすれば一体何回と数えればいいのか全く分からないその中で、遠ざかった鷹男の唇が囁く。
「一生でも接吻を繰り返しましょう。必要だと言うなら、花に水を与える様に、あなたに捧げましょう。だから…」
「鷹男…」
「私に手折られて下さい。この吉野の桜そのものの様に私の心を魅了して止まない…私だけの華」
 鷹男の言葉に瑠璃は目を閉じた。瑠璃が鷹男を桜の化身だと思った様に、鷹男も瑠璃の事をそう思ってくれているのか、と思うと心が震えた。
 どんなに抗っても抗えきれる筈がない。触れた唇が熱くて、鷹男の想いを伝えてくる。心も体もそれがもっと欲しくて堪らない。愛しくて堪らない。
 だから。
 瑠璃の方から、黙って鷹男の首に抱きつき、驚く鷹男の甘露たる唇をチロリと一度舐めてから、もっとと、深く口付けた。
「!」
 一瞬、動きが止まった鷹男だが、直ぐに瑠璃を強く抱きしめ、瑠璃以上の情熱でもって応じてみせた。

 吉野の里の桜が咲く。風に揺れ、舞い落ちる。
 降り積もるは恋の花。積もり積もって、溢れた恋はその身を焦がす。

「心ざし 知らず積もりし もろともに 吉野の山に 花は降りつつ」
 〜吉野の山に、桜の花が美しく咲き、散る様に、知らずに積もり積もった恋い慕う想いは、お互いに全く同じなのですよ〜

「やだ、聞いていたの?」
「えぇ、春風がとても嬉しい歌を届けてくれましたから」
「恥ずかしいなぁ…」
 照れる瑠璃に鷹男は破顔した。
「この地に降り積もる桜の様に、私への想いが積もり積もっていると詠って頂けたのですよね?」
「………」
「あの時、私の迷いは全て消え失せたのです」
「……ウソツキ。迷いなんて無かった癖に…」
 顔を真っ赤に染めた瑠璃が拗ねた様に唇を尖らせた。
「ふふっ。流石、瑠璃姫ですね。本当は…初めて触れた姫の唇が私を好きだと伝えてくれた時、です」
 瑠璃は自分の正直さに居たたまれなくなって、ギュッと鷹男の胸に顔を押し当てて、顔を見られない様にした。
 鷹男はそんな瑠璃の真っ赤な耳を見つめながら、黙って抱きしめていた。

 ちらちらと。

 二人の上に舞い散る桜。

 美しく、艶やかに、妖しい程に人を惹き付ける。

 それはまるで恋の様。

 逃れる事の出来ない恋の、呪縛。

「鷹男…愛しているわ」
「瑠璃姫…約束通りお迎えに参りました」
「うん。ずっと鷹男の傍にいさせて……」

 約束とばかりに接吻を繰り返した。
 お互いの想いを触れ合う事で伝えて、お互いの心を潤し続けるように。

 

 

〜あとがき〜
 瑠璃に一言「キス一つで〜」と言わせたくて書き始めたお話です。何も考えずに書き始め、不思議と桜の絡んだ話となりました。と言うか、キスしかしていない癖にやけに艶っぽい気がして、一体何故に?と首を傾げるばかりです。想定外。これって、誘い攻めと誘い受けですか?(笑)

 

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