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『逃れ得ぬ月』


「友雅殿?どうかされたのですか?」

「………。」

「友雅殿?」

「…あ、ああ…少しばかり疲れたようだ。済まないが先に失礼させて貰うよ。」

 一日の八葉としての勤めを終えて、丁度左大臣邸を辞してきたばかりの宵の頃。声を掛けてきた鷹通に心此処に在らずと言った風情の友雅は素っ気ない素振りでそう言うと背を向けた。

 夜になり大分冷たくなった風がふわりと髪を撫でて通りすぎていく。

 そんな友雅に鷹通は

「それもそうですね。今日はかなりの数の怨霊を封じましたから。早く休まれた方が宜しいでしょうね。」

 気安く言葉を掛けてくる。特に鷹通に裏がないのが解っている。

 だからこそ。余計に。

 それが気に障る。

 チクリと胸に刺さった小さな棘を噛み締める。

「ふふふ…麗しき花を抱いて眠りにつくとするよ。」

 わざと余裕たっぷりな風情で呟いた。

 それに対する無言の鷹通の表情は見なくても想像は出来た。きっと生真面目にしかめっ面をしているのだろう。

 そのまま確認する事もなく背を向けて遠ざかる。

 今、この胸を占めるのは僅かな罪悪感か。それとも満足感か。



 この腕に。

 抱いて。


 そう、大切に、大切に。

 何よりも大切に包み込んで。


 愛でることが出来たなら。





 キリッと知らず力の入った口元を流暢な動きで隠す。

「この私が、ね。ふっ……。」

 友雅は隠された口元に苦笑を浮かべて美しく清浄なる輝きを帯びた月を見上げた。

「我が情熱。儚くも泡沫の如くに……………遠く届かず……………。」

 結局は何も変わらない。

 ”情熱”は酷く遠く、決して手に入らない。

 ならばいっそのこと知らないままの方がまだマシだったのに。

 ”情熱”とは一体どれ程甘美なものだろうと甘い想いに浸っているだけならば楽だったのだから。

 一度知ってしまえばもう戻れない。



 これ程甘美で、これ程苦いものを他に知らない。

 これ程とは思っていなかっただけなのかも知れない。



「これが胸を焦がす程の想い…と言う奴なのだろうね。」

 ポツリと呟いた友雅の声は夜露に濡れて消えた。





 遠い時も空間も超えた、遥かなる彼方より召喚された神子。

 だが、普通の少女。

 そう、本当に普通の。まだまだ幼い少女。

 だと言うのに一体どうしてこれ程までに心を奪われてしまったというのか。


 遙か遠くに白銀に輝く月を愛しげに見つめて漫ろ歩くその胸に去来するのは彼の少女の面影。





「全く無茶をする。無謀と勇敢は全く違うものなのだよ、神子。」

「………分かっています。」

 そう言って唇を噛み締めた少女。

 それでもその眼差しは真っ直ぐで決して自分の行為に疑いを持っていない。

 ――― イ タ イ ―――

 胸に小さな痛みが走る。

 その真っ直ぐ過ぎる眼差し。強い眼差し。どうしてこの少女はこんな直向きな眼差しをする事が出来るのだろう。

 見ず知らずの世界。

 勝手に連れてこられた世界。

 望んでいたわけではない戦い。

 納得出来るはずがない。

 自分なら納得出来ない。

 何故自分が?と憤る。

 だが、この少女は真っ直ぐ見つめる。そう、この”現実”すらも。

 理不尽でしかない現在ですらも、諦めることなくその胸に熱い想いを抱えて直向きだ。

 その”情熱”は何処から来るのだろう?

 強気な発言をする少女が可愛げがない、と思う反面何故こんなにも苛々するのだろうか?

「無謀だったことは分かっています。それでも私が此処で無理をして大怪我するそれと、放置して友雅さんが大怪我をするそれと。どちらの可能性が高かったか。私は後者だと思っています。実際私はかすり傷程度だから………。」

「神子殿。」

「ごめんなさい、生意気な事を…言っていますよね……。」

 少し咎める様な口調で名前を呼べば、頼りなげに瞳を揺らして俯いた。

 つい先程までの強すぎる眼差しとは一瞬にして切り替わるその儚さ。

 ――― イ タ イ ―――

 胸に再び痛みが走る。

 その痛みは徐々に大きくなっている気がして友雅は煩わしげに髪を掻き上げた。

「………ただ、怪我して欲しくなかった。何時も私は後ろにいるばかりだから。だから……。」

「それが神子殿の役目なのだからそれで十分なのだよ。それに姫君がこの様な怨霊との戦いに参加している事自体が不自然なのだからね。」

 寂しげな少女に責任でも感じたものか。何故だか安心させたいと願い、優しげに告げながら友雅はギュッと腕を握りしめた。

 そうでもしなければ今にも消えそうな少女を腕に抱きしめてしまいそうだった。

 包み込んでしまえば、少女が消えてしまうのではないか、喪ってしまうのではないか、そんな不安もないのだ、と思えた。

「………何時も…ありがとうございます。力を貸してくれて。守ってくれて。助けてくれて。だから。……だから甘え続けてしまいそうな自分が怖かったんです。ごめんなさい。無茶な事はもうしません。」

 そう真摯な瞳で言いながらも、きっとこの少女は同じ場面に出くわしたならば同じような行動をするのだろうと感じた。

 真っ直ぐな眼差しで哀しげに微笑みかけてくる。

 普通の。

 普通の少女。



 その筈なのに。




 何故こんなにも心を乱される??




「今後はこの様な無茶はしないで下さい。頼りすぎる事に不安を覚えるのは良い事だと思いますが、私たちは貴女を守る為に存在するのですから。」

 側に来てそう告げた鷹通の言葉に少女ははにかむ様な笑みを見せた。

 台詞以上に口調が優しい。鷹通がどれ程この少女に好感を抱いているかが良く分かる。

 キシッ。

 ――― イ タ イ ―――

 胸に痛みが走る。


 自分に向けられたのとは違う安心したかの様な表情。

 穏やかな眼差し。

 その少女らしい淡い柔らかな笑顔。

 どれもこれもが気に入らない。




 ………何故?




 西方の札・大威徳明王解放の為に一緒に行動する事の多かった鷹通と少女の二人を見続けている間にその想いは激しく強いものになり。



 直ぐに嫌でも理解した。



 自分は二度と戻る事の叶わぬ深き森に迷い込んだのだと。

 月に叶わぬ恋をしてしまったのだと………。





 気付いてからどれだけの時がたったのだろう。

 数日の様な気も、何年も経っている様な気もする。

 想いは褪せることなく、より一層艶やかに。鮮やかに輝きを増すと言うのに、月が自分に応える事はない。

 ただ、冷たき白き光を投げかけるばかり。

 真面目に京の為にと語り合う鷹通と少女の後ろ姿を黙って見つめたまま、何度背を向けたいと思った事だろう。

 その眼差しに。

 かつて無い色を滲ませて友雅は溜息を零した。


『友雅さん……。』


 憂いを秘めた少女の声が響く。

 心も体も全てを絡め取る声だ。

 何時だって少女は何処か哀しげに見つめてくる。それが友雅には耐え難い。

 どうして微笑ませる事が出来ないのだろう。

 純粋に美しく。愛らしく。優しく。柔らかく。

 花の様に、薫る様に。

「らしくもない。それでも君を守るのは自分でありたいと願う。頼って欲しいと、甘えて欲しいと願う。…情けない程に、ね。」

 フッと自嘲的な笑みを浮かべて友雅は月から視線をそらせた。

 それでも月に照らし出された自分の影に、月から逃れる事は出来ないのだと、暫し目を閉じた。



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