『君がいなくても美しい世界』
まるでたった今のことのように
思い出す事が出来る
感じる事が出来る
瞼に浮かぶ白い肌
闇の中でも、目に眩しくて、月光に怪しく光る
耳を嬲る熱い吐息
その熟れた眼差し、上気した頬、開かれ濡れた唇
ゾクリ、と体を駆け上る快感
忘れようもなく
ただ、繰り返し罪を突きつけ、責め続ける
己の愚かさを―――――
「友雅殿は?」
「……」
無言で首を振った女房に友雅を訪ねてきた鷹通は小さく吐息をはいた。
何度訪ねても同じ様に門前払いされている。だが、このままで良いはずがないと鷹通は少しばかり強気に出た。
「そうですか。失礼しますよ」
だが、女房はそんな案内もなく勝手に入ろうとする鷹通に怒るではなく静かに頭を下げたのだった。
友雅が居るというのなら何処だろうか。
そう考えて鷹通は少しばかりよく知っている訳でもない友雅の屋敷の中でどうしようかと指先で眼鏡を軽く押し上げた。女房の先導もないのだ。すぐに分かるはずもない。
そんな鷹通の横を通り過ぎていく女房達は何も言わず鷹通に頭を下げるのみだ。
仕方がない…と歩き始めた鷹通はすれ違う女房達が僅かばかりにある方向を示す視線に気づいて、その先へと歩を進めた。
まるで風に揺れる穂先に導かれる様に…。
そして。
「こんな所にいたんですね」
そう口にした鷹通は苦笑を浮かべた。
庭先の余り人気のない様な場所。華やかな友雅には不似合いな程うらぶれた様な…そんな素っ気ない何もない様な場所。
そして友雅自身のすっかり変わってしまったその場に相応しすぎる様なその風情に鷹通は目を細めた。
まるで世捨て人か、悟りを開いてしまった僧侶の如くだ。
鷹通に気付いているのか居ないのか、一切反応を返さない友雅の側に鷹通はゆっくりと歩み寄った。
腰を下ろす。
じっと空を見上げている友雅につられて鷹通も空を見上げた。
星々が煌めく夜空には満月が浮かんでいる。
空を支配しているかの様な美しさで煌々と輝く。
「美しい月ですね」
「ああ…」
今まで無言だった友雅が小さく答えを返した。
「この世は…すべからく美しいものなんだよ」
「…友雅殿…」
「ふふ…私自身気付いたのはつい最近の事だけれどね」
鷹通は言葉を飲み込んだ。
一体友雅に何があったというのだろう。
一人の少女が龍神の神子として召還され、鬼との戦いを経て、この京の都は救われた。
八葉の一人として選ばれた二人は共に戦った仲間だ。
だから、当然気づいた事もある。
どうやって切り出したものか…と思案した挙げ句、鷹通は諦めた。
自分如きが幾ら雰囲気が変わったとは言え、あの友雅を言いくるめて上手く聞き出す事など出来るはずもないのだから。
「それはどうしてです?」
「……」
「この世が美しいと思われたのは何故なんですか?神子殿…の事ですか?」
ピクリ、と友雅の肩が震えた。
風もないのに豊かな友雅の髪が揺れ、肩先から零れ落ちた。
「あの方は一人で還って仕舞われた。あの……月へと…」
そう言って鷹通は懐かしいものを見る様に月を眺めた。
鷹通とて自由奔放な神子に心惹かれていた一人だ。この世界の人間が持ちえない、何者にも縛られていないかの様な優しい強さ。
出来る事なら共にいたいと思った。
だが、彼女が選んだのは別の人間であり、自分ではなかった。
それならばそれで仕方がない、と思った。
でも、だからこそ不思議でならない。
「何故……神子殿は一人で還られたんでしょうか」
ぱちり。
友雅がその手に持っていた扇を閉じた。
元から表情の乏しかったと言うのに、更に無表情になってしまった友雅に鷹通は己の失言を悟った。
怒りを表に出してくれるのならばまだマシだった。そうすれば彼が苦しんでいるものの一端であっても触れる事が出来たかも知れない。
だが、こんな風に完全に内にこもられてしまえば鷹通には為す術がない。
「簡単な事だ」
「!」
一切答えは返ってこないものと思っていた鷹通は淡々とした友雅の返事に驚いた。
「私が愚かだったからに他ならない」
「友雅…どの…」
喉元をひやりとする冷たき刃を突きつけられたかの様な酷薄な笑みを浮かべた友雅に鷹通はゴクリと唾を飲み込んだ。
友雅の華やかさの裏にある、冷酷な面が現れていた。
ぱちり。
閉じた扇を再び開く。
口元を隠し。
だから、僅かな月明かりでは友雅のその表情はハッキリとは見えない。
「私はね…あかね殿との契りを…交わしていたんだよ」
「っっ!!」
その言葉のもたらす事実に鷹通は手に力を込めた。
愛しい少女とそう言う関係にあったとハッキリ言われて胸が痛まないはずがない。当然だった。
「私は彼女を愛しいと思っていた。この世界の常識に囚われない自由な強さ。言葉遊びの様な男女の駆け引きとは懸け離れた真っ直ぐな少女。神子だとか、京の為だとか、そんな事一切私には関係なく、一人の女性として私にとって彼女は大切だった」
蕩々と語る。
だが、そこに感情は殆どと言って良い程籠もっていない。
だからこそ鷹通は余り現実的に感じられなかった。逆に友雅も自分と同じ様にあかねに心惹かれていたのだ…と言う事実だけが身近な事に感じられた。
「では…何故?」
そう鷹通は問いかけた。
愛しいと思っていたならば何故、今、友雅の側にはあかねがいないのだろうか。
あかねがこの京に残るなり、友雅が向こうの世界に行くなり、どっちにしても二人は共にいるべきではないのか。
「私は年をとっていてね。真っ直ぐに自分の気持ちを伝える事が出来なかった」
「気持ちを?」
一体どういう事かと眉を顰めた。
「私たちは歌を詠む。飾った言葉の遣り取りの中で気持ちを相手に伝える。だが、あかね殿の世界は違うようだね」
「そう、かもしれません」
僅かな時間を共に過ごしたあかねとの記憶をまさぐれば、そんな印象は幾らでも思い当たった。
「私は彼女を愛しいと思った。欲しいと思った。だから彼女に手を伸ばした」
それはこの時代の男なら普通の行動に違いなかった。
会った事もない相手に勝手に懸想し、相手の元へと許可もなく唐突に忍んで行く。
だが。
「想いは伝えたつもりだった。私は、ね……」
そう言う友雅が一瞬だけ遠い眼差しに熱いものを含ませて月を見上げた。
「しかし、神子殿には伝わらなかった…のですね」
囁く様に鷹通は零した。
「あかね殿と共に向こうの世界へと行くつもりでいた。この何もかもが指の隙間から零れ落ちていく様な世界から解放されて、愛しい少女と共に新しき世界へと行くのだと」
ふと黙り込んだ友雅と一緒に鷹通も一人の少女を思い出しつつ、美しい満月を見上げた。
そろそろ空が白む頃。
愛おしい温もりに触れるだけの口づけを落とした後、友雅は身繕いをするべく身を起こした。
「んっ…友雅、さん?」
「起こしてしまったかい?まだ眠っていて良いよ」
そう呟いて、そうっと髪を梳いた。
その手の感触にうっとりと目を閉じたあかねだったが、暫くしてから友雅を見上げてきた。
昨夜の事を思い出したのか、うっすらと頬を染め何処か恥ずかしそうでもあるが、同時に何とも幸せそうな雰囲気が何よりも友雅を嬉しくさせた。
「体は辛くはないかい?」
布団に顔の半分を隠したまま頷いたあかねに友雅は笑った。
「もう…行っちゃうの?」
「ずっと一緒にいたいけれど、そう言う訳にもいかないからね」
そう言いつつ着物を着れば。
「あの、ね…」
「うん?」
「その…」
どう言って良いのか、と頬を染めつつも口篭もっているあかねに友雅は初々しい思いで彼女を見つめ返した。
「ずっと…一緒にいてくれますか?」
やっと問いかけられた内容に喜びがこみ上げる。
恋い焦がれた月の姫。触れる事など出来ないのではと思っていた愛しい少女をこの手に抱いたその日の朝。恥ずかしそうにも嬉しそうにそんな事を聞かれて嬉しくないはずがない。
「勿論だよ。男としての責任はとる。それに君の世界とはどんな所だろうね。楽しみだよ」
愛しているのだ。他の誰かに渡す事など出来ない程に。今まであれ程厭ってきた結婚と言うもので君を縛り付けてしまいたいと思う程に。
そうして君と過ごす新しい世界はどんな所だろうか。
そう考える未来は、なんと楽しみな事か。
「え?」
「どうしたの?」
戸惑いを見せたあかねに友雅は首を傾げた。
「友雅さん…あっちの世界へ…?」
「ああ…君がここに残るよりもいいだろう?あちらには君のご両親も、友人もいるのだろう?」
「それは…そうですが…でも、そしたら友雅さんは全てを失っちゃう……」
「いいんだよ、そんな事は君が気にしなくても。私にはこの世界に執着出来るものなどありはしないのだからね」
そう…君以外には………。
「でも……」
「優しいのだね、月の姫。私の事を心配してくれる。だが、本当にいいんだよ。君さえ居てくれるなら、ね」
「は、い」
頷いたあかねの布団から出ている額に口づけを落とすと友雅はあかねの部屋から帰っていった。
「友雅、さん……」
そんな友雅の後ろ姿を切なそうに見つめていたあかねに気付くことなく。
「あかねっっ!!」
声を限りに叫んだ。そうでもしないと今にも愛しい少女が消えてしまいそうだったから。
その不安に胸が押しつぶされそうな程で、体が小刻みに震えている。
「友雅さん…」
「約束したろう?私も君と一緒に行くとっ!」
そう言ってあかねへと手を差し出した。
だが、あかねは首を振った。
ハラハラと雫が零れ落ち、あかねが泣いている事に気付いた。
「あかね…一体どうして…」
鬼との戦いが終わり、全てが終わり。白龍を召還したその後。今、あかねは一人で還ろうとしていた。正確には一人ではあり得ない。同じ世界から来ていた天真や詩紋も一緒だ。だが、その中に彼女が一生共にいて欲しいと願う存在は入っていなかった。
「私は嫌な女、なんです。酷い、ですよね…ごめんなさい…」
「一体何を言っているんだっ」
常にない焦った様な口調の友雅にあかねは俯いた。
そうして一滴、また一滴と涙を零す。
「この世界から逃げ出す為の手段に過ぎないなんて嫌。男としての責任で、なんて嫌」
「な…に?」
白龍の放出される強大な力が風となって吹き抜ける。
「好きでもないのに別の世界に行く為に私を好きな振りなんて」
「何を言ってるんだっっ!!」
信じられないあかねの言葉に友雅は目を剥いた。そしてどんどんと大きくなる恐怖に声を限りに叫んでいた。
「本当は連れて行ってあげられたらいいんだけれど……私には出来ない…」
「違うっ!違うんだ、あかねっっ!!」
失う。
このままでは失ってしまう。
伝えなければ。
そうではないと言う事を。
伝えなければっ!!
ぱちん。
「あかねが誤解している事に気付いたものの、どうそれを伝えて良いのか分からなかった。彼女は私があかねを愛している振りをしていると思い込んでいた。あの時、咄嗟に本当に好きなのだと言ったとしても信じては貰えなかっただろう。形振り構わず”違う”としか口にする事が出来なかった。他に一体何をどうすれば良かったのか今でも私には分からない」
淡々と語る友雅に事情をハッキリと知る訳でもない鷹通は掛ける言葉すら見つけられない。
「ただ、分かっている事がある。私が愚かだったという事。彼女をこの腕に抱きしめながら、その想いを伝える言葉を口にしてやれなかった事実だ」
余りにも愛しくて。愛しい少女に溺れてしまい、何故彼女を抱くのか、何故彼女の元に忍んできたのかを伝える事を忘れてしまった。
焦がれた禁断の果実。余りにも甘く、余りにも深い酩酊にも似た陶酔感をもたらした快感。彼女の白く美しい体に夢中になり溺れてしまった。
常識に囚われる事を厭うて来たはずなのに、やはり心の底から自分が生まれ育った世界の”常識”に囚われたまま、この世界の女性相手ならば大概がそれで大丈夫だったと言う甘え。
だから彼女は言ったのだ。
『ずっと…一緒にいてくれますか?』
ハッキリとした言葉を何もくれない友雅への確認の為に。
何らかの言葉を求めていじましい程の謙虚さで。
「私は気付かなかった。あかねに何も言ってやれない所か、馬鹿な事を口走ってしまった」
それが何を示すのか鷹通には分からない。
ただ、酷く友雅が後悔し、自分自身を責めている事だけは分かった。
だからと言って詳しい事情を話せとは言えないし、これ以上の立ち入りは幾らなんでも不躾と言うものだろう。
龍神の神子が元の世界へと還ってから、橘少将の様子がおかしいと言うのはすぐに噂になった。
あれ程華やかな事で目立っていた友雅の雰囲気が変わってしまったと言うのだ。人付き合いが悪くなり、家から余り出てこなくなった。その上出仕も滞りがちになった。
だから、そんな友雅に鷹通は会いに来ていたのだ。
あかねとの関係は薄々気付いてはいた。それは恋愛事に疎い鷹通ですらなのだから、他の仲間は確実にだろう。
だからこそ、あかね一人が還っていった事実が。友雅がこの京に残った事実が。
それだけで、友雅の胸中を僅かながらも思い至る事が出来た。
今は、そうっと一人にしておくべき、とも思った。
でも、数週間経っても変わる事のない友雅をこれ以上放っておけなかった。
二人の間で何かがあって、現在に至っているのだと言う事は分かり切っていたから。
同じく寂しさを感じるものとして、言葉等なくとも構わないから同じ時を過ごすべきか、とも思ったのだ。
仲間として過ごした日々の中、飄々とした言動の裏で色々と苦しんでいる本当の友雅の姿も多少なりとも気付いていたから。
同じ仲間であった自分ならば少しくらいは友雅の苦しみを分かち合えるんじゃないかと思ってしまった。
この友雅の苦しみは誰にも共有する事など出来るはずがない。
出来るとすればこの世界の何処にも居ないたった一人の少女だけだ。
それでも、と鷹通は顔を上げた。
何時までも悲しみに囚われていて良いはずがないのだ。
そんな事はあの少女が望むはずもない。
「退屈で色あせていた世界はあかねに出会って輝き始めた。なんて美しいのかと思った。年を取りすぎた私は素直に君を愛しているから側にいたいのだと告げる事が出来なかった。そんな私を彼女は赦さなかった。一人置いて行かれたこの京。あんなに色褪せていたというのに、君はいないと言うのに」
天空を支配する満月を見上げていた眼差しが地上へと舞い降り、友雅は鷹通を見つめて、真摯な眼差しで呟いた。
「それでも、なんて世界は美しいのだろうね」
それは余りにも深い想いの籠もった一言で、鷹通は涙ぐみそうになった。
そうして友雅の目が生きている事に涙ぐみそうになった。
愛しい人に置いていかれた人。
生きる気力を失い、どうでもいいと投げやりになり、その生を放棄する事は容易いし、ありえないことではない。
元来、何ものにも執着しなかった友雅が唯一のあかねを失った事でそうなるのではないかと言う不安が今の今まで鷹通にはあった。
表情が乏しいのも。無口なのも。家を出たがらないのも。
そんな不安が現実のものとなった符丁の様で怖かったのだ。
だが、今友雅の瞳は生きている。心の死んだ人間のものではあり得ない。そもそもにして心が死んでしまった人間で在れば、世界を美しいと感じる事すら出来ないだろう。
彼は。
一人残されたこの世界で。
新しく生き始めたのだ。
「そうですね。神子殿と私たちが一緒に戦い、守ったこの世界は…なんて美しいのでしょうね」
鷹通も友雅を見返してそう答えた。
「彼女がもういないと言うのに何故なんだろうとずっと考えていたよ」
「答えは出ましたか?」
「いいや。だが、焦る事もあるまい。幾らでも時間はあるのだから……この世界が彼女の存在した事を証明しているからかも知れないね」
その友雅の言葉が本当かどうか、鷹通には判断出来なかった。本当は答えを出したのかも知れない。言いたくないだけなのかも知れない。
それでも後半は素直に頷く事が出来た。この京が平和なのは龍神の神子が存在した確かな証拠なのだから。
「そうですね」
そう言って二人で再び空を見上げる。
「ああ…本当に美しい月だ」
「ええ…」
「いつか…」
「?」
「何時かまた必ず会える……」
「………」
小さく呟いた友雅の言葉に鷹通は何も答えなかった。
その日まで彼はきっと己の罪を後悔し、懺悔し続けるのだろうか。
そうだと言うのならば、自分だけはそんな彼を見守っていようと鷹通は思った。
いつの日かあかねの元へと旅立っていく友雅がこの世界に居たのだと言う事を証明する為に。
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