『愛(いつく)し香』
大分斜めに射し込むようになった日差しを受けながら、藤姫は今日何度目かのため息を吐いた。
「はぁ〜」
外を見遣り、再びため息を吐く。
「…はぁ〜」
そんな藤姫の様子を黙ってみていたあかねは首を傾げた。ここ数日藤姫の様子がおかしい。
「どうしたの?最近ため息ばかりだね?」
「あっ…な、何でも無いのです。」
にっこりと微笑むが何処か寂しげで。
「何でもない、って顔じゃないよ?」
「……でも、本当に。」
「藤姫。」
一言一言区切るようにして呼ばれて藤姫は首をちょっぴり縮めた。
「…………後もう暫くしてしまえば、姉様がいなくなってしまうかと思うと…寂しくて……」
その来るべき時を思い浮かべたからか、うっすらと涙目になった藤姫がいじらしくも微笑んで見せた。
「藤姫……大丈夫だよ。お手紙書くし。同じ京なんだし。遊びに来るよ。」
ことさら明るく言う。
「そうですわね。」
それでも何処か寂しげな藤姫をそっとあかねは抱き寄せた。
鷹通との婚礼の日が近づくにつれて、何とはなしに緊張してしまう。
自分の房に自分の新しい家具が増えていく。藤姫曰く、婚儀が近づくと相手の人から新しい家具などが送り届けられるのが普通なのだそうだ。そうして新しい様々なものと共に新しい生活を迎えるのだ。
その色々なものを嬉しく受け取りながらも、結婚が近づいてきたのだ…と実感する。それが待ち遠しくもあり、怖くもあり。
でも、鷹通が会いに来てくれて、最後にはあかねを置いて帰ってしまうのが寂しくて。もっと一緒にいたくて、出来るなら一緒に帰りたくて。自分のいる場所は鷹通の側なのだと思うから。出来れば鷹通の館に移りたい、そう思っていた。
そんな日々の中、もうすぐ婚儀を迎え、そうすれば左大臣邸を出ていってしまうと藤姫はため息ばかり吐いていたのだ。
実際には婚儀を迎えても、この時代は通い婚であり、すぐさま引っ越すことはない。だが、他の誰でもないあかねが鷹通と常に共にあることを望んでいるのを知っているから。藤姫は何となく、婚儀が済んでしまえばあかねが直ぐに居なくなってしまうような気がしていた。
しかも、あかねはこの京に生まれ育った人間ではない。彼女の世界では結婚すれば共に暮らすのが普通だと聞いていたから。
藤姫はギュッとあかねに抱きついた。
「藤姫は私にとって大好きな妹。また、すぐに遊びに来るよ。……ほら、抜け出すのは得意だからっ!」
「まぁ、姉様っ!!」
咎めるような眼差しを向けた藤姫だったが、すぐにクスッと華が綻ぶように笑った。
「そうですわね。その時には頼久を差し向けますわ。」
「えー?一人で大丈夫だよぉ。」
「駄目です!!」
「でも……」
「姉様に何かあったら私…私っ…」
「わ、解ったから!じゃ、その時は頼久さんにお願いするね?」
「はいっ」
何やら上手いこと藤姫に乗せられているあかねだった。
「失礼します。」
声が掛けられて二人はハッと振り返った。
あかねはその声だけで鷹通だと解る。さっと居ずまいを正してコレから入ってくるだろう鷹通を迎える準備をする。
「ご機嫌いかがですか?」
そっと窺うように尋ねてくれる。
「まぁ、鷹通殿。」
「失礼かと思いましたが、こちらに渡らせて頂きました。」
「……仕方がないですわね。」
ちらりと後ろのあかねを窺って、藤姫は苦笑を浮かべた口元を手で隠した。
其処には鷹通のことを頬を上気させて、嬉しそうに見ているあかねがいたから。こんなに嬉しそうなあかねを見てしまえば、早く逢いたくて来てしまったのだろう鷹通を責める訳にもいかない。
それに、ウズウズと瞳を輝かせて鷹通と話が出来るのを待っている、それが分かってしまう。
「では、鷹通殿、姉様のこと…宜しくお願いしますね。」
そう、鷹通にだけ聞こえるように囁いて藤姫は房を出ていった。
「…お任せ下さい……」
鷹通は藤姫の後ろ姿に小さく答えた。
「鷹通さんっ!」
待っていましたとばかりに、名前を呼ばれて。
「神子殿…お元気そうですね。」
満面の笑みを浮かべて振り向いた。愛しい人が嬉しそうに迎えてくれるのがこんなに嬉しいものだとは思ってもいなかった鷹通だった。
最近まで同じように迎えてくれていたというのに、勝手に勘違いしていた鷹通としては本当に損をしていたと思う。先日友雅に「損しているだけのようだ」そう言われたことを思い出して、内心苦笑を浮かべる。
友雅には全て見抜かれていたのだと脱帽する。
本当にあの方はこういったことに鋭くていらっしゃる。少しは見習った方がいいのでしょうね。
ただ、見習う…に関しては恐らくあかねが知れば、「鷹通さんは鷹通さんのままで良いんです!」とハッキリと答えただろう。
「はい、鷹通さんこそ!……でも、お仕事忙しいんじゃないですか?大丈夫ですか?」
最近毎日顔を出してくれる鷹通に、嬉しそうな顔を少し心配げに曇らせて言う。
「大丈夫ですよ、無理なんてしておりませんから。あなたに会いたい、と思うだけで何故か仕事が片づいていくんですよ。」
「えっ?」
言われた事を理解してあかねは頬を染めた。
そんなあかねのすぐ側に腰を下ろした鷹通はフッと気付いた。
何時も匂う侍従の香りが…しない?
少しだけ心寂しくなった。
「神子殿…その…香は焚かれていないのですか?」
「え?あ…はい、そうなんです。香を焚くのは止めましたっ!」
明るく答えられてしまった。
今まであかねは鷹通と同じ侍従の香りをその身に纏わせていた。それを感じるだけでも嬉しかった。自分と同じ香をさせているあかねは、たとえ一緒に住んでいなくても、まだ婚儀をすませていなくても、自分のものだと実感することが出来たから。
其れを浅はかな独占欲だと突きつけられた気がした。
「そうなんですか?」
眼鏡を押し上げるようにして呟く。
「私まだまだうまく香を合わせること出来ないし。それになんか、違う気がして…。」
「………」
「鷹通さん?」
「…あ、いえ、何でもありません。」
一瞬傷ついた様な眼差しをさせた鷹通にあかねは首を傾げて覗き込んだ。
「鷹通さん、内にため込んじゃ、駄目ですよ?言って下さい。」
それは二人の間の約束みたいなもの。
先日まで、お互いに思い合いながら勘違いをし続けてきた。だから、変に心の内にため込んで誤解をするくらいならちゃんと口に出して言おう、と。
「そうでしたね…」
苦笑を浮かべる。
「今まであなたが私と同じ侍従の香を焚いて下さっていたのが嬉しかったものですから…その…」
眼差しであかねは続きを促す。
「違う、と言われて、何故か私のことを言われたような気になりました。」
「鷹通さん……」
あかねは少し目を見開くと鷹通に抱きついた。
「み、神子殿?!」
慌てた声音だけど、しっかりとあかねを受け止めてくれる腕が優しい。
「違うんです。そうじゃなくて……」
鷹通は抱きしめたままあかねの髪に顔を埋めた。甘い香りが鼻孔をくすぐる。お香のものではなく、あかねの素のままの香り。それだからこそか、より一層、鷹通の理性を引っかき回して胸を苦しくさせる。
「私が焚くと何処か違うんです。私の大好きなお香とは。違うんです。」
耳元で囁く。
「私の大好きな鷹通さんのお香とは別のお香の様な気がして。だったら、何も焚かないでいれば……そうすれば………」
―――鷹通さん自身のお香の香りが移るような気がして……
小さく小さく耳元で囁く。
囁かれて鷹通はギュッと抱きしめる腕に力を込めた。”移り香”と言う言葉を思い浮かべて、愛おしさに体が熱くなる。
「だから…一緒にいて下さいね?」
「もう離しません。何時までも一緒におります。自然と私の香があなたの香となってしまうまで…。そしてそうなってしまったとしても、離れません。」
穏やかな声だというのに、何処か体を熱くさせる様な鷹通の掠れた声に、あかねは体を僅かに震わせた。
「ぁっ…」
そのまま顎をとらえられて上向かせられると、優しい口づけが落ちてきた。何度も啄む様なキスを受けて、あかねはうっとりと鷹通に縋り付いた。
「あなたを…あかね…殿と呼んでも良いですか?」
初めて自分の名前を耳元で囁く様に熱い声で呼ばれて。
「鷹通さんっ…」
嬉しくて少し涙目になったあかねは鷹通の首に抱きついた。
「鷹通さん、鷹通さんっっ」
何度も何度も名前を呼ばれて。
鷹通はあかねの頬を両手で包み込む様にした。
「あかね殿…何時までも一緒にいましょう。移り香がお互いの香りとなってしまう様に……」
―――お慕いしております……
最後の言葉はあかねの唇を掠めた。
重なり合う唇。
深くなる想いと同じ程に重なり合う。
私の香があなたを染め上げてしまうまでこうやって抱きしめておりましょう。
@01.10.28/