『愛(いつく)し罪』
近づいたと思えば遠ざかり、決して掴むことの出来ない幻影の様にすり抜けていく。もう、京での戦いも終わる。どんな結果になろうとも、一緒に居られるのも後僅か。出来ることなら。これからもずっと共にありたい。一緒に居たい。側に居たい。でも、それは叶わぬ夢―――
分かっているから。
最後に。
最後だから。
想いを告げても良いですか?
―――この恋に終わりを……告げてくれますか?
彼女は気付くと側にいる。他の誰よりも側に。まるで空気か何かのように、それが当たり前のように微笑んで側にいてくれる。それがなくてはならないもののように。何度突き放し、拒絶しようと、柔らかい強さで包み込んでくれる。
愛しさが降り積もってどうにもならない。
もう後僅かで彼女は消えてしまうと言うのに。どうすれば良いというのか、そんなことも分からずにただただ無駄に時間ばかりが過ぎていく。
先日の物忌みの日に、気を失った彼女を腕に抱きしめて名前を呼び続けた。訳の分からない不安に駆られるように。
ピクリと瞼が動いて安堵の吐息を吐いた。
でも、これからは今の一瞬が永遠になる。何度名前を呼んでも応えない。何度名前を呼んでも微笑みは帰ってこない。『神子』はこの世界から居なくなってしまうのだから。
「神子殿…お赦し下さい……」
抱きしめた腕に僅かに力を込める。細く華奢な躯。そして服越しに伝わる温もり。サラリと髪を梳いて、露わになった額に震える唇で微かに触れる。愛おしい暖かな感触に涙が零れそうになる。
「お赦し、下さい……そして愚かな私に罰を……」
神子の躯を抱きしめる。
「………。」
一瞬意識のないはずのあかねが何かを口にしたような気がしてビクリと躯を震わした。
「神子殿?」
じっとその顔を見つめるが、あの輝くような目が開かれることはなかった。
恐怖が永遠となるこれからのために。
お願いです。
鬼どもに終焉を告げるが如く、私の想いにも最後を下さい。
勇気を。
終わりを迎える勇気を。
―――この恋に終わりを……告げてくださいますか?
最後の夜。ひっそりと静まった部屋にトントンと小さな音がして、あかねはビクリと躯を震わせた。
「誰…?」
「私、です…藤原鷹通です…」
聞こえた声に目を見開いた。結局何度も想いを告げようとして、その勇気が出せずにいたあかねは、まさか彼が尋ねてくるとは思っていなかった。
だって。
何時だって優しい顔で素っ気ないから。
「ど、どうしたんですか?!」
驚きを隠しもせずに言った。
「こんな時刻に申し訳ありません。ただ…神子殿と最後に話を……したかったのです。本当はもっと早くにするつもりだったのですが…」
扉の向こうから聞こえるその声は何処か苦しそうで、弱々しく…思わず扉を急いで開いた。
「鷹通さん、大丈夫ですか?」
月光の下、ハッキリとは見えないけれど、何処かせっぱ詰まったような鷹通の雰囲気は掴むことが出来る。普段の穏やかな気配の欠片すらないような変貌ぶりにあかねは心配になった。
「………本当に、あなたは優しい方です。だからこそ………あなたは龍神の神子として選ばれたのでしょうね。」
「鷹通さん?」
部屋の中に入ってください、そう口にしそうになって思いとどまった。藤姫に口が酸っぱくなる程説教された。簡単に殿方を房の中に入れては駄目ですよ!と。この時代部屋に殿方が入ると言うことは、男女の仲として見られることになるのだから、と幼いながらもうっすらと頬を染める藤姫に何度も言われた。最後の夜だし、別段今後の自分の噂などどうでもいいことのように思えたけれど、其処はやはり恥じらいに、言う事も出来ずに少しばかり頬を染めて目を伏せる事しかできなかった。
鷹通もそれが分かっているのか、決して自分から中に入って良いですか、とは聞いてはこない。
初夏を告げる爽やかな風が吹く。
さやさやと梢の音が耳に心地いい。
あまりの静かさにまるで世界に二人だけのような気がしてくる。
「美しい月ですね。」
そうっと背後を振り返った鷹通は月を見上げた。その鷹通の躯越しにあかねも月を同じように見上げた。
「決して手に入れることの叶わぬ月。天上にありて、人々の心を仄かな輝きでもって闇の中から救い上げてくれる。まるであなたのようですね。」
「…えっ?」
何と応えて良いのか分からない。当然鷹通が何を言いたいのかなんてもっと分からない。
「私は今まで自分を隠して生きてきました。そうすることで自分は強くなれると、そう信じていた。でも、それは間違いだと知りました。人は誰しも一人では生きていけない。弱さを認める強さを教えてくれたのはあなたですよ、神子殿。」
「私、が?私は何も……」
あかねが静かに首を振れば、同じように鷹通も首を振った。
「決して地上に降りてくることのない月。分かっています。自分の想いが届かない事ぐらいは。それでも。この想いを引きずったまま生きて行くには私は弱いのです。ですから…最後にこの想いをあなたに告げる事を赦してください。」
「何…を……」
鷹通の言い出したことに、甘い予感を覚えて心が震える。頭は痺れたようで何も言葉が出ない。ただ、ただ、鷹通の顔をじっと見つめ続ける。
「神子殿、私はあなたにずっと側に居て欲しいと願ってしまった。あなたの側に居たいと願ってしまった。」
「鷹通さん……」
じっと鷹通を見つめるあかね。鷹通は苦い笑みを唇の端に浮かべた。
「何時の間にこんなにもあなたの事を好きになってしまったのでしょう。」
鷹通は自分が言うべき事を全て告げて、微笑んだ。後は最後の裁きを待つばかり。
「…………。」
一方あかねは溢れ来る想いに言葉が出ない。
それは本当?本当に??今までのは私の思い違いだったの?嫌われているとばかり思いこんでいた。
それに。
「やっと……見つけた……」
零れ落ちた言葉はあかねの意識した言葉ではなかった。
でも、零れ落ちた瞬間にストンと心に染み入り、雫が流れ落ちた。
そう、やっと見つけたのだ。あれだけ望み、願っていた微笑みを。今目の前の鷹通の笑みはいつもの笑みとは違う。弱々しいまでの自分の弱さを隠しもせず、それでも尚、強い意志を秘めた眼差し。何処か儚げでいて、誰よりも強い包容力を感じさせるその微笑み。弱さも強さも彼の全てをさらけ出した、偽ることのない本当の鷹通が其処にいた。
「神子殿?」
「ずっと見たかったの。本当の鷹通さんの微笑み。やっと見れた。やっと本当の鷹通さんに会えた…凄く……嬉しいぃ……」
最後は掠れるような涙声で月光を弾く涙を零しながら、綺麗に微笑んだ。それは今まで見たどの笑みよりも華やかで艶やかで、大人の女性としての香りを放つ微笑。
最後の判決を待つ断罪者の気持ちであかねの最後の言葉を待っていた鷹通はザワリとあり得ない事態に心をざわめかせた。困惑に揺れるのは鷹通の番だった。
「私ずっと思いこんでいたんです。鷹通さんに嫌われてる、って。それでも龍神の神子だから仕方がなくつき合ってくれて居るんだって。だから本当の鷹通さんを見せてくれないんだ、って。でも、本当の鷹通さんを見たいと思ったのは好きだったから。鷹通さんの事が好きだったから。だから。」
鷹通の腕があかねの方に伸ばされる。月光に二人の影が長く落ちる。
「神子殿…そんなことを……仰られて良いのですか?今なら嘘ですみます。どうか神子殿、本当の事を……」
語尾が力無く震えるのを止められない。
「本当の事だよっっ!」
鷹通の言葉を遮ってあかねが小さく叫んだ。
嘘だ。
嘘だ。
では、頼久は一体何だというのだ?
あなたは彼のことを好きなのでしょう?
伸ばした指が頬に触れる。あかねは震えるその指先に自分の頬を押しつけるようにした。
「嘘じゃない…」
そう言ったあかねの躯を思わずギュッと抱きしめた。すんなりと腕の中に収まったあかねはそのまま鷹通の背中に腕を回した。
嘘だ。
私は見ていたんです。
あなたの事を。
だから。
あなたが誰を見ていたか何て分かって居るんです。
「……っ、…………〜〜〜〜っっ!!」
口を開いて真実を告げようとしたのに、声が出ない。
―――情けない……
鷹通は震える腕で愛しい温もりを抱きしめながら、酷く哀しげな顔に嘲るような笑みを浮かべた。
思い掛けず腕の中に転がり込んできた愛しい月。
一度手に入れたそれを手放せる程、優しいだけの男になんかなれない。
あれ程焦がれ続けた存在を手に。
―――離せる筈がない…
あかねの真意は分からない。分からなくても…。
一度は逃げる機会をあげたのだ。これ以上は。
「神子殿………」
鷹通は決して想いが通じ合った満ち足りた幸福感にではなく、自分のあまりの浅はかさ、愚かさに静かに涙を零した。そっと、あかねの髪に顔を埋めながら絶望に目を閉じた。
―――私は罪を犯す。更に深く……
月はただ静かにそんな二人の交わることのない想いを哀しげにそっと照らし出していた。
@01.10.18/01.10.19/