『愛(いつく)し背中』
あれから数日、何もなかったかのように日々は過ぎ行く。神子のお供をしたり、今までと変わらぬ日常業務をこなしたり。
でも。
何かが違う。
神子と話をする度に。
微笑みを見る度に。
敵を前に厳しい顔を見る度に。
時折見せる、物憂げな表情を見つける度に。
一生懸命京を背負って居るその小さな背中を見る度に。
何かが深く、強くなっていく。
堪えようもないほどに。
溢れようとしている。
漠然とした不安を抱えながら鷹通はそんな自分から目を背けていた。このまま何事もなく全てが終わり、神子は自分の世界へと戻っていく。そう、彼女はこの京から姿を消してしまう。そう思ってゾクリと背を這った冷たい感触に足を速めた。
一日が終わり、館に戻る、その時に「少し気になることがあるから」と先に帰るように神子と頼久に告げた。二人は先に帰っている。今更追いつくとかそんなことは思っても居ない。でも、自然と足は速くなる。少しでも早く帰り、神子が無事に戻られたことを確認しないではいられなかった。
早足で急ぎながら、真実は「いつか彼女を失う恐怖」から逃れるように彼女を自らの視界に取り込み、側にいたい。今現在、彼女は此処にいるのだと感じていたいのだ、と言うことに気付いていない鷹通だった。
先程二人と別れた処まで戻って来ると、草むらに座り込んでいる二つの人影を見つけた。
「この様な刻限に?」
もう既に日は傾き、大分暗くなり始めている。こんな時間に草むらに座り込んでいる人物など不審でしかなかった。疑問に思って少し人影の様子を窺えば、それは神子と頼久だった。
「神子殿?!この様なところで何をしていらっしゃるんですっ?」
慌てて側に行けば、振り返った頼久は振り向いて口元に人差し指をたてて、静かに…と目で制した。神子を見れば、どうやら彼女は眠っているようだった。無心にクゥクゥと頼久に凭れ掛かりながら眠っている。穏やかな表情。先日見た、自分の知らない彼女の貌。安心しきった風に眠っている彼女を見てズキリと胸が痛んだ。
「一体どう言うことですか?」
聞けば
「神子殿が、鷹通殿をどうしても待つ、と仰られて。」
一つ苦笑を浮かべて応えた。
「私のために?」
何かが心の中で壊れた気がした。溢れる想いは隠しようもなくて、熱くなる心に蓋をすることは出来ない。
「………神子殿………」
何処か掠れたような小さな声は頼久にも聞こえたのか、彼は少しばかり目を細めると苦しげに伏せた。だが、別に何も言わない頼久に鷹通は気付くこともなかった。
「鷹通殿、申し訳ありませんが、神子殿を負ぶって帰ります。宜しければ手を貸していただけますか?」
「あ、ええ、解りました。」
応えてからハタと気付いた。背負う?誰が、誰を?
今更気付いても遅い事だけれど、一度応じてしまったのに、嫌だとも言えない。自分が背負うとも言えない。結局そのまま頼久の背中に神子殿を預けるようにして背負わせた。全く目を覚ます気配のない神子に苦笑が零れた。せめて目を覚ましていただけたなら…と思った。だが、それがどうしてそう思ったのか、までは考えが及ばない。
「余程疲れておいでなのでしょう。では、静かに参りましょうか。」
「そうですね。」
頼久の言葉に頷きながら、眠った神子の顔をチラリとだけ見つめた。歩いているウチに段々鷹通の足は少しばかり遅れて、頼久の後ろを歩きながら、背中を見つめ続けた。
小さな背中。
大きな頼久の背中にちょこんと背負われて、規則正しい鼓動で上下に律動を繰り返すその小さな背中。
何故それが今自分の目の前にあるのだろう。
何故それがこんなにも胸を苦しくさせるのだろう。
何故自分の背中が寒いと感じるのだろう。
何故すぐ様にも頼久から神子を奪い取ってしまいたいと願うのだろう。
何故早く館に着かないだろうか、と焦がれるのだろう。
―――焦がれる?
焦がれるとは何に?どうして?
ドクン
一つ呼吸が乱れた。
溢れ掛けていた想いは。
既に蓋を押し破って。
目を背けることも出来ない、気付かない振りも出来ないほど。
「いい加減逃げるな…と、そういうことなのでしょうね………」
小さくため息を吐いて鷹通は呟いた。
―――焦がれてやまない目の前の小さな少女に
そして再び視線を神子へと戻す。眠ったまま静かな寝息をたてて、その身を頼久に預けている。そもそもこの現状は、どんなに疲れているにせよ、頼久の側でなら眠ってしまう程安心出来ると言うこと。心を許していると言うこと。信頼し、全てを預けていると言うこと。その事実が鷹通を苦しめた。
「あなたの心は其処にあるのですね……」
鷹通は、自分の想いに今まで一生懸命目を反らし続けてきたことに気付いて、目を細めた。
「だから気付かないままの方が良かった……」
「何がでございますか?」
風に乗って小さな鷹通の言葉が聞こえたのか頼久がそっと問いかけてきた。
「いえ、何でもないのです。」
小さく笑みを浮かべる。
「差し出がましいことを致しました。申し訳ありません。」
「いえ、別に頼久殿が謝られるようなことではありません。本当に大したことではないのですから。」
今度は気付かれないように苦笑を押し隠して笑った。
目の前の神子の全てを背負った男は静かに「そうですか」そう言うと再び黙り込んだ。
気付かなければ良かった、こんな気持ちは。知らないままの方が良かった、こんな苦しみは。
でも。
知ることが出来たのはあなたのお陰。恐らくはそれすらも感謝すべき事。
でも、今は。
自覚せずには居られなくなった恋心を認めると同時に、恋い焦がれるその存在を失う者など私ぐらいなものなのでしょうね。友雅殿なら、如何にも不器用なあなたらしい、そう仰るのでしょうか。
自嘲的な笑みを浮かべて夕空を見遣る。
紫や朱色に染まった雲が様々な陰影を浮かび上がら、鮮やかな山の端に沈み行く夕日は紅く、切ない程の情景を作り上げていた。
「切ない程、美しい夕焼けですね。」
―――焦がれる想いそのままに
「そうですね。」
まるで鷹通の想いを知っているかのように、頼久は夕暮れを見ると、苦しげな眼差しで答えた。一瞬その声音に頼久にも秘めるものがあるのだろう、そう思わずにはいられなかった。お互い胸に一つの秘密を共有しているかのような感覚を覚え、何か言葉にしようとして鷹通は小さく笑みを唇に乗せると頭を振った。そう、話すべき事など、口にするべき事など無いと解っていたから。
そして静かに闇が降りゆく中で二人は黙ったまま館への道を急いだ。
@01.10.15/01.10.16/