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『愛(いつく)し蝶』


 偶々仕事の都合で神子の元へ行くことの出来なかったある日、上司の頼まれ事である届け物をした帰り道で鷹通は神子の姿を見かけた。

 爽やかな夏を感じさせる風が神子の柔らかな髪を揺らす。穏やかな表情の神子。決して自分が一緒に行動している時には見せないその表情に何故か胸の内が騒いだ。楽しそうに瞳を輝かせながら笑う神子の視線の先には一人の男が居る。何時も無口だけど、するべき事はきっちりとやり遂げるだけの実力を持ち合わせた男。普段これ又決して見せることのない穏やかで何処か甘やかな光を灯した眼差しで神子の様子を見守っている。

 フイに少女は軽やかな風と共に舞い踊るかのように、手を広げて、頼久の廻りを蝶を追いかけて戯れ始めた。

 ―――あのように、普通の少女のようなあどけない表情…彼の元でなら……あのような微笑みが零れ落ちるのか。

 何故かなんて分からない。分からないけれど、その微笑ましい光景に、何故胸が痛むのだろう?





「頼久さんっ、頼久さんは手を出しちゃ駄目ですからねっ!!」

「……解りました。」

 息を切らせながら、きらきらとした笑みを零して可愛らしいことを言う神子に、頼久は微笑みながら頷いた。

 ふわり、ふわり

 蝶が飛び、神子の袖が風を受けて舞う。まるで神子そのものが美しい蝶のように。

 ふわり、ふわり

 上に下に、何故かその蝶は神子をからかうかのように遠くへ逃げることなく頼久の周囲を跳び続けている。

「あっ!」

「神子殿?!」

「だ、駄目!!動いちゃ駄目ですからねっっ!!」

「神子殿?どう成されたのです?」

 自分の背後に回った神子が小さな声を上げたので、刀の柄に手を掛けて振り返ろうとして遮られた。

「しー……動いたら駄目ですからね……」

 声を潜めるようにして言う神子が一生懸命気配を消すようにしながら近づいてくるのを感じる。全くなんて不思議な人だろう、と想わずにはいられない。当然素人の神子に気配が消せるはずもなく、逆に不自然な程の気配を醸し出していることなど気づきもしないのだろう。普段の怨霊との戦いに見せる強さとは正反対の幼さ。

 その可愛らしさに自然と笑みが零れ落ちる。

 足音を殺して、近づいてくる神子の気配に頼久は少しばかり首を傾げたが、別段危険が迫っているわけではないようなので言われるまま黙って立っていた。

 ―――トンッ

「えいっ」

 小さな衝撃と小さな声は同時に頼久に降りかかってきて、一瞬何が起こったのかと目を見開いた。

 背中に感じる小さな温もり。

「神、子殿?」

 一体自分はどうしたらいいのだろうと言葉が途切れる。決して触れることの叶わぬ筈の自分の主。ただ、側で見守ることさえ出来ればそれで良いと思っていた少女の。

 いつもとは違った、そう、神子としてではなく一人の普通の少女としての顔、そして温もりにふれて。

 心が震える―――

 ―――赦されるはずもない。

 グッと無意識のうちに握りしめられた拳。

「やったぁ!捕まえたぁー!!」

 嬉しそうな声がすぐ間近で聞こえて、神子の存在を余りにも近くに感じて、ドキンと胸が高鳴る。

「………」

 拳に更なる力が込められて、頼久は俯いた。

 そうでもしなければ後を振り向いて、神子を抱きしめてしまいそうだった。

 出来ることなら。

 この腕に抱きしめて。

 その輝くような微笑みを自分だけのものにしてしまいたいのにっ!

「ほら、頼久さんっ!見てください、捕まえましたよっっ!!綺麗な蝶々…」

 神子は自分の掌の中でパタパタと羽を羽ばたかせている蝶をうっとりと見つめた。

 背中に止まっていたのは蝶。

 背中に感じたのは愛しき蝶の温もり。

 決して自分のものにはならない残酷なほど美しく魅力的で愛しい蝶。

「頼久さん?どうか…しましたか?」

 黙り込んだままの頼久に神子が首を傾げながら覗き込んでくる。少し不安そうに揺れる眼差しに自分の心の内を殺して微笑んだ。

「いえ、何でもありません。捕まえられて宜しゅう御座いました。」

「頼久さん、お願いがあるんですが。」

「はい、なんでしょう?」

「手。出してくださいっ」

 応えた頼久にニコニコと笑顔に戻った神子が言う。

「手…ですか?」

 なんだろう?と想いながら差し出せば。

 一瞬。

 触れあう手と手。

「逃がさないでくださいねっ」

「えっ…いや、しかし……」

 蝶を追ったのは遠い記憶。捕まえたのも遠い記憶。幼い頃無邪気に追いかけ、自分では捕まえられずに捕まえて貰った蝶は何と大きく感じただろう。そして、今神子から手渡された蝶は掌の中ですっぽりと納まり、余りにも小さく感じられる。

 アツイ―――

「何かこういうの懐かしいなっ。私の住んでいるところではこういった蝶とかって余り居ないんですよ。居ても私の嫌いな虫ばかり。毛虫とか蛾とか蜘蛛とかゴキブリとかっっやになっちゃいます!」

 頬を膨らませるようにして言う。ころころと表情が変わる。まるで通り過ぎる風のように心の中をかき乱す―――

「ご、ごき…ぶり?」

「蝶々を追いかけたなんて…本当に小さい頃以来ですっ。京は本当に自然が豊かで、心まで豊かになりそうで、大好きです!」

「神子殿……」

「だからこそ…放っておけない。頑張って京を護りましょうね!!」

「微力ながらお手伝いさせていただきます。」

 応えれば、綺麗に微笑んでくれるから。

 ―――アツイッ

「蝶はこのまま館にもって帰られますか?」

「え?」

 一瞬触れた手の熱さから意識を逸らすように神子に問いかければ、少し考え込む風にした後、首を振った。

「頼久さん、手を…開いてください……」

「良いんですか?」

「はい。」

 そっと手を開けば。夕空にふわりと舞い上がる蝶。風と戯れ、風と共に飛びさっていく。

 急に何もなくなった手の内が寂しくて冷たく感じた。あれ程までに熱かったのに…。

 蝶を頼久の眼差しが苦しげに、愛おしそうに追いかける。

「武士である頼久さんに蝶を持たせたまま、館になんて帰れませんよ。それに……」

 ――何かあったら蝶が可哀想だし、いざと言う時は頼久さんには護って貰わなくちゃいけないですからっ

 くるりと一回転しながら、甘えるような口調で言う神子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「宜しくお願いしますねっ」

 元気良く頭を下げる。

「いえ、私の方こそ……」

 頭を下げられて、思わずそう言い掛けて、何を言っているのだと我に返って言葉を止めた。

「お任せ下さい。」

 二人佇んで。

 笑いあった。

 夕日の色に染められた幸せで寂しい記憶。何時までも頼久の心の中から消えることはなかった。





 その一部始終を見つめながら鷹通は動くことも出来ずに黙ったまま凝視していた。余りにも素直で真っ直ぐな神子の笑顔から目が離せない。

 彼女が神子。

 龍神の神子。

 自分達八葉が命に替えても護るべき存在。

 彼女が?

 あんな可愛らしい少女が?

 彼女が神子であり、自分が八葉であることはとっくに納得しているはずなのに。心の内で何かが叫んでいる。嫌だ、と。使命だとか役目だとか運命だとかそんなものでしか関わりがもてないのが寂しい、と。形になり始めた気持ちにハッと気付いて咄嗟にかぶりを振った。

 ハッキリとした形にしてはならない。

 苦しむだけだ。

 真実に気付いてはいけない。

 漠然とした警告が心の奥底で鳴り響き、鷹通の意識を支配する。

 彼女は龍神の神子。仕えるべき、護るべき存在。自分達を導き、京を救う大切な存在。彼女を龍神の神子として認め、敬愛する。でも、それだけ。それだけだ。それ以外の意味などない。あってはならない。それ以上の想いなどありはしないのだ。だけど………。

 コレは何だ?

 何故?

 どうして?

 答えなんて簡単な事なのに、認めたくなくてグルグルとその場に佇み、悩み続ける。自分の内にある二つの感情がせめぎ合う。

「一体私はどうしてしまったと言うのか……」

 鷹通は初めての理解できない自分の感情に翻弄されながら、胸に広がる苦しさを抱えて呟いた。




@01.10.15/01.10.16/