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『赤い目の雪兎-鷹通Ver-』


 雪化粧を施された美しい景色を見つめながらもその瞳が遠くを見ている。その事に本人は全く気付いても居ない。

「………。」

 今日何度目か本人の意識していないため息が零れ落ちてしまう。

 鷹通はさっさと自分の処理しなければならない仕事を消化してしまう為に視線を机の上に移動させた。

 それでも心は違うところを向いている。

 フルフルと首を振るが、戻ってこない。

「分かっては…居たのですが、ね。」

 微苦笑を浮かべて眼鏡を軽く押し上げた鷹通は少しだけ目を閉じた。

 一体何日顔を見ていないだろうか。

 どれ程声を聞いていないだろうか。

 あの肌に触れたのは一体何時の事だったか。

 心は自由に飛び去り、愛しい存在の元へと天を駆けてゆく。

「これ程まで、とは思いもしませんでしたよ、あかね。」

 呟いて鷹通は苦笑した。

 美しい雪の風景ではあるが、それも今の鷹通には恨めしく感じられる。

 年末になって仕事が忙しかった。それはある意味いつもの事。だが、その上に今年は大雪だった。余りにも酷い雪が積もればこの時代牛車は動かなくなる。

 当然歩行で行けばいいと言う事になるが、当然行動は制限される。

 仕事が忙しく、とてもではないが屋敷に籠もりっきりになる事が出来ない状況下では上司共々同僚や部下達が「帰らないでくださいよぉおうっっっっ」とそれはそれは今にも捨てられる事に怯えた子犬の如くに見つめてくるのだ。これでは流石に家に帰る事が出来ない。

 結果、心あらずの鷹通である為に、仕事の進捗状況は酷く悪い。それでも彼が居るのと居ないのとでは雲泥の差。まだマシなのだ、と周囲の者達は口を揃えて言う。

 とは言え、鷹通としてはいっそのこと全てを振り切ってでもあかねの元に帰りたくてたまらない。

「はぁ。」

 再びため息が零れ落ちた。





 遠く鳴き声が聞こえた。

 何の声だろう?

 余り聞き覚えのない声だ。

 人の……ものではないはず。

 首を傾げた鷹通は周囲を見渡して白い兎を見つけた。

 目を真っ赤にした兎は、フルフルと体を震わせて蹲っている。

「おや、どうしたんでしょう?」

 そうっと近づいても逃げる素振りを見せない。それどころか手を差し伸べればその手の温もりに縋り付くかの様に体をすり寄せてきた。

 抱き上げる。

「こんなに震えて。一体何があったんです?」

 思わず兎に問いかけながら鷹通は優しい笑みを浮かべた。

 ジッと見つめてくる赤い瞳。

 まるで。

 泣きはらしたかのような。

 その、瞳。

「………っっっ!」

 キュッと鷹通はその兎を抱きしめた。

「何故っ…!」

 抱きしめて切ない想いに鷹通は堅く目を瞑った。

 その兎にあかねの姿がだぶる。

 寂しそうに一人蹲る彼女。

 哀しそうに微笑む彼女。

 赤くなった瞳で見つめてくる彼女。

「あかねっ……」





 兎とあかねが重なって見える、変な夢を見たせいか、何時も以上に気合いの入っていない鷹通に急に声が掛けられた。

「鷹通。話がある。」

「…泰明殿。一体どうされたのです?」

 鬼達の一件も全て解決し、八葉としての役目は終わった。以来同じ元八葉であっても会う事は減っていた。

 実際泰明に鷹通が会うのは数週間ぶりだ。

「………来い。」

 一言、言ったっきり背を向けて歩いていってしまう泰明に仕方なく黙って後を付いていく。当然縋るような視線を向けてくる同僚達には「直ぐに戻りますから」と一言言い残した鷹通だった。

 内裏の端。殆ど外に出ていると言っても良い程の余り人気のないそこは雪に埋もれた綺麗な空間だった。

 木々に雪が積もり、日の光に少し溶けかかった雪が反射しては煌めいている。

 時折ポタポタと小さな音がするのは溶けた雫が雪に零れ落ちて居るからだろう。

 深い雪の中。

 この時期、しんと静まりかえったそこは、確かに人の居ないはずの場所でもあった。

「泰明殿?一体なんでしょう?」

 くるりと振り向いた泰明に少しばかり驚きながら鷹通は聞いた。

「気が乱れてる。」

「気…ですか?」

 未だに八葉の宝珠は自分の体の中にある。息づいている。

 だからあかねに何かがあればある程度は分かるし、今現在も霊力を使って怨霊などと対峙する事も出来る。かつてとは違ってかなり弱いものでしかないけれど。

 当然微かながら気の流れも感じる事が出来る。

 だが。

「私には分かりませんが…。」

「微かなものだ。」

「はぁ。」

 それが一体何なのか、と首を傾げる鷹通に泰明は自分が持っていた数珠を両手に持って引っ張った。

 ブチッと何かが切れるような音がして数珠が弾けて、白い雪の上に零れ落ちた。

「や、泰明殿?!」

 突然の行動に戸惑う鷹通を後目に、泰明は零れ落ちた数珠の玉を二つ取り上げるとそれを差し出した。

「この気の乱れは神子のものだ。神子の神気は影響力が強い。今は微弱な乱れだが放っておく訳にもいくまい。」

「え?あかね…がっっ!」

 急に話題があかねの事に及び鷹通は顔色を変えた。

 そもそもにしてあかねの気が乱れているのにそれに自分が気づけない、と言うその事実が鷹通には哀しく辛かった。

 当然陰陽師としての才能、実力などどれを持っても当代随一と称する事が出来る泰明に叶うはずがないのは百も承知だが、そう言った事を眼前に突きつけられると流石に鷹通としても切なさを隠しきれない。

「言ったはずだ。微かなものだ、と。自分を責める事など無意味だ。」

 それは冷たい突き放すような口調ではあるものの、確かに鷹通を気遣ってのものだと分かる。

「…そうですね。済みません。それよりも重要なのは、だから次にどうするか、と言う事でしたね。」

 そう前向きに言う鷹通に泰明はチラリとだけ唇に笑みを浮かべた。

 最近では大分表情が豊かになった泰明だ。

 笑みを浮かべると随分と幼く見えるのだ、と鷹通は思った。

「それでこの玉は一体?」

「……済まないが血をくれ。」

「私の、ですか?」

「そうだ。血は……ああ、説明はしないでおこう。」

「ええ、そうお願いします。」

 流石に鷹通といえども、陰陽師に関わる難しい事を説明されても理解するのに時間がかかる。そして今はあかねの事について話をしているのだ。

 どんな些細な事であっても、時間を無駄に費やしたくはない。何よりも泰明を信じている。彼の実力を。ならば彼の言うとおりにすれば一番最短にて問題が解決出来るはずなのだ。

 何故泰明が説明を止めたのかと言えば、一瞬チラリと鷹通の浮かべた焦るような表情に気付いたからだ。かなり珍しい事かも知れなかった。

「血はどれ程?」

「数滴もあればいい。この玉につける。」

 そう言う泰明に鷹通は懐剣を取り出すと左手に当てた。

 チラリと泰明を伺えば。

「何処でも構わぬ。」

 言われて、左の中指の腹でさっと引いた。

 赤い。

 血がプクリと流れ出した。

 それを玉に付ける。

 玉全体ではなく所々という感じではあるが二つの玉が赤く染まると泰明が満足そうに頷くと鷹通から受け取った。

 直ぐに泰明は口の中で小さく何か呪文を唱え始めた。暫くすると泰明の手の中の玉がふわりと光った。

 それは一瞬。

 そうして開かれた泰明の掌の中には深紅に塗れた美しい玉が二つ…乗っていた。

 綺麗な赤い珠へと変化したそれに鷹通は一瞬言葉を失ったが、それをどうするのか、と眼差しで訴えた。

「お前は仕事で帰れないのだろう?問題ない。渡しておく。」

「え?渡しておく…って………あかねにですか?」

「そうだ。女房にでも言付ければ済む事だろう?」

「それはそうですが…。」

 だったら最初から泰明が会いに行ってその乱れを正せば良いだけではないかと思った。

「出来ればこのことを説明する文を女房宛で書いてくれ。」

「はぁ。」

 頷いた。

 泰明を信じると決めたからだ。

 泰明が会いに行ってどうにもならないのだから、こうしているのだ、とそう信じるしかない。

「聞いても良いですか?」

「なんだ。」

「この玉を持っているとどうなるんです?」

「二人の気を繋げる。」

「あかねと私……の?」

「そうだ。」

 何も問題はない、と一人納得済みの泰明。

 ちょっと分かったような分からない鷹通。

 そんな鷹通に泰明がふわりと笑みを浮かべた。

「神子はお前に会いたくて寂しがっているようだからな。」

 それだけでいいのだ、と告げた。

 綺麗な綺麗な微笑みだった。

 そして思い出した。先日見た兎の夢。あの白い震えて泣いているように見えた兎にあかねの姿が重なった。

 きっと。

 あれはあかねの想い。

 きっとあかね自身。

 鷹通は今すぐにでも側に行きたいのに、行けないもどかしさを胸にグッと手を握りしめた。

「お願い、します。」

 そう言って泰明に頭を下げた。





 その夜夢を見た。

 先日見た夢に出てきたのと同じ白い兎。

 後を追いかければ愛しい人に出会えた。

 ―――夢。

 分かっていても彼女を抱きしめたいと願い、この腕に抱き寄せた。ふわりと香る彼女の匂いにクラリとなる。

 あかねの寂しそうな表情が変わり、嬉しそうに笑みを浮かべてその目に涙を浮かべていた。

 寂しかったと縋り付くあかねに白兎が重なる。

 涙を零してキュッと抱きついてくるあかねの細い腕が愛しい。

 愛しくて愛しくて。

 これはきっと昼間泰明が届けてくれた玉のお陰なのだろう。

 だが、そんな事よりも何よりも。

 自分と会えなくて寂しいと、辛かったと訴えてくれる事がなんて嬉しい。

 彼女の涙が自分の為だと思えば、彼女には泣いて欲しくないし、笑っていて欲しいのに、胸に愛しさがこみ上げてくる。

 あの二つの玉を通じて彼女が自分を望んでくれたから、今此処で会う事が出来た、そう信じられる。

 もし彼女が別のものを、誰かを望んでいたら、と思うとゾクリと背中を冷たいものが這う。

 確かに今あかねに触れて、彼女の神気が酷く不安定に揺れているのが分かる。

 抱きしめて。

 堪えきれない想いに名前を囁いて。

 その柔らかい唇に口づける。

 深く口づけて。

 自分の全てをあかねに注ぐように。

 流し込むかのように。

 想いを。

 力を。

 気を。

 あかねに全てを捧げて。

 同じようにあかねから自分へと流れ込む何かに体が熱くなる。

 ただただ、満たされた魂が寄り添いあう。

 いや、もとより二つに分かたれた魂が一つに重なり合って満たされる。

 そう言う事なのかも知れない。

 そうであればどれ程嬉しいだろうか、と鷹通は思った。





 朝の陽射しの眩しさに目を覚ました鷹通は自分の腕の中にあるべき温もりがない事に寂しさを感じた。

 ギュッと手を握りしめて、ついさっきまで感じていた温もりを懐かしむ。

「あかね……直ぐに…帰りますよ……。」

 夢の中の誓いそのままに、告げて起きあがった。

 と。

 ころころと布団の上に転がるのは二つの赤い珠。

 昨日泰明があかねに届けると言っていたそれ。

 同じ玉。

 だが、昨日とは違う、と鷹通は思った。

 もう、この玉に特別な力はない。

 不思議な輝きは失せている。

 だからこそ。

「ありがとうございました。」

 そうっと呟いた。それは今此処にいない仲間に向けられたもの。

 玉を手に取り、小さな袋に大切にしまい込む。

 きっと彼女はこれを見て驚くだろうから。そして喜んでくれるだろうから。

「さて、早く帰る為にも仕事をしてしまいましょうか。」

 にっこりと笑みを浮かべて鷹通は仕事場へと向かっていった。

 その日一日、今までとは比べものにならないくらいの早さで仕事は処理されていき、同僚達全員はその早さに付いていくのが精一杯と言う有様だった。

 翌日。

 不思議な事に全て終了した仕事を呆然と見つめて、治部省の同僚達は朝早くからヘロヘロな様子で座り込んでいた。

「…終わった…終わった…何故終わったんだ?」

「さぁ?…でも終わったんだよな?」

「ああ、終わった……。」

「………おかしいよなぁ??」

 どう考えても後数日は缶詰にならないと終わらないだろうと覚悟を決めていた仕事が、徹夜をしたと言うこともあるが、一切合切綺麗さっぱりと処理されていた。まるで怪談話か何かのように思える。今まで自分達以外のものが大勢居たんではないかと思う。

「では、みなさん。私はこれで失礼します。良いお年を。」

 そう言ってにこやかな笑みを浮かべて優雅に会釈をすると退出していった鷹通を全員が畏敬の眼差しで見つめた。

「元気だな。」

「…そうですね。」

「結婚ってそんなにいいのかな?」

「そうとは限らないと思いますけど。」

「そうそう。俺は家に帰りたくない。」

「羨ましいような、そうじゃないような。」

「……だけど。」

「どっちにしろ…。」

「……化け物だ……。」

 その場にいた全員がぼそりと呟いた後、力つきたようにその場に倒れ伏した。

 数刻後、久しぶりに鷹通に会いに来た友雅によって発見されるまで治部省は屍共が安らかなひとときを貪る異様な世界と化していた。



@02.01.20/02.01.23/