Novels



『赤い目の雪兎』


「あかね様、その様なところでは風邪を召されてしまわれますわ。どうぞ奥へお入り下さいませ。」

 おっとりとした声で、しかし余り反論の赦さないような優しい声が背後から聞こえて、あかねは振り向いた。

「ごめんなさい。」

「お謝りになどならないでくださいませ。もうそろそろ鷹通様も戻られるでしょうし、お風邪などひかれてはつまらないですわ。」

「……そう…ですね…」

 あかねは微かに笑みを浮かべて、背後に広がった青空を見上げた。

 晴れ渡った空は澄み切って、白い雲が柔らかく風に流されていく様が綺麗だと思う。

 つい先日まで数日雪が降り続けていた。

 それはそれで美しい光景でもあったのだが、やはり数日も続くと鬱屈としてきてしまう。

 特に現代で育ちで、家の中に籠もりきりな生活になれていないあかねには辛いものだった。

 その上、鷹通がいないのだから、あかねを慰めるものなど殆ど皆無に等しかった。

 年始年末を迎えて色々な宮中行事に追われて鷹通は忙しくここ数日の間天候が悪いせいもあり、家に戻ってきていなかった。

 愛妻家で通っている鷹通である。

 当然結婚して鷹通の家に迎えられてから、こんなに鷹通と逢わない日々を迎えたのはあかね自身も初めての事。

 やっぱり寂しくて。

 夜も一人布団の中で隣が妙に広く、冷たく感じてよく眠れないあかねだった。

 久しぶりに晴れて、外は陽光に煌めいている。

 一面、銀世界。

 誰も足を踏み入れていない庭には足跡もなく綺麗な真っ白い雪が一面を覆い、雪化粧を施している。

 なんだかその雪の上を歩いてみたい気がしてフラフラと外に向かって歩いていた所を女房に咎められたのだ。

 とは言えすぐ近くにまで雪が積もっている。

 風で吹き込んだのだろう。

 ぎゅ。

 ぎゅ、ぎゅ。きゅ。

 雪を掌でかき集めて、小さい丸い雪の玉を作った。

 なんだかもの寂しくて。

「ねぇ、何かコレくらいの小さな丸いもの二つと、ちょっと縦長の竹の葉の様なもの…ってありませんか?」

 指で1センチあるかどうかの大きさを示しながら、言うあかねに女房は暫し思案げにした後、「少々お待ち下さい」とにこやかに言うとその場から離れた。

 数分と待たずに彼女が持ってきてくれた赤い1センチあるかどうか程度の大きさの珠と青々とした5・6センチほどの長さの笹の葉だった。

「わぁ、ありがとう!」

「いえ、やはり鷹通様とあかね様は心が通じていらっしゃいますのですね。」

 少し楽しげに言う女房にあかねは首を傾げた。

「その赤い珠は、今朝程鷹通様からあかね様へと届けられたものでございます。」

「え?!これ…鷹通さんから…?」

「はい。お渡しするのが遅くなってしまい、申し訳ございません。」

 赤い珠は木を赤く塗り染めたものだった。

 磨き込まれているのか、やけに光沢があり、色も深みがあって綺麗な珠だった。

 じっと見つめてあかねはギュッとそれを握りしめた。

「もったいないけど…でも…可哀想…だよね…」

 只の雪玉にチラリと視線を投げて、あかねはしゃがみ込んだ。

 別になくなるわけでもないし。

 そう思ってあかねは雪の玉にそれを付けた。

「まぁ、雪兎ですわね…可愛いらしいこと。」

 背後から見ていた女房が言う。

 赤い目に緑の耳を持った兎。

 動くことも跳ねることも出来ない冷たい兎。

 雪兎。

「やっぱり…可哀想……だったかな。」

 ポツリと呟いたあかねの言葉は女房には聞こえなかった。





 外はすっかり夜の帳が落ち、よく晴れている為に星が空一面にちりばめられたかのように美しく輝いていた。

 一人。

 あかねは雪兎と共に夜空を見上げていたが、ため息を吐いた。

 ちょこんとお盆に乗っている雪兎をあかねは寂しそうに見つめた。

「鷹通さん…」

 つん、と雪兎を突いてみた。

 動く事もなくそこにある雪兎。

 ただ、あかねの指先に冷たい感触が残るだけ。

「赤い目の兎…か…」

 まるで自分のようであかねは哀しかった。

 寂しくて寂しくて、切なくて。

 恋しくて。

 何度涙を零しても側にいて欲しい温もりはなくて。

 泣き続けて目を真っ赤に腫らした雪兎。

「ごめんね。」

 雪兎にあかねは謝る。

 なんだか自分を重ねてしまい、その兎に申し訳ない事をしている気がしたからだ。

 兎になんてしなければ。

 そもそも自分が手にとって玉になんかしなければ。

 ”これ”は美しい雪のままでいられたのに。

 もう、戻る事も出来ない。

 目を赤くして。

 動く事も。

 跳ねる事も。

 走る事も封じられた雪兎。

 そして後は溶けて消えゆくだけ。

「ごめんね……」

 哀しげな笑みを浮かべてあかねは一人何度も呟いた。

 それでもその雪兎を外に捨てる事が出来ない。

 壊す事も出来ない。

 赤い目。

 鷹通に赤を連想させるものなんて何一つとしてないというのに。

 彼から貰った赤い珠。

 まるで鷹通がそこにいるかのようで。

 側にいて欲しくて。

 手放せない。

 縛り付けてしまう。

 それがエゴだったとしても。

「ごめんなさい……」

 それは誰に向けられた言葉だったのか。

 静かに夜は更けていくばかりだった。





 ぴょん。

 兎が跳ねる。

 真っ白い兎。

 あかねの方を振り向いては跳ねる。

「なんだろう?」

 その赤い瞳があかねを呼んでいるような気がしてあかねは兎の後を追った。

 ぴょん、ぴょん。

 時折振り返ってはヒクヒクと鼻を動かして、耳を揺らしている。

「ふふっ…かわいいっ…」

 真っ白で誰も通った足跡のない雪原を行く。

 気が付けば、兎を真っ白な雪原で見失ってひとりぼっちだった。

「あれ?」

 見あたらない兎にあかねは辺りを窺う。

「あかね。」

 ビクリ。

 よく見知った声にあかねは体を硬直させた。

 振り向きたいのに振り向けない。

「あかね?」

 大好きな人の呼ぶ声。

 ここ数日、聞きたくても聞く事の出来なかった声。

 震える手で自分の口元を押さえながらあかねは軋むような体を無理矢理声のした方へと向けた。

「あかね…あなたに逢えるなんて嬉しいですよ。」

 焦がれ続けた優しい眼差しがそこにある。

 腕にさっきまでの真っ白な兎を抱きしめた鷹通が立っている。

「ずっと…あなたに会いたかった……」

 切なげに瞳を細めながら、熱い眼差しの鷹通が一歩一歩あかねに近づいてくる。

 ぴょん、と兎が鷹通の腕から逃げ出したけれど、二人はお互いだけを見つめていた。

「鷹、通…さ、ん……」

「風邪など引かれてはいないですか?」

「鷹通、さんっ!」

 直ぐ側に鷹通がいる。

 あれ程求めた鷹通の笑顔、声、そして。

 温もり。

 そうっと鷹通の腕に抱きしめられてあかねはその暖かな胸に顔を埋めた。

「ぁ……」

 言葉が出なくて。

 服越しに感じられる鷹通の温もりが心地よい。

 そうっとその背に腕を回してあかねは鷹通の存在を確かめるように抱きしめた。

「寂し、かった…寂しかったの……鷹通さんがいなければ何も意味がないの。綺麗な雪も。綺麗な月も。綺麗な星も。全部全部。この世界全てが無意味なものになっちゃうの。私自身が消えてしまいそうな程寂しかった……」

「あかね……泣かないでください。寂しい想いをさせて済みません。もう直ぐにあなたの処へと帰る事が出来ますから。後もう少し…待っていてください。お願いしても良いですか?」

 ギュッと少し力の込められた腕があかねの華奢な体を抱きしめてきて、あかねはその苦しさすらもが愛おしくて、一粒だけ涙を零した。

 今、直ぐ側に鷹通の存在を感じて。

 心が満たされていく。

「あかね…」

 切なげに苦しげに鷹通の声が掠れてあかねの耳元をくすぐって、ゾクリと体を熱い感覚が走り抜けていく。

 すい、っと顎を持ち上げられて、鷹通の眼差しと交差する。

 優しい眼差しが熱い想いを秘めて見つめてくる。

 ドキドキと胸が高鳴り。

 幸せで、あかねも鷹通を見つめ返した。

 そうっと優しく口づけられて。

 何度も触れるだけの。

 口づけ。

 そしてあかねの唇をちろりと鷹通の舌が舐めると切なげにあかねは吐息を零した。

「んっ…」

 深く口づけられて。

 口内に入り込んだ舌に舌を絡め取られて強く吸われて。

 熱い想いのままに鷹通のそれに応えるように自ら絡めて。

 鷹通の首に腕を回したあかねを鷹通はグッと抱き寄せた。

 あかねは体が後ろに反り返ってしまう程きつく鷹通に抱きしめられ、深く口づけられて、息苦しいけれどもそれ以上の歓びに満たされていた。

 求めて。

 求められて。

 大好き。

 誰よりも、何よりも、この今自分を抱きしめてくれる、抱きしめている存在が。

 大切で、愛しい。

 長い口づけの後、少し乱れた吐息に熱く情欲に濡れた眼差しで見つめられて体が火照る。

「あかね…愛しています…あなただけ……」

 嬉しくて。

 そうっと、あかねは自分から触れるだけの口づけを鷹通に贈った。

 抱きしめられたまま。

 鷹通の手に頬を撫でられて。

「ああ、あなたの目が赤くなってしまっていますね。私の…せい、ですか?」

「………そう、ですっ…」

 少しだけ嬉しそうにはにかんだように囁く鷹通に潤んだ目元をそうっと撫でられて、あかねは微笑みと共に答えた。

「鷹通さんを想って、目が赤くなっちゃいました。」

 少しおどけた風に。

 悪戯っぽく告げる。

「まるで先程の兎そっくりですね。」

「責任取ってくださいね?」

「勿論です。」

 嬉しそうに鷹通はしっかりと頷いて。

 それから少しだけ切なそうに、苦しそうにあかねの頭を肩口に引き寄せて呟いた。

「もう二度と赤い目の兎になんてさせません。」

「はい…」

 鷹通の方に凭れ掛かって。

「あかね、あなたの側に早く帰りたい……」

「早く…帰ってきて…」

「待っていてください。帰り、ますから。」

「早くしてくださいね…じゃないと又…兎になって何処かへ行っちゃいますから。」

「ふふっ…そうしたら京中の兎を見つけて、あなたを捜し出して見せますよ。」

「鷹通さん…」

「あかね。」

再び一つに重なる影を少し離れたところから白い兎がちょこんと座って見ていた。





 朝の陽射しの眩しさにあかねは目を覚ました。

「………」

 何時も通り自分の部屋で、自分の寝床で。

 隣には誰もいなくて冷たいまま。

「夢。」

 呟いてあかねはそうっと髪をかき上げた。

 寂しい現実に心がつい先程まで幸せであったが故に打ちのめされそうになってしまう。

 でも、だからこそ耐える事が出来る、そうも思った。

 丁度その時、キラッと日の光が反射してあかねの目に入り、パッと手を翳した。

「え?……あっ……」

 眩しいその原因を見つけてあかねは哀しくなった。

 お盆に二枚の笹の葉が水に浮いている。

 そしてその水の中に僅かばかり残っている雪の塊。

 雪兎のなれの果て。

 あかねはそうっとお盆に手を伸ばして。

 ぽたり、と涙を零した。

 赤い珠がない。

 そう、鷹通から貰って雪兎の目としていた赤い珠がなくなっていた。

 周囲を探してみるが、近くには転がっていない。

 雪兎が動けるはずもなければ、実際お盆の上に水や竹の葉や雪の塊が残っているのだから同じようにあるはずなのに。

「兎………鷹通さん………」

 呟いて晴れ渡った明けの空を見上げた。

 幸せな夢をまるで雪兎が見せてくれたような気がして。

 無くなった赤い珠がその証のような気がして。

「赤い珠はなくなっちゃいましたから、もう兎にはなれません。だから鷹通さん、早く帰ってきてくれますよね……」

 あかねは微笑んだ。

 その翌日鷹通はやっと帰ってきた。

 そして。

「あかね、これを…あなたに……」

「これ、って……」

「お守りに持っていてください。」

「ありがとうっ!」

 鷹通があかねの掌に乗せたのは二粒の赤い珠。

 無くなった筈の兎の目。

「あなたに逢いに行きますから。」

「……はいっっ!」

 あかねは嬉しそうににっこりと微笑んで鷹通に抱きついた。

 一瞬驚いたのか、吃驚した鷹通は少しだけ頬を赤く染めて、キュッとあかねを抱きしめ返した。





兎、兎。

雪兎。

赤い目をした哀しい兎。

動く事も跳ねる事も出来ない兎。

ただただ泣いて目を赤くするばかり。

でもね。

泣いているのが伝わるの。

あの人に。

そしたら大好きな人が見つけて抱きしめてくれるから。

その度に目は赤くなくなって。





―――雪兎。





―――鷹通さんに伝えてくれてありがとう。








@01.12.07/