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『時を戻して』


 気が狂いそうだ

 いや、既に狂っているのかも知れない

 金色に輝く月の光を全身で浴びながらオスカーは一人聖殿を前に佇んだ。月光をキラリと弾く聖殿は美しく心を惑わせる。

「月の光が…狂わせる……」

 呟くと紫紺のマントを持ち上げ自分の体を抱きしめるようにして体を包み込み、月光から自分の存在を隠そうとする。

 苦しげな眼差しを一度聖殿へと向けるとオスカーは踵を返して背を向けた。

 月の光から逃げるように。

 聖殿から逃げるように。

 狂おしいほどの切なさから逃げるように。

 歩き出した。

 触れることも叶わない。

 語り合うことも叶わない。

 大丈夫だと思っていた。

 自分自身の”強さ”を過信していた。

 共に在ることが出来るなら、それで抑えられると信じていた。

 愚かしいほどの過ち。

 その名を呼ぶことも叶わない。

 ギリッと胸を軋ませる痛みにオスカーは目を伏せた。

 至高の存在へと変わってしまった愛しい少女。

 ふとしたときに流れてくる視線。眼差し。優しく穏やかで美しい。以前と変わりなく、いや、以前より遥かに深く艶やかな眼差し。あの深緑を思わせる美しい瞳が自分の方を向いた時体が熱くなる。もっとと欲しくなる。常に自分だけをその瞳に写して、自分だけを見つめて自分だけのものとしてしまいたい。

 陽の光を存分に含んだかのように輝く金の髪。指に絡めてその柔らかい感触を感じたい。唇を押しつけてみたい。

 白磁の肌にふんわりと優しさを灯したような桜色のすべらかな頬に触れたい。そして可愛らしい唇。その甘やかな唇に触れたなら、どれ程甘美でだろうか。

 その奥の密やかに熱を持った小さな舌を絡めて、強く吸い上げたならば…。

 ゾクリ、と体を駆け抜ける感覚にオスカーは身震いした。


「フッ…馬鹿で馬鹿でどうしようもない。」

 自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。

 自分が選んだ道だ。この現在の状況は他の誰でもない自分が選んだ”現在”だ。そして覆しようがないのも事実。

 時が。

 戻るならば。

 もし、あの頃に戻れるならば。

 自分は決して同じ”時間”を選んだりはしないだろう。

 たとえ、罪人としての責め苦を受けようと弾劾されようと、何をされようと。

 この腕にあの愛しくて堪らない存在を抱きしめ、只自分だけのものとして独占する事が出来るならば何も要らない。

 何もかもを棄ててみせよう。

 だが。

 時が戻るはずもない。

 繰り返される日常。

 繰り返される虚構。

 繰り返される狂気。

 本当に自分が望んだものは。

 二度と手に入らない………。





「ねぇ、ロザリア…」

「駄目ですわ。」

「……まだ何も言ってないのに。」

 拗ねるようにしてみせるアンジェリークにロザリアは苦笑を浮かべた。

「それでも、ですわ。」

「意地悪。」

 ロザリアは静かな笑みを浮かべた。

 共に女王候補として一緒に試験を受けた。いつの間にか自分自身も彼女の優しさに、強さに、心を救われていた。だからこそ、自分が女王になれなかったその時、補佐官としての地位を望んだ。彼女が女王であることに素直に受け止め、尚かつ彼女を護っていきたい、そう思えたから。

 だが、彼女は憂いを秘めた微笑みで笑い続けるのだ。自分がいかに側に居ようと、護ろうと、真実心からの笑みを引き出すことが出来ない。

 候補生の頃、二人して夜通し語り明かしたことがある。

 お互いに心を惹かれて止まない守護聖について、である。

 ああでもない、こうでもない、と恋を赦されないはずの少女二人は、夢見るような幸福の中で語り合った。

 しかし、時は容赦なく流れ、女王としての責務を背負わされた。もう”少女”としての甘い夢を見ることも赦されない。

 アンジェリークの気持ちは分かっていたから。だからロザリアはホウッと溜息をつくとツイッと顔を反らせながら言った。微笑んでいて欲しい。昔のように心からの笑みをもう一度見たい。

「それで?何ですの?」

 ロザリアの素直でない優しさにアンジェリークは笑みを深くした。

「あのね、もうそろそろ誕生日…なの。彼、の。だから…何か贈り物をしたいの。」

「贈り物…ですか?」

「ええ、それでね。前日にロザリアの部屋に私を泊めてくれない?」

「…………贈り物と外泊と何の関係について事細かに私に説明して頂けるっ?!」

 ピクリ、と眉を上げてお怒りモードのロザリアにアンジェリークは体を縮めた。

 相手はあの男なのだ。

 外泊?

 とてもではないが許可なんて出せない。

「そ、そうじゃなくて……あの人の誕生日の日に、女王としてではなく、女王候補であったアンジェリーク・リモージュとして。只の女としてあの人の側に居たいだけ。それがあの人に取って何の贈り物になるのか、と言われれば凄く…その…困るんだけど…。一日だけでいいから”昔の私”をあの人の側に……」

 そう言って頬をうっすらとバラ色に染めて俯いたアンジェリークは何と儚げで美しい事だろう。

 ロザリアは仕方がないとでも言いたげな大げさなため息を吐いて見せた。

「……喜んでくれるかしら……」

 ポソッと漏らしたアンジェリークにロザリアはプッと吹き出しそうになって堪えた。

 喜ぶも何も、きっと「帰したくない」と最後まで駄々をこねるのが手に取るように解る。

 女王が決定する直前まで仲の良かったオスカーとアンジェリークの二人。周囲の者はみんなアンジェリークは女王の座を断るのではないか、と思っていた。なのに、その決定を従容として受け入れたアンジェリークに、ひいてはその男にみんな驚いた。

 結局。

 不真面目なんだか真面目なんだか解らない男は、本質的には真実、真面目だったらしい。

 ロザリアはそう見ていた。流石に最近煮詰まっているらしい彼を見ていたこともあり「ああ、私ってば本当にこの子には甘くなってしまいますわ」と内心苦笑を浮かべた。

「当たり前じゃないの。仕方がないわね、もう。」

 何馬鹿なこと言ってるの、と呆れたような口調で言うロザリアにアンジェリークは淡く微笑んだ。

「前日私と一緒に聖殿を出て、私の家に泊まる。それは解ったわ。何とかしてみせるわ。でも、条件があるの。これだけは譲れないわ。」

「有り難う、ロザリア!それで…条件ってなに?」

 ごくり、と喉をならすようにして食い入るように見つめてくるアンジェリークにロザリアは胸を張るようにしていった。

「必ず夜、戻ってくること。いい?」

「………解ったわ。」

 アンジェリークはその意味を理解して、少し目を見開いてから、「そんな心配する必要ないのに」と深い笑みを浮かべて何度も嬉しそうに頷いた。

「ロザリア…大好きよっ!」

 そう言ってアンジェリークはロザリアに抱きついた。

「ちょ、ちょっと!」

 久しぶりに見たアンジェリークの嬉しそうな笑顔にロザリアは内心歓びながらも、驚いて戸惑って見せた。相変わらず素直になれないそんな自分にロザリアは軽く苦笑いを浮かべた。





「オスカー様。お客様で御座いますが。」

「ん?」

 執事の言葉にオスカーは少しばかり首を傾げた。特に誰かが訪ねてくる約束もしていない。大体、今日は土の曜日でも日の曜日でもない。普通の日であり、みんな執務中であるはずだった。自分だけがのけ者にされたように思いながら、仕方なく、一日ゆっくり家の中でくつろごうかと思っていた所だった。そのあらましを思い出してオスカーは更に眉を顰めた。

 先日補佐官であるロザリアに呼び出された。

「オスカー。あなたに贈り物をあげますわ。なんだか…無性に悔しいんですけれど。」

「はぁ。」

 全くロザリアの言っている意味が分からなくて相づちを打つようにして首を傾げた。嫌ならやめればいいじゃないか、と正直思ってしまうが、決して口には出さない。

「今度の金の曜日はあなたの誕生日でしたわね。休暇を、と思いまして。」

 たったそれだけの事に”悔しい”と言う彼女に内心こみ上げてくる笑いを必死で堪えてすました顔で答える。仕事が忙しいわけでもない。かといって暇なわけでもない。だが、どんなに苦しくとも此処に居たいと思うのも事実。この聖殿…に。可能な限り近くに。

「……有り難う御座います。しかし、私だけが休みを頂くなど…」

「いいから!あなたは休みさい!いい?家の中でゆっくりするのよ。言っておきますけど、一歩たりとも外に出たりしたら赦しませんからね!!!」

「…………………………はい……」

 なんだか解らないが、ロザリアのその気迫に炎の守護聖ともあろうものが負けて頷いてしまった。

 ロザリアが何かを考えているのは解っていた。彼女ほどのものが何もなく、こんな訳も分からない行動に出るはずがない。

 一歩も外に出るなと言っていた。ならば、客とはロザリアだろうか?一体?

 一つため息を吐いてから腰を上げると自ら客を迎えに玄関へと向かうことにした。

 カチャッ

 扉を開けて。

 金色の穏やかな朝の陽射しが射し込んでくる。その眩しさに目を細めようとしてそれが勘違いであることに気付いて目を大きく見開いた。

「お早う御座います、オスカー様!」

 ニコニコと満面の笑みを浮かべて目の前に立っているのは、片時も忘れることが出来ず求め続けた愛しい存在。

 金の陽射しと思ったのは、彼女の眩いばかりの金の髪か、それとも笑顔だったのか。

 驚きを通り越して唖然とした風のオスカーにアンジェリークは悪戯っぽく笑いかけた。

「オスカー様、誕生日おめでとう御座います。それで来たんです。」

「へ……陛…」

「あ!」

 アンジェリークが慌ててオスカーの口にその繊細な指を当てて言葉を抑えた。

「ふふっ…今日の私は違うんですよ。只のアンジェリーク・リモージュ。サクリアも何もかも関係ない只一人の人間。昔のようにあなたの側に居たいだけの。」

 唇に触れている指の感触に、囁かれる言葉にオスカーはクラクラとした。

 今このままこの指を口に含んで舌を絡ませればどれ程目の前の愛しい少女は艶やかに頬を染めるだろう。

 すぐ側に感じるこの存在をこの腕に抱きしめて、口づければどれ程自分を狂わせるだろう。

「一日。側にいてもいい…ですか?」

 少し緊張した面もちで、儚げに笑みを浮かべる少女はそうっとオスカーから手をはなした。

 遠ざかっていくその指先を思わず捕らえた。

「アンジェリーク…」

 零れた言葉は掠れた低い声だった。

「振られておいて、なんて諦めが悪いって…きゃっ!」

 俯いたまま放していたアンジェリークが小さく驚きの声を上げるのと、オスカーがギュッと引き寄せて抱きしめるのとは同時だった。

 その金色の髪に顔を埋めて、熱い声で何度も名前を呼ぶ。

「アンジェリーク。アンジェリーク。アンジェリーク。」

 今、名前を呼ぶ事が赦されると言うのなら。触れる事が叶うと言うのなら。

「オスカー…様…」

 ギュッと背中に回された細い腕。柔らかいその感触が溜まらなく愛しい。

 好きだと、一緒にいたいと、告げてくれたアンジェリークに自分も同じ想いだと告げておきながら彼女を拒絶したのは自分。

 喩え常に一緒に居られなくても、同じこの聖地で同じ時を過ごせる、それで俺には充分だ、とか綺麗事を並べたのは自分。

 そんな自分を受け入れて尚、前向きで優しく見守るようにしてオスカーを見つめ続けてくれたアンジェリークに愛おしさが隠しきれない。

 抑えきれない。

「オスカー様。」

「……お嬢ちゃん、今日一日、君の時間は俺のもの…と言うことでいいんだな?」

 暫しの時を置いて、いつもの表情でそう告げた。

 ロザリアからこの日に休暇をくれる、といわれたと言うことはこのことは補佐官の承認済と言うことだ。ならば遠慮も要らない。いや、遠慮なんてクソ食らえだ。

 二度と離したくない愛しい少女を抱きしめて、その頬にキスを贈る。

「お嬢ちゃん?」

 頬を染めて、嬉しそうだけれど、涙を浮かべたアンジェリークにオスカーはオロオロと狼狽える内心を隠して、その美しい翡翠の瞳を覗き込んだ。

 何処までも吸い込まれそうなほど美しい輝きの中に自分の姿が見えて、胸が熱くなる。今この時が永遠に止まってしまえばいい。

「…”お嬢ちゃん”…昔は子供扱いされているようで凄く嫌だったんですけど…懐かしい。なんだかとっても嬉しいんです。本当に時が戻ったかのようで。」

 にっこりと微笑んだアンジェリークの頬を涙が一粒流れ落ちて、オスカーはそれを拭うように唇を寄せた。

 そのまま唇を移動させるようにして、甘く誘って止まない桜色の唇に触れるだけのキスをした。少し顔を離して見れば、さっき以上に顔を真っ赤に染めて、驚いているアンジェリークに深い笑みを零した。

「いつでも、幾らでもそう呼んでやる。もう、我慢なんかしない。抑えることなんか出来やしない。」

「えっ?」

「しぃ。」

 小さく秘め事を語るように瞳を甘く輝かせて耳元に囁いて。

 再びキスをする。何度も何度も触れるだけのキス。痺れたような頭の中でゆっくりと力が抜けてもたれかかってくるアンジェリークの体の重みを感じながら、ゆるんだ唇の隙間から舌を差し入れて深く激しく想いをぶつけるようなキスをする。

「アンジェ…アンジェ…」

「ふっ…んっっ。オス…カー…んっ」

 甘い吐息が狂おしく全てのものを掻き消してしまう。

「…っは、ぁん…」

 長い口づけから解放されたアンジェリークが吐息を吐いて、ハッとしたように顔を赤く染め上げて俯いた。

 彼女の視線が背後に向けられていたことに気付いて、抱きしめた腕は決して放さないまま後をチラリと振り向けば、執事他数人があっけに取られたようにしてこっちを見ていた。

 こんな余裕のない素振りの主を初めてみるから。彼らは純粋に驚いた。そして、確かあの金髪の少女は以前にも来たことがある、と過去の記憶を思い出していた。

 が。

 オスカーのアイスブルーの瞳がクッと細められて、黙っていろ、若しくは見なかったことにしろ、と言外に告げられて彼らは慌てて視線を逸らすとその場から去っていった。

 使用人達が姿を消すのを確認してから、腕の中でギュッとオスカーの服を握りしめたまま俯いているアンジェリークを見つめた。

 可愛くて可愛くて、どうしようもない。

 プレイボーイでならしたこの自分が。

 この少女の前では、全てがいとも容易く彼女の愛しさに支配されてしまう。

「お嬢ちゃん、取りあえず此処じゃなんだ。部屋へ行こうか?」

「…はい。」

 チロリと。恥ずかしさで涙目になった瞳で見上げながら頷く彼女にオスカーは再び抑えきれずに頬に触れるだけのキスを贈った。

「オ、オスカー様っ!」

「はははっ」

 グイッと腕を伸ばして、オスカーの体を遠ざけようとするアンジェリークを逆に更に力を込めて抱き寄せて。

 今日一日と言う短い時間をこの愛しい少女と有効に過ごす為に、邪魔な存在である使用人達を何とかしないと…と考えていたオスカーだった。





「アンジェリーク!!オスカー!!」

「あっ!」

「……気にするな。」

「で、でもっ…」

 ドンドン、と部屋の扉を叩く音と親友の呼び声を聞きながらオロオロとするアンジェリークを腕に抱きしめたままオスカーは婉然と微笑んだ。

「約束、だし、帰らないとっ!」

「何処に?此処以外の何処に帰るんだ?ん?」

「…だって…」

「だっては無し。」

「でも…」

「でもも無し。」

「…むぅ。」

 扉の向こうでは怒り心頭のロザリアの声が響いている。何を言っても「無し」と言われてどうして良いか解らなくなって拗ねたようにしたアンジェリークにオスカーは笑った。

「ははっ。むぅ、も無し。」

「馬鹿。」

「そう。馬鹿。プレイボーイを返上して、今度は宇宙一の馬鹿なんだ。」

「…馬鹿っ…」

 顔を染めたアンジェリークにオスカーは再びキスをした。

「こら!万年発情男!!!いい加減にアンジェリークを返しなさぁあああああああいっっっっっっ!!!」

 ロザリアの叫び声をBGMにオスカーは愛しい女神を腕に抱きしめたまま、「万年発情…随分な言われ様だが、それもこれもアンジェにだけ限定すれば当たっているな」と勝利の笑顔を浮かべていた。

 この幸せな時間が後僅かなだけのものであると解っていたけれど。



@01.12.21/