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『目を閉じても』


 初めて声を聞いた時に驚いた。

 あまりのギャップに頭がくらくらする程衝撃的で。

 余りにも驚いたから、じっと凝視しすぎて、からかわれた。


「どうした、お嬢ちゃん。そんなにジッと見つめる程、俺はいい男か?」


 自信たっぷり。答えなんてそれが当然と微塵も疑いを抱いていない余裕の声。

「はぁ?」

 あんまりにも予想外で違和感のありすぎる台詞に、思わず何を言われたのか瞬間理解できなくて、間抜けな声が出てしまった。

「ふっ…お嬢ちゃんにはまだ大人の男の魅力は解らないかな?」

 直ぐさま、ちょっとだけ苦笑を浮かべたオスカー様に慌てた。

「あ、あのっ…違う、んです!そうじゃなくてっっ」

 余りにも焦って上手く説明できないで居るうちに、さっさとオスカー様に違う話へと切り替えられてしまった。


 それが一番最初だった。

 お世辞にも良いとは言えないその出会い。

 でも、私は良くオスカー様の執務室を訪ねた。

 育成を頼むのも、お話をするのも楽しかった。他の誰の執務室に行くよりも。

 扉をノックして、開ければ、「よぉ、お嬢ちゃん。俺も会いたかったぜ」と気障な台詞を言うオスカー様がほんの少しの違和感を内包していたとしても、大好きだった。



「お嬢ちゃん、どうだい、最近は大分慣れてきたようじゃないか。」

「最近調子がいいみたいだな。」

「どうした?そんな顔はお嬢ちゃんに似合わないぜ?」

「フッ…ふくれっ面してどうしたんだ?思わず食べちまいたい程可愛いほっぺただな?」

 その時折によって変わるオスカー様の言葉。

 でも、変わらない声。

 大好き。

 だから、何時も目を瞑る。

 私は何時もオスカー様がお話して下さっている時は目を瞑ってしまう。

 目を瞑って声を聞く。

 そうすれば。

 そうしていれば。

 声を聞いていれば。


 大好きで、もしかしたら二度と会えないかも知れないお父さんが側に居てくれるような気になれたから。

 お父さんと同じ声のオスカー様。

 すっごく格好良くて。お父さんなんかとは全然違う。解ってる。お父さんなんかと一緒にしたら駄目なんだって。失礼だって。

 でも、本当にそっくりでそっくりで。声だけ聞いていればそこにお父さんが居るような気がしてしまう。

 オスカー様に会いに行く。

 オスカー様の所へ。


 だけど………。


「お嬢ちゃん。男の前でそんな風に目を閉じるもんじゃないぜ。」

「え?」

 一瞬、その意味が分からなくて声を上げたけれど、その後の言葉は続かなかった。

 それは、オスカー様の顔がすぐ側にあったから。吐息すら触れ合えるほどすぐ近くに………。

「ほら、隙だらけだ。お嬢ちゃんは可愛いんだから、そんなことだと危険だぜ?」

 そう言われても、眼前に迫ったアイスブルーの瞳に吸い込まれて視線を逸らすことも出来なければ、息をする事も出来ない。逃げるとか考えつかなくて、体が硬直して。

 ただ、赤面する事くらいしか出来ない。

 目を逸らせないから、思わずギュッと目を瞑ってしまって。

「お嬢ちゃん。」

 ちょっぴり呆れたような、戸惑うような声が聞こえて。

 やっぱり、お父さんの声。

 そう、思えた。





 最初の出会いは最悪…とまでは言わないまでも、余り良いものではなかった。

 やはり、多かれ少なかれ俺を初めてみた奴は似たり寄ったりの反応をする。特に女なら尚更だ。頬を染めてうっとりと見上げてくる、なんて言うのは。

 だが、アンジェリークは違った。

 少し不思議そうな表情でジッと見つめてきて。でも、心底嬉しそうに、何か安心でもしたかという様な、微笑みを浮かべた。「もう大丈夫だ」とそう囁きながら抱きしめてやりたくなってしまう様な表情だ。

 少し嬉しくなって、ちょっとからかえば、妙な反応が返ってきて、所詮は子供だから俺の魅力がわからないのさ、とか言い訳をしてみたりした。

 それ程、一番最初のイメージはちぐはぐした妙なものだった。

 それでもアンジェリークは良く俺の執務室を訪ねてきた。育成を、お話を、とやってくる。外で会えば手を振ってくる。それも全開の笑顔で、だ。

 元々アンジェリークは何時も弾けるような笑顔をしている。誰もがその彼女に好意を抱いた。だが、他の守護聖達の誰にも向けないような安心しきった顔や、輝くほど愛らしい笑顔。そんなものばかり自分にだけ向けられれば嫌でも意識しちまう。

 自分への好意と言う奴をだ。

 慰めたり、からかったり。

 その度に返ってくる純粋で真っ直ぐな反応も俺としては好きだった。

 そう、好き…だった。

 一体何時の間に俺の胸の中に金色の天使は住み着いたんだろう。

 自分に向けられる好意になんて、嫌な言い方だが慣れている。そんなこと位で”自分”が左右されることなんてあり得ない。そんな脆弱な精神は持ち合わせちゃ居ない。

 だのに。

 気付けば、アンジェリークを目で追っていた。

 金色の輝きを見つければ何よりも先ず最初に意識が向いた。

 一度ジュリアス様の髪を見て、彼女と間違えた時には流石に重症だ、と自分で笑った程だ。

 そしてふと気付いた。

 彼女が目を瞑っていることに。

 目を?

 何故??

 一度気付けば、彼女がかなりの回数で目を瞑っていることが解った。

 最初、目が痛いとか疲れているとか、そう言う理由かと思ったが、どうもそうではないらしい。

 ただ、度々無防備に曝されるその表情に胸が軋んだ。

 他の奴の前でも同じようにしているのか?

 自分でも信じられない程の胸苦しさに驚いた。

 グルグルと渦巻く嫉妬の感情に。自分の今まで経験したこともないような独占欲に。

 何故目を閉じるんだ?

 閉じてジッと俺の話を聞いてくる。疎かにされている風には感じられない。

 逆にそれこそ一生懸命、と言う風に感じられる。一言一句聞き逃すまいと必死な様に。

 柔らかそうな金の巻き毛。

 懐かしい大地、草原を思い起こさせる緑の瞳。

 すべらかであろう桃の如き頬。

 愛らしい桜色で魅惑的な唇。

 何時だって理性は触れてみたいと言う欲望と戦っていた。

 眼前で無防備に曝される表情。

 手を伸ばせばそれだけでこの手にすることの出来る甘い果実。



 どれ程…甘いだろう?





 そして今、眼前にアンジェリークの顔がある。

 声を掛ければ一度目を開けたものの、瞬間固まった後、ギュッと目を瞑られた。

 一瞬あの翠の瞳の中に自分がいた。吸い込まれそうな程綺麗な瞳。

 情けないことに。

 その時。

 頭の中は真っ白だった。


 触れた唇。

 思った通りの柔らかな感触。

 心が。

 歓びに震えた。

 だが、次の瞬間。


 驚愕に見開かれたアンジェリークの眼差しが心を切り裂いた。





「な…に…を……」

「お嬢ちゃん…」

 掠れた声しかでない。

 涙を溢れさせたアンジェリークに、どうして良いか解らなくなってオスカーは優しく指先で払った。

「泣かないでくれ…………アンジェリーク……」

 最後に囁きかけた名前はアンジェリークには聞こえていたのかどうか。

 頬に再度触れてきた熱い感触にビクリと体が反応した。

 咄嗟に腕でオスカーの体を押しのけた。

 一歩離れた所にあるアイスブルーの瞳。美しく惹き付けられる。

 違う。

 違う。

 お父さんじゃない。

 違う。

 そんなことは最初から解っていたはずだった。オスカーは父ではない。解っていたけれど、何時だって優しかったオスカーにアンジェリークはすっかり甘えていた。

 頼りがいがあって、優しくて。

 何かあればまるで本当の父親同然に優しく慰め、厳しく叱咤し、支えてくれた。

 大好き、だった。



 今目の前で、哀しげに揺れるアイスブルーの眼差し。

 何時だって真っ直ぐ前をみて、ともすれば切られるのではと思う程強い眼差し。

 父親とは違う眼差し。

 解っていたから今まで余り目を合わせなかった。

 だから………。

 知らなかった。

 こんなに綺麗な目をしていたなんて。

 この人は誰?

 今目の前で傷ついた顔の男の人は??



「ご、ごめんなさいっっ私っ……失礼します!!!」

 何がなんだか解らなくなってアンジェリークは挨拶もそこそこにオスカーの執務室から飛び出した。

 背後からオスカーの声が聞こえた気がするけれど、何を言っていたのかは解らなかった。





 あれから数日経った日の曜日。

 結局あの後アンジェリークはオスカーに会いに行けなかった。そしてオスカーからも会いには来なかった。

 こんなにもオスカーに会わない日々が続くのはこの飛空都市に来て以来初めてのことだ。

 アンジェリークは何故オスカーがあんな事をしたのか理解できない。

 オスカーに隙だらけだ、と言われた。それをオスカーは実践して見せただけなんだろうか?

 ちょっとした警告のつもりで?

 じゃぁ、何故あんなにも傷ついた眼差しをしていたんだろうか。

 どうしてあんな事をされたのにオスカーを憎めないのか解らない。

 驚いた。心底驚いた。でも、嫌だとは思えなかった。

 それは何故なのか?

 ぐちゃちゃとした頭は何一つ整理できずにいる。グルグル同じ事ばっかり考えていたりする。

 そして、一人で何をする気にもなれずにアンジェリークはボーっとしていた。

 ただ、無性に腹が立つ程天気のいい青い空を見上げていた。

 青い、青い空。

 晴れ渡った空は、スカイブルー。もう少し色が白っぽければアイスブルー。

 懐かしく感じた。

 自分が元々住んでいた所は町中でそれなりに空気が汚れていた。だから綺麗な”青い空”なんて知らない。天気がどんなに良くても何処か白っぽくなったアイスブルーの空。

 でも、この飛空都市の空は綺麗な綺麗な青の空。

 あの空が見たい、と思った。

 白っぽくなったあの空が。

 それが何故か、なんてアンジェリークは考えても居なかったけれど。

 コンコン。

 ノックされた音にアンジェリークは気付いていたものの、敢えて返事をしなかった。

 今日は誰かと一緒に出かける気分でも、話をする気分でもない。

 ここ数日様子のおかしかったアンジェリークを心配してロザリアが何度か部屋を訪ねてきていたが、その彼女にすら真実は言っていなかった。

 そして、今訪ねてきているのが彼女であっても動く気はなかった。

 だが。

「お嬢ちゃん…出かけているのか?それとも……」

 聞こえてきた声は。

 懐かしい声。

 そして切ない声。

 瞬間、心臓が弾けるかと思った。キュッと軋んだ気がした。

 その声の持ち主の姿を隠している扉を振り返った。

 姿は見えない。声だけが聞こえる。そう、目を閉じている時と同じ。だけど、だけど、だけどっ…!

「この間は…君の気持ちを無視して済まなかった。ただ…」

 苦渋に満ちた声。

 懐かしいのに知らない。

 誰の声?

 誰、の??


 そのまま無言の時が続き、暫くして漸く体が動いた。ぎしぎしと音を立てそうなほど重かった。

 そうっと扉を開いたがそこには誰もいなくて、ガランとした空間だけが寂しく広がっていて。

『よぉ、お嬢ちゃん。今日も元気そうだな』

 一瞬、にこやかに微笑むオスカーが見えた気がした。

「あっ…」

 そのまま扉に手を当ててズルズルと座り込んだ。

「オス、カー…様……」

 ポロリと零れ落ちた涙にアンジェリークは驚いた。

 何故こんなに寂しいと思って居るんだろう。胸が痛いんだろう。

 ああ、きっとお父さんをまた喪ったからだ。

 もう二度とオスカー様の声をお父さんの声とは思えないもの。

 そう。

 思いつつ。


 声が聞こえる。

『お嬢ちゃん?』

『会いに来てくれて嬉しいぜ』

『頑張るのはいいが、無理はいけないな』

 オスカーの声。

 炎の守護聖であり、武人であり、気障で、格好良くて、優しくて。

 そんな。

 オスカーの声が聞こえる。

 なんでオスカーの声が聞こえるんだろう?

 どうして??

 お父さんの声って一体どんな声だったかしら?

 同じ、だったはず…なのに???

 アンジェリークは愕然とした。

 思い出そうとする父の声が全てオスカーの声になってしまうからだ。

 母の声は思い出すことが出来る。なのに何故父の声だけが?!

『……アンジェリーク……』

 ビクリ。

 体が揺れた。

 オスカーに名前を呼ばれたことはない筈。その筈なのに。

 オスカーだと解る。

 この声はオスカーの声。

 アンジェリークはぽろぽろと涙を零し始めた。

「ふっ…う…ううっ…えっええっ…」

 何度も何度も涙を拭っては溢れてくる涙を拭い続けた。

 唇を噛み締めて、大声を上げたいのを堪えた。

 何故、寂しいのか。何故こんなにも胸が痛いのか。切ないのか。

 何故、オスカーの声なのか。





 その時声が聞こえた。

『アンジェリーク』

『アンジェリーク』

 同じ声。

 同じ声なのに違う。

 何故か解った。

「お……父さんにオスカー様?」

 違う、とハッキリ解る。

 自分を必死に呼ぶ父の声。そのあまりの強い呼びかけにアンジェリークの意識はそちらの方へと向かった。

 もう一つのオスカーの切ない呼びかけを振り切るようにして……。


 ふと、視界が真っ白に弾けて。

 気付けば懐かしい我が家の風景。

 心が馴染む。

 帰ってきたんだ、と。

 しかし、眼前の光景にアンジェリークは目を見開いた。

「お父さん!!」

 目の前のベッドにやせ細り青白い顔色をした父の姿を見つけたからだ。

「お父さん!!!」

 呼びかけても相手は一切無反応で、やっとアンジェリークは自分がそこに実際には存在しない”魂”なのだと気付いた。

 ふわふわと宙に浮いているかのように意識だけが漂っている。

「アン…ジェ、リーク……」

 微かに呟かれた父の声。

 ああ、確かに父の声だ、とアンジェリークは思った。紛れもなく父の声だ。何故先程まで忘れてしまっていたりしたんだろう。生まれた時からずっと呼ばれ続けていた声だと言うのに。

 そして遥か遠くからもう一つの声も聞こえてくる。

 胸が苦しくなる程切なげな響きの声。

 何故かハッキリと区別がつく。もう二度と二つの声を間違えることはない。そう、アンジェリークは感じていた。

「お父さん…」

 余りにも自分の知っている元気だった父親の姿とかけ離れてしまった、眠りにつく父の姿に胸を打たれた。

 何度も何度も、アンジェリークを呼んでいる。今までもずっとこうやって呼びかけてくれていたのだろう。一人聖地へと旅だった愛娘を心配して。

 その呼びかけに、今までアンジェリークは一切気付かなかった。

 オスカーに父を見ていたアンジェリークには気付くことが出来なかった。だが、今やっと…気付くことが出来た。

 オスカーに父の姿を重ねることにより、真実のオスカーの姿も父の姿も、双方とも見失っていた。

 その事実が分かったから”父”の呼びかけを聞くことが出来るようになった。今やっと父は父。オスカーはオスカーと肌で直接感じ取ることが出来る。


 違う。

 こんなにも違う。

 声の質が。

 声の張りが。

 声の甘やかさが。

「お父さん…今までずっと…気付かなくてごめんなさい。」

 そうっと眠り続ける父の枕元に座り込んで、実際には触れることも出来ないけれど、父の髪を撫でるように手を動かした。

「今までそうやって呼び続けてくれていたのに気付かなくて。」

 何度も何度も。

 本当に触れることが出来たなら、と願う程に。

「ごめんなさい。」

「…んっ…アンジェ……」

「何、お父さん。」

「…………」

 アンジェリークが普通に、自然に答えれば、なんだか安心したとでも言うように父が微笑んだ。少しばかり荒かった呼吸も心なしか落ち着いた気がする。

「お父さん……。」

 布団から出た父の手の上にアンジェリークは自分の手を重ねた。

「大好きだよ、お父さん。」

 ふわり、と。

 金の光が辺りを包み込む。それは未熟ながらも女王のサクリア。安らぎと癒しをもたらす輝き。

「ごめんね、お父さん。もう大丈夫だから。もう間違えたりしないから。」

 だから。

 だから………。



 オスカー様。ごめんなさい……。



 理由が解ってしまった。

 父親と言うもっとも身近に感じられる男性。

 それに重ね合わせて、側にいても良いのだと勝手に思っていたかったのかも知れない。

 声が似てる。

 なんにせよ、それは最初のきっかけ。

 声が似ていたから好きだった。

 だから何時も訪ねた。

 何度も訪ねて。

 何時だってオスカーと一緒に居るのは楽しかった。

 どうして楽しかったのか。

 それをずっと勘違いし続けていた。その方が気楽だったから。苦しくなかったから。

 オスカーを”父”ではなく”異性”として見てしまえば、二度とこんな風な関係には戻れない、それが解っていた。

 そして自分をオスカーがちゃんと”異性”として見てくれるなんて言う自信は一切なかったから。

 甘えていた。

 父と娘と言う関係に。

 オスカーがどう言った風に自分の事を見ているのか何て考えもしなかった。

 オスカーはオスカー。

 父とは違う。

 両親から離れ、生まれ育った場所から離れ、誰も知る人の居ないこの場所に来て。

 唯一心を許せた人。

 その存在のお陰でアンジェリークは慣れない育成や厳しい試験にも堪えることが出来た。

 支えて。

 くれたのは”父”ではなく。


 そう。

 ”オスカー”


「好き………なんだわ。”お父さん”なんかじゃなくて。…大好き……」

 呟いた声は、泣きすぎて掠れていた。それでもその眼差しは真っ直ぐ前を向いていた。

 もう既に呆れられてしまっているかも知れない。

 もう既に嫌われてしまっているかも知れない。

 もう既にどうでも良いと見放されているかも知れない。

 もう既に。

 もう既に……。

 それでも。

 オスカーのあの哀しげな眼差しがずっと脳裏から消えない。

 あの眼差しをこれから毎回会うたびに向けられるくらいなら。それくらいなら、幾らでも今この罪を受け入れる事が出来る。

 だから真実を。

 怖いけれど、告げよう。あの愛しい人、に…。





 ザワザワとした喧噪が一瞬納まり、その次の瞬間、それ以上のざわめきが広がった。店の戸を開けて入ってきた一人の男のせいだった。

 少し古めかしいメロディーのBGMに少し落とされた照明の店。

 オスカー自身滅多にこの様な店に入ることは少ない。女っ気が殆どないからだ。

 実はこの店はなかなかにいい味をした料理に酒に穏やかな雰囲気に、と密かな人気がある。とは言え、オスカーは知らないことだったが。

 女性客は殆ど見かけられない男ばかりの店。普段のオスカーならば決して近づくはずもない。静かに酒を呑みたいけれど、一人で呑みたくもない、そう言う気分には丁度いい店だった。

 軍人上がりのピシッとした立ち姿。歩く姿も凛々しく、だが何処か優雅でもある。その憂いを秘めた氷白の瞳に誰もが息を飲んだ。

 もし女が此処にいたなら大騒ぎになったに違いない。

「マスター済まないが一番強い奴を頼む。」

 通りがよく少し低めの甘やかな声が響く。

 オスカーは少しばかり店内を見回して、何時も自分が遊びに行くようなバーとあまりの違いに唇の端を上げた。

「久しぶりの主星だって言うのに、な。ふっ…。」

 自嘲的な笑みを浮かべて一人席に座る。

 マスターは無言のまま注文通りの強い酒を造り、さっと差し出す。


 静かな…時間が過ぎる。


 こう言う時に女がいないって言うのは助かるな。

 そんなことを思ってオスカーは馬鹿馬鹿しいと唇を歪めた。

 本当なら女の肌の温もりを求めてこの地にやって来たはずなのに、いざ女を前にして、どうしてもその気になれなかった。

 自分にうっとりとした眼差しを向けて、媚びを売ってくる女が逆に癪に障る程だった。その女の背後にあの時のアンジェリークの姿が見えるのだから尚更だった。

 今、オスカーが求める女は只一人だ。

 だから他の女になんて目が向くはずもない。

「アンジェ…リーク……」

 キシッと胸が痛んだ。

「とんだ道化師(ピエロ)だったな。」

 歪んだ笑みを浮かべたまま酒をあおる。

 まだこの店に来てそれ程経っていないと言うのに既に5杯目だった。

「マスター。」

 無言で次を頼むオスカーを少し心配げに見つめる。

「……酔えないんだ……頼む………。」

 弱々しく聞こえるその台詞にマスターは痛々しげに目を細めた。

 威風堂々と言う言葉が似合う目の前の男には相応しくない、そう思った。何があったのかは解らないし、この初めての客について知っている事等何一つないけれど、こんなのは彼らしくない、と。

「無理に酔う必要はありませんよ。」

 そう告げるマスターをオスカーはジッと見つめた。

「こちらをどうぞ。」

 そのオスカーの眼差しに堪えきれないとばかりに差し出されたそれはかなりアルコール度数の低いものだった。ただ、匂いがかなりキツイ。だから度数が低いとは余り思えないようなそんな酒だった。

 オスカーは無言でそれを呑んだ。

 マスターの心遣いをのんだ。

「苦いな。」

 それは酒の味だったのかどうか。

「そうですね。人それぞれですよ。」

 マスターの的を射ない返答が。

 妙に心に染みた。

「ああ、そうなんだろうな。」

 そう言ってオスカーはその新しい酒を飲み続けた。ゆっくりと。少しずつ。

「勘違いだったんだ。」

「……」

「俺の独りよがりって奴だ。」

「……」

「まさかこの俺が、とはな。」

「……」

 マスターは何も答えない。オスカーが返事を求めているとは思っていないから黙っている。

「そう、最初から俺なんて見ちゃ居なかったんだ。」

 呟いてオスカーは黙り込んだ。

 店内の喧噪だけが聞こえる。

 俯いて下を向いたオスカーの顔は見えない。だが、マスターは見ようとも思わなかった。

『男にだって泣きたい時も、弱音を吐きたい時も、寂しい時も色々あるんですよ。それで良いじゃないですか』

 ただ、心の中でそう告げた。




 あの瞬間。

 思わずキスをしてしまったあの瞬間。

 アンジェリークの眼差しが変わった。

 見知らぬ人間を見る眼差しに。知らない男を見る目にだ。

 見知らぬ男である自分の後ろに一生懸命他の誰かの影を探して彷徨う瞳。

 改めて知らない人間を見つめる絶望に染まった瞳。

 ならば今までアンジェリークは何を見ていた?

 俺は何だったんだ??

 瞬間に、しくじったと思うよりも先に解ってしまった。

 アンジェリークが自分に誰かを投影していたのだと言うことに。

 自分は誰かの身代わりに過ぎなかったのだと言うことに。

 そう気付けば彼女の不思議な印象やら行動が理解できた。

 一番最初の驚いた顔。そして安心したかのような顔。

 時折自分の発言に対する不思議そうな顔も。

 他の誰にも向けない輝くような笑顔も。

 目を閉じているのも。

 自分の知らない、誰かに向けてだったのだから当然の事だ。

 それを全部自分への恋心と勘違いしていたなんて、余りにも馬鹿馬鹿しすぎて自分ですら呆れ果てる。そして胸の内を焼き尽くす様な勢いで燃えさかる嫉妬の炎が鎮まらない。

 真実を見抜くことが出来ない程。

 彼女に恋をしていた、なんて。




「情けないな。」

「そんなことはありませんよ。誰もがみんなそうです。」

 何も知らないはずのマスターが答える。

「千里眼だな、マスター。」

 クツクツクツと笑った。

「この酒、実は度数低いんだろ。」

「………お客さんこそ鋭いですね。」

 穏やかな店だった。

 良い店だ、そうオスカーは思った。

 又来たいと思えた。次に来たときにこの場所に店があることを願いながら席を立つ。

「有り難う、マスター。」

 不思議と酔えた気分になった。

 夜風に当たりたい、とそう思えた。

 店を出て飛空都市に戻る。

 あの場所へ。

 彼女の居る、あの場所へ。

 そこ以外に帰るべき場所等ないのだから………。





 金の光が遥かなる世界中へと広がっていく。

 一望の下に見下ろすことの出来る下界の夜明けの様をジッとオスカーは見つめた。

 暗かったはずの地表に光が走る。その境界線の行進は鮮やかな美しさで目を惹き付けて止まない。飛空都市から眺めるこの眺望がオスカーは大好きだった。


 遠い過去。

 草原の惑星を出てくる時に見た光景を彷彿とさせる。

 初めてみた宇宙船からの自分の惑星。美しき翠の星。そして丁度頃良く、生まれたての朝を示す光の線が走る様を見つめながら別れを告げた。

「美しいな。」

 かつて思ったのと同じ事を呟きながらアグネシカの鬣を撫でた。

 遥かなる下界。

 そして無限とも思える広がりを見せる空。

 夕焼けとはまた違った美しい微妙な色彩の未明の空。深い藍色のそれは徐々に朝日によって新しい空へと生まれ変わっていく。

 青くもなく。

 黒くもなく。

 赤くもなく。

 何と表現したものか。

 言葉もなくオスカーはただただその明け行く空を見つめ続けた。

 目を焼く程眩しいのに、優しい金の光。

 愛しく。

 目を細め。

「アンジェリーク……。」

 満たされたかのような想いを胸に愛しい名を呼んだ。



 確かに道化師だった。だが、このままで終わるつもりは更々なかった。

 あの出来事はスタートラインの確認に過ぎない。

 そう、今までのは偽りのもの。ならばこれから真実の関係を築き上げていけばいい。

 逃げるつもりはない。

 逃げようとも思わない。

 逃がさない、とは思うけれど。



 ヒラリと青いマントが美しい曲線を描いて空を切った。

 馬上の人となったオスカーはすっかり明るくなった朝の空に背を向けた。





 そして屋敷の門の前に佇む少女の姿を見つけてオスカーは目を奪われた。

 朝の生まれたての光の中で、金の光を弾いているその天使の美しさに。尊さに。愛しさに。

「オスカー様!!」

 嬉しそうに名前を呼ばれて我に返った。そして彼女の存在にやっと驚きを感じることが出来た。

 どうしてこんな朝早くからアンジェリークが此処にいるのか。一体何時から居るのか。

 混乱してしまう。

「アンジェリーク?!何でこんな所に居るんだっ?!」

 慌てているが故に少し咎めるような声音になってしまう。

 だが、そんなことを気にする余裕なんてない。パッと馬から下りると、自分のマントで彼女の体を包み込んだ。

 微かに感じ取れるその身に纏っている気配が冷たく、長時間此処にこうしていたのだろうと察せられた。

 と言うことは、彼女はずっと此処にいたと言うことだ。

 今が早朝。ならば昨日の夜から……?

「こんなに冷え切ってしまっているじゃないか。風邪を引いてしまう。」

 腕の中に抱き寄せてその体を包み込む。自分のもつ熱、その全てを捧げても構わなかった。

「あの……オスカー様に…言わなくちゃいけないことがあって。」

「わざわざ来てくれたのか?嬉しいがもっと体の事を考えた方がいい。それに一人でこんな所に来るなんて危険だ。」

 それでも愛しくて腕の中の少女を手放せない。

 すぐにも屋敷の中に連れて行くべき、と分かっているのに……。

「でも、オスカー様に。」

 見上げてくる翠の瞳が朝日に煌めく。小さき翠の瞳に光の”境界線”が走り、それは懐かしい草原の惑星。故郷そのものがそこにある。

「好きです、って言いたかったんです。」

 愛しいもの全てを。未来そのものを。幸せそのものを。オスカーに必要なもの全てをその小さな手に抱えた金の天使が舞い降りる。

「もう目を閉じても間違ったりしない。オスカー様が好きなんです。」

 恥ずかしそうに頬を染め、でも真っ直ぐに見つめてくる眼差し。

 それは今までと同じで、同じではない。

 確かに、”オスカー”を見つめる瞳。

「アンジェ…リーク……っっ!!」

 金の天使を二度と離さないとばかりにオスカーはギュッと抱きしめる腕に力を込めた。

 アンジェリークはやはりこの”呼び声”はオスカー様のものだ、と愛しさにギュッと逞しいオスカーの背に手を回した。





 飛空都市に朝が来る。

 新しい一日が始まる。


 アンジェリークの話を聞いてオスカーは複雑な笑みを浮かべた。


「父親…か。」

 余りにも敵にするには分の悪い相手だ。そんな相手と比べられていたとは。

 知らなくて良かった、と今更ながらに思ってしまう。

 それに好きな異性から”父”として見られていたこと程衝撃的なことはない。特にオスカーのような”雄”としてのオーラが強い人間にとっては余計に、だ。

 それでも。

「だが、もう……違うんだろう?」

「はい。何であんなに似ているなんて思ったんだろう、って今なら思える程ちゃんと違う声に聞こえます。二度と間違えませんっ!」

 ハッキリと力強く頷いたアンジェリークにオスカーはその目を細めて微笑んだ。

「なら、いいさ。」

「……その。………許してくれるんですか?」

「赦すも赦さないもないだろう?それを言えば、ついさっき俺も君に赦して貰ったばかりだ。」

 それはアンジェリークについキスしてしまったことについてだった。

『ただ、不真面目な気持ちなんかじゃない。それだけを言いたかった……』

 あの居留守をされた時飲み込んだ言葉を告げたオスカーにアンジェリークは頷いた。

 これ程までに真剣な眼差しを他に知らなかったから。これが嘘であればもう何一つとして信じられるものはない、とそう思った。

 フェミニストでもあり結構自分の行動を悔やんでいたオスカーとは裏腹に、それをアンジェリークの方は余り気にしては居なかった。それをきっかけにして真実を見つける事が出来たからだ。何よりもオスカーからのキスに嫌悪感が無かったから。最初からオスカーの事が好きだったから。

 そうしてアンジェリークは相手の罪よりも自分の罪ばかりを重く感じているようで。

 そんなアンジェリークにオスカーは小さく笑みを浮かべた。

「でも……」

「ふっ…じゃぁ二つ程、俺の願いを聞いてくれるか?」

「はい!」

「一つは……。」

 オスカーはアンジェリークの頬をその大きな手で包み込んだ。

「二度と俺以外の奴の前で目を閉じた、あんな無防備な顔はしないでくれ。」

「え?」

 何のことか咄嗟に分からなくてキョトンとしたアンジェリークにオスカーは苦笑を浮かべた。

「男の前で目を閉じたら駄目だって教えただろう?」

 そう、耳元に低く扇情的な声で囁かれてアンジェリークは顔を真っ赤に染めた。

 すぐ側にアイスブルーの瞳がある。

 この間と同じ。

 でも、あの時よりもずっとずっと甘い眼差し。艶やかで、体の奥底から震えの来るような…。

 視線を逸らせないのもあの時と同じ。

「オス、カー様……。」

 小さく呟いて。

 徐々に近づいてくるオスカーの顔に自然と目蓋が閉じる。

「二つ目は……。」

 ―――もう一度キスを……。


 触れあった唇から直接伝える。

 言葉なんかではなく。




 愛している。

 愛して欲しい。


 ずっと、永久に。




 そして答えも又言葉なんかではなく………。





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