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『在りし日』


 緩やかな風が吹く。常春の聖地の優しい風。そよ風が木々の葉を揺らめかせ、木漏れ日がゆらゆらと揺れる。零れ落ちる光を受けて煌めく金色の髪が視界の端で眩しかった。

「オスカー様、あの…ね。」

 共に湖に来ていたアンジェリークだ。

 もうそろそろ試験終了の兆候を見せ始めた最近では二人一緒に居ることが多かった。馬に乗って遠乗りしたり、主星に降りてみたり。そして今日は二人言葉少なに陽に煌めく湖面の風景を眺めていた。

 言葉を飲み込んだアンジェリークにオスカーは視線を向けた。

 俯く少女の頬は微かにバラ色に染まっている。その上に金の髪が柔らかく零れ落ちている。そうっとその髪を指先にとって、その柔らかさを堪能する。

「どうした、お嬢ちゃん…」

「私…オスカー様の事が好き、なんです。それ…で……」

 クッと覚悟を決めたのか、真っ直ぐで強い光を宿した翡翠色の瞳が見上げてきたかと思うと、そう告げられた。あまりの唐突さに、ビクリ、とオスカーの体が揺れた。避けようもない程の直球だった。

「あ、あのっ…ご、ごめんなさいっっ!」

 表情もなく固まったオスカーにアンジェリークは泣きそうな顔をして俯くとパッと立ち上がろうとした。その腰を浮かせたような中途半端な時、グイッと腰を引き寄せられて地面に、正確にはオスカーの胸の中へと倒れ込んだ。

「きゃっ!」

「……本気か?」

「え?」

 オスカーの腕の中に抱きしめられて、包み込まれる広い胸の感触にアンジェリークはドキドキと心臓をならしながらオスカーの思いの外真剣な声にその氷青の瞳を見つめた。怖くなる程真っ直ぐな瞳にクラクラする。

 綺麗。

 こんな時にそう思った。

「お嬢ちゃん、答えてくれ。本気なのか?」

「はい。」

 再び問われて我に返ったアンジェリークはか細い声で答えながらもしっかりと頷いた。

 一緒に居たかった。もう少しすれば試験は終わってしまう。現在ロザリアとの成績はほぼ同一線。僅かにロザリアが上…と言うところだろうか。もし、女王になれなければ自分は補佐官になるだろうと思っていた。それはアンジェリーク一人の考えではなく、ロザリアと二人で語り合った事だった。どちらが女王になろうとも、必ず片方は補佐官として一緒に頑張っていこうと。だから、このまま何も告げないまま、それでも良いかと思った。でももしかしたら自分が女王になるかも知れない。その可能性は残っている。ロザリアとアンジェリークは一進一退の攻防をしているのだから。だからけじめを付けたかった。

 自分なんてオスカーから見れば子供で、守備範囲外で、もしかしたら全然相手にされていなくて、妹とかそう言う風にしか見られていないかも知れない。それでも今一緒にいる、この心満ち足りた感覚を信じたかった。二人一緒にいれば言葉がなくてもお互いの熱を感じるだけで涙が出そうになる程の幸福感に包まれる、それは自分だけではないと信じたかった。

 だからこそ、ハッキリとした言葉が欲しかったのかも知れない。

 オスカーは腕の中にすっぽりと収まってしまうアンジェリークを優しく抱きしめながら、そうっとその髪に口づけを落とした。その瞳を切なげに揺らした。アンジェリークの顎を取り、持ち上げると、額に目蓋に耳元に頬にキスの雨を降らせる。優しい優しいもどかしくなる程の優しいキスにアンジェリークが身を捩る。最後に唇に触れた後、じっと見つめる。

「アンジェリーク。俺も君のことが好きだ。だが…」

 一度言葉を切ってオスカーは苦いものを吐き出すかのように低い声で。掠れた声で。告げた。

「君の想いを受け入れることは出来ない。」

「……どう…し、て……」

 オスカーに好きだと言われて、その表情を天使の名に恥じない程に輝かせていたアンジェリークは直後その瞳を潤ませてじっとオスカーを見つめた。

 オスカーは金の髪を骨張った大きな指で梳きながら、その感触を楽しむ。柔らかく指の間をすり抜けていく優しい感触。きっともう触れることも叶わなくなるその髪に。愛しげな眼差しを落としながら何度も撫でる。

 そんなオスカーを見つめながらアンジェリークは「どうして」と納得出来ないでいた。それでも。そんなオスカーの眼差しを見れば自分の事を想っていてくれていると言うのは信じられて。溢れる程の想いを感じ取ることが出来るから。素直に「好きだ」と言われた事を幸福だと思うことが出来ると思った。

「君は…恐らく女王になるだろう……」

「え?」

「…感…って奴だな…」

「………」

 自分はその直感という余りにもあやふやで不確かなものの為に振られたんだろうか?と気付いてアンジェリークは笑った。哀しいし、寂しいし、悔しいし、もどかしいし、情けない気がする。色々な感情がごっちゃまぜになって。でも、それでもオスカーを好きだと言う自分の想いだけは消えることがない。その混乱した中でもどっしりと微塵たりとも揺るがずに存在するその感情。想い。

 ああ、やっぱり大好き。

 その氷青の瞳を見つめながらアンジェリークは思った。

「それでも私はオスカー様が好きです。それだけは…きっと何があっても変わらない。」

「アンジェリーク……」

 苦しげに表情を歪めるオスカーに、アンジェリークはいつものみんなを魅了して止まない笑顔を浮かべて見せた。

 オスカーはギシリと食いしばる歯に力を込めた。そうでもしないと叫びだしてしまいそうだった。好きだ、と。愛している、と。何を棄ててでも君を愛しているのだと。何もかもを放り投げて求めてしまいそうになる。

 そんな愛しくて溜まらなくなるような笑顔を向けて貰うような資格は自分にはないというのに。

 それでも彼女は赦してくれると言うのだろうか。

 オスカーにはアンジェリークの未来が見えた。それは試験を始めてそれ程経っていない頃から感じていたことだった。

 知識だ。知恵だ。臨機応変な対応だ。そう言った能力を求めるのなら恐らく、いや、真実ロザリアの方が勝っていただろう。だが、女王としての資質とそれは別問題だ。そんなものは女王を補佐する補佐官他守護生である自分達の役割でもある。女王とは宇宙の全てに愛を捧げる存在。慈しみ、癒し、愛し、包み込む強く優しい心。ロザリアとて同じように心優しく強い少女ではあるが、やはりアンジェリークの様に、何故か側にいるだけで周囲の人々に満ち足りた感情を喚起させうる存在ではない。

 長い間一人の女性に真実の愛を感じることが出来ず、守護聖と言う立場から永い永い時間を孤独に過ごしてきた。何処かカラカラと乾いた心にヒビが入り、刹那的な快楽で慰撫していたオスカーを救ったのは彼女のその何とも言えない笑顔や言動、ひいては女王としての資質だったろう。だからこそ愛した。だからこそ真実魂の奥底から束縛された。囚われた。

 誰よりも欲しい存在。

 何よりも手に入れたい存在。

 でも、その存在がどういう癒しをもたらすか解っているからこそ独占したくても出来ない。

 喩え恋人として存在することが出来なくても、二人共に時間を過ごすことは出来る。女王と守護聖として。それは酷く胸を掻きむしるような苦痛をもたらす関係ではあるけれど。側にいることが出来る。それだけでもきっと自分は救われる。今までのように。触れることなく側にいるだけで、語り合うだけで、それだけで満たされた心。それはきっと変わらないだろう。

 これ以上踏み込むことは出来ないけれど。だったら最初から想いを告げたりするな、と弾劾されても当然だと思うけれど。想いを告げてくれたアンジェリークに自分もまた答えたかった。告げることを赦してくれたアンジェリークを真実愛おしいと思った。

 今だけはその想いの全てを素直に出しても赦されるだろう、と考えていた。コレが最初で最後なら。

 眼差しに愛しさ全部をのせて。

 じっとアンジェリークを見つめ返す。

「私の事を好きだ、って言って下さいました。だから。」

「………」

 だから、何だというのだろうか。

「私も好きです。」

 オスカーは目を見開いた。

 この愛しく、不思議な強さをもつ少女に、真実心を囚われたのはこの時だったかも知れない。透明な笑みで、強がりや何かではなく自然体で。理不尽だと普通なら詰るだろう事を彼女の柔軟な魂はいとも容易く受け入れる。

 つくづくこの少女には勝てない、そう思わされる。苦笑するしかない。この純真無垢なる存在の前では。そして彼女ほど女王に相応しい存在はいないんじゃないかと痛感させられる。そうして自分に見る目がある、と誇らしく思え、逆に愛しているからこそそうであって欲しくなかった、と言う矛盾した思いもあった。

 赦されるだろうか。一度だけ触れることを。

 赦して貰えるだろうか。

 いや、赦してくれるだろう。この金の天使は。

「アンジェリーク…喩え君の想いを受け入れることが出来なかったとしても、俺の心は永遠に君だけのものだ。一生…愛し続ける。女王陛下への忠誠とは別に、俺自身の全てを。捧げよう……」

 すべらかで白い頬に触れて、そっと顔を近づける。

 応えるように、少しばかり伏せられた金の睫がけぶるような影を作り出す。この無防備な表情は自分だけのものだ、そう思えて心の底から震えのような感覚を味わった。

 吐息が触れて。絡まる。

 一度触れて離れた唇を、今度は貪るように激しく口づける。

 全ての想いを込めて。

 二度とないだろう、この時を魂に刻み込むためにも。

 愛している…愛している……

 心の内で何度も繰り返し呟きながら、実際には何も言葉にする事は出来なかった。赦しを……請うことすら出来なかった。

 アンジェリークによって簡単に赦されることが解っていたから。

 少女はオスカーの激しい想いを受け止めて、暫しの幸福に酔った。嵐のような感覚にもみくちゃにされながらも哀しくて嬉しかった。

 ただ、自分はやっぱり振られたんだろうか…と言う妙に現実的な考えがチラリとだけ頭を掠めた。それも次の瞬間にはオスカーの激しい嵐に吹き飛ばされてしまったけれど。

 穏やかな陽射しが二人の上に降り注ぐ。恐らくは二度とないこの時間を一層艶やかに彩るかのように。

 それは在りし日の思い出。



@01.12.26/