『側に…』
目を覚ました瀬那は見慣れた天井を見上げてから、己の最後の記憶を探った。
「ああ…」
思い出したそれは眠る前の記憶。
「寝て無くちゃ駄目だってばっ」
「大丈夫…ですよ」
「大丈夫な分けないだろ。熱あるんだからっ」
グイッとベッドに押されて瀬那はフラフラと倒れ込んだ。
「ほら。全然力だって入って無いじゃん」
風邪を引いて寝込んだものの、しっかりと休もうとしない瀬那に翔が眠らなくちゃ駄目だと言って無理矢理ベッドへと押し込み、付きっきりで見張って…いや、看病してくれたのだ。
思わず微笑んでしまう。
ずっと人間界で一人だった。誰かが自分の事を心配してくれるなんてなかった。そんな事が分かっていたから決して寝込むなんて事も無かった。
看病なんて、幼い頃に両親や養父のダナイに熱を出して面倒を見て貰った時以来で、何ともこそばゆく感じられる。
今まで数年もの間、ずっと気を張り詰める様な生活をしてきた。
遊星学園で教師として落ち着いた生活をしていても、完全には気を抜けない日々だった。
それは何処に黒い翼が潜んでいて、守るべき翔と櫂に、ひいてはクリストファーに魔手を伸ばすか分からなかったからだ。
その上、瀬那には過去に背負った罪がある。消してしまいたい過去程消せるはずもなく、それは確かにあった事実として存在する。
黒い翼と。過去に自分が関わってきた闇の世界。
双方に瀬那は気を配らなければならなかったからこそ、常に穏やかな表情の下で隙なく周囲を窺っていたのだ。
だが、黒い翼との戦いが終わり。旅に出て再び日本に戻ってきた。
かつての罪は残ったまま、これは一生涯消える事はないだろうが、危険度で言えば黒い翼の比ではない。人間界に来て一人になって以来の心の重荷は大分軽くなっていた。
そして翔が学園を卒業して共に暮らすようになり、必然的に共に過ごす時間が増えれば増える程、心が温かく癒されていった。
翔の強さに、明るさに、優しさに。
小さな、小さな。
幸福であるが故に、それが失われる事に怯える不安を除いては…。
「まだまだですね」
瀬那は翔の側で心底気を抜いてしまっているのだと気づき、微かな胸の痛みと共に小さく呟いた。
翔の側はなんと暖かいことか。
瀬那が今まで知らなかった世界をこれでもかと言う程に突きつけてくる。
誰よりも愛しく。誰よりも心を許せるただ一人の人。
その翔の側にいると気が緩んでしまう。
だからこそ、今まで寝込んだ事すらなかったと言うのに、翔と暮らし初めて経った数週間で寝込む羽目になってしまった。
恐らくは今までずっと気を張り詰めていた疲労や心労と言った諸々が風邪と言う形で出たのだろう。
こんな事では翔を守る事が出来ないと自分で自分を戒めつつ、瀬那は目を閉じた。
「…翔?」
翔は何処にいるのだろうと思いつつも、まだまだ熱のある瀬那は抗えない深い眠りに落ちていった。
ただの風邪だと医者は診断したものの、瀬那は38度以上の熱を出し、尚かつ解熱の薬を飲んでも殆どさがらなかった。
なのに、大丈夫ですよと何時も通り振る舞おうとする瀬那を怒鳴りつけて翔はベッドへと押し込んだのだ。
瀬那を心配するからこそ涙目で怒る翔に瀬那が逆らえる筈もなく今に至っていた。
カチャ。
扉が静かに開けられた。
「……」
入って来たのは手に水桶とタオルを持った翔だった。
無言で瀬那の顔を覗き込む。
眠ったままだが、前に比べるとずっと穏やかになった瀬那の呼吸に翔はホッと胸をなで下ろした。
つい数時間前まではそれは苦しそうな呼吸を繰り返す瀬那を見て居ることしかできない自分が歯痒かったからだ。
もしこれが逆の立場だったら、瀬那は翔に回復魔法を掛けただろう。そして、恐らくそれで治ってしまっただろう。
だが、翔には魔法は使えない。
ただ見て居るだけ。
薬を飲ませて。
冷やしたタオルを頭に乗せて。時折取り替えて。
汗を拭いて。
側にいる。
ただ、それだけ……。
数時間前の何も出来なくて情けなかった気持ちを思いだしてしまった翔はキュッと唇を噛み締めると首を緩やかに振った。
幾ら悩んだからと言ってどうにもならない事でグダグダとしているのは性に合わない。
静かにタオルを冷水に浸し、瀬那の額へと乗せる。
と、瀬那の瞼が微かに震えたと思うと、ゆっくりと開かれた。
そして、透き通る程澄んだ輝きを放つけれど、哀しげで優しくて、翔の大好きな青い青い瞳が現れた。
翔は思わず見惚れて、ジッと瀬那の目が開かれるのを見つめてしまっていた。
「翔…?」
「……」
「…?済みません。あなたに迷惑を掛けてしまいました」
少し惚けていた翔は瀬那の言葉に眉根を寄せた。
「迷惑なんて言うな」
静かな翔の声に瀬那はハッと目を見開くと、戸惑った風に視線を彷徨わせた後、再び翔に言った。
「心配を掛けてしまいましたね。ありがとう」
そう言い直せば翔はにこりと微笑んだ。
「まだ辛い?」
「いえ、大分楽になりました」
これは本音だった。
また翔に怒られたくはないから。翔には本音を隠さなくていいと分かっているから。
「そっか。取り敢えずこれ」
そう言って出された体温計を瀬那は黙って受け取った。
「お腹は?」
「今はいいです」
「そっか…でも、何か食べた方がいいから、その内お粥でも持ってくるよ」
「ありがとう」
開け放たれたドアの外から入り込む僅かな光しかなかった瀬那の部屋に翔が電気をつけた。
パッと明るくなる。
再び枕元に戻ってきた翔が瀬那の額に手をあてた。
体温計で熱を今測っていると言うのに待ちきれないと言わんばかりに。
「んー?」
「翔…すっかり手が冷え切ってしまっていますね。大丈夫ですか?」
冷水にタオルを浸しては交換していたせいで翔の手は冷え切っていた。
「こんなの別になんでもないけど…わかんねぇー」
そう言うと翔は冷え切って瀬那に熱があるのか判断出来なかった手を引っ込めると、瀬那の額に自分の額を合わせた。
「しょ、翔?!」
突然の翔の行動に瀬那は少し体を引いた。
「んー…まだ少しあるかなぁ〜?」
「翔…今熱を測っていますから、こんな事しなくても…」
「そうだけど。…いや?」
「いえ、そう言う訳ではありませんが」
流石に突然の翔の顔のアップに驚いたとは言えない。
一緒に暮らしていて。今更、未体験の少年ではあるまいし、この程度で心臓を高鳴らせているだなんて。
「なんか直接触れてって一番安心するんだ」
「?」
「なんか体温計の数字とか目盛りだけを見ても実感が湧かないと言うか。直接触れれば確実に体温を感じる事が出来るから」
「そう…ですか」
くすくすと瀬那は笑った。
なんだか直感的な翔らしいと思えたから。
「なんで笑うんだよ〜」
少し拗ねた風情の翔に更に愛しさがこみ上げてくる。
「いえ。翔らしいと思いまして」
「どーせ俺は櫂曰く筋肉バカだよっ」
「そんな事はないですよ」
「笑いながら言うな。説得力ゼロっ」
「すみません」
存外元気そうな瀬那に、少しばかりそっぽを向いていた翔は振り返ると少し悲しげに瞳を揺らした。
「良かった…」
「…翔」
少し泣きそうともとれる翔に瀬那は手を伸ばす。触れた頬は暖かくて心まで暖かくなってくる。その反面、冷え切った翔の手が痛々しくて瀬那はそっと翔の手を包み込んだ。
「冷たいですね」
「俺…こんな事くらいしか出来ないし…ただ側にいる事しか…」
瀬那は俯きながらそう言う翔の手を包み込む手に力を込めた。
「熱がなかなか下がらないから……」
「……翔…」
「怖かった、んだ…」
突然大切な人が消える恐怖。
それはきっと一生翔の心に傷として残るのだろう。
翔の手を握りしめ瀬那は囁いた。
「それだけで」
「え?」
瀬那はちゅっと冷え切った翔の手に口づけた。
「っっ!」
突然の瀬那の行動に驚いた翔は咄嗟に手を引こうとしたが、瀬那はしっかりと握りしめ、それを赦さなかった。
「それだけで良いんですよ」
青い目が下から翔を見つめる。
「あなたが側にいるから私はこうしていられる。きっとあなたがいなければ熱を出す事すらなく…私は無理をし続けたでしょう」
「それって…」
どういう意味?と首を傾げた翔に瀬那は微笑んだ。
「翔の側だと安心して、気が抜けてしまう、と言う事ですよ」
「……えっと………甘えてくれてるって事?」
「ええ」
「俺の側でだけ?」
「ええ。翔にしか出来ませんから」
頷けば翔は嬉しそうに頬をうっすらと赤らめた。
「こんな風に看病して貰うなんて十年以上無かった事ですし、嬉しいですよ」
「え゛?!」
「ありがとう、翔」
クスクスクス。
驚く翔に瀬那はやっぱり小さく笑って、礼を言った。
瀬那の言葉に、過去の瀬那の生活を思いやって一瞬切なそうな目をした翔は次の瞬間にはちょっと拗ねた顔をして見せた。
「じゃぁ、十年分看病するか。次は十年後だよね」
なんでもないことのように瀬那がサラリと言うから、わざと戯けた風情で翔もそれに合わせてそんな事を言った。
「おや。以外とケチですね」
「えっ」
「是非これからは毎年冬には寝込む事にしましょう」
「瀬ぇ〜那ぁ〜」
「君にずっと側にいて貰える様に……」
何処か不安や寂しさを内包した瀬那の窺う様な声に、翔は少し目を見開いた後、背を向けた。
「しょ、しょうがないなぁ〜そんなことにならないようにずっと側にいて見張るかっ」
そんな風に嘯いても、また瀬那が寝込めば同じ様に心配してくれるのが分かるから。
そっぽを向きつつも、顔を赤らめてると分かる翔が可愛くて仕方がない。
「ええ、お願いします」
「……でも…」
ピピッ
小さな電子音がして、体温の測定が終わった事を告げた。
「あ。終わった?どう?」
言われて瀬那は一度確認したそれを翔に手渡した。
37度4分。大分さがっている。もうこれなら大丈夫だろう。
瞬間、翔の顔が安堵の表情を浮かべた。
嬉しそうな、泣きそうな不思議な表情。
それを瀬那は見逃さなかった。そして、きっと一生忘れないと思った。自分を心配して、安堵して浮かべてくれたその表情が何よりも愛しいと思えたから。でも、それ以上にもう二度とそんな顔をさせたくないとも思った。
「良かった。これなら明日には熱さがってるよな…えっ?!」
トサリッ
急に手を引かれて瀬那の寝ているベッドに引き寄せられて、翔が気付いた時にはついさっきまで瀬那が眠っていた場所にいた。
「瀬、瀬那?」
上から見下ろされて翔は戸惑いに瞳を揺らした。
そんな目をされたら。
抑えきれなくなるじゃないですか。
内心苦笑を浮かべつつ、瀬那は真っ直ぐ翔を見つめた。
「でも…なんです?」
「え?」
「さっき言いかけた…続き、です…」
「続き…って…あれ、は…」
「あれは?」
瀬那の真っ直ぐな視線に堪えきれないとばかりに視線を逸らしていた翔がチラリと瀬那を見上げた。
「分かってる…癖に…」
「……ええ…でも、あなたの言葉で聞きたいんです」
「〜〜っっっ///」
確信犯な瀬那に翔は頬を赤らめた。
好きだから。
大好きだから。
愛しているから。
側にいて欲しくて。側にいたくて。
心が穏やかになって、幸せで。でも、ドキドキして落ち着かなくて、不安で。
急に煩くなった鼓動を感じながら。
「翔…」
間近で囁く様に促されて。
ゾクリと肌の上を繊細な感覚が走る。
瀬那の眼差しに抗えず、うっとりと。目を閉じつつ翔が告げた言葉は……。
瀬那の唇の中に吸い込まれて消えた……。
「んっ…」
軽く触れるだけのバードキスに、翔が恥ずかしそうに頬を染めて見上げた。
「…もう…あんな想いはさせませんよ」
そう言った瀬那に翔はくしゃりと表情を歪ませた。
「意地悪っ」
小さな呟きと共に翔は瀬那の首に腕を回すと抱きついた。
こんな風に瀬那の事で心配するのが嫌だと思っている翔の気持ちに気付いている癖に。
わざとそれを言わせようとする。
翔に意地悪な事をしているという自覚はあるが、翔の気持ちを何度でも確認したくて。
瀬那は翔を抱きしめつつ苦笑を浮かべた。
「そう…ですね。それでも…」
側にいてくれますか?
その問いかけは翔の唇に封じられて。
「いる。ずっと側に…」
「側に…いますよ」
お互いが側にいるだけで幸せだから。
これからも一緒に……。
@03.12.23>03.12.25/