『一枚目の写真』
部屋の中に入るなり幾つかの段ボール箱が積み上げられていたが、それが小さなものでに三個程度しかない事に瀬那は驚いた。
「翔…荷物はこれだけですか?」
「うん、そうだよ!」
箱の持ち主に声を掛ければあっさりと頷かれてしまった。
今年の春翔は高校を卒業した。
全寮制であった高校を卒業すれば必然的に新しい家が必要になる。それで翔は瀬那の家に一緒に住む事になったのだ。
今日はその引っ越しで翔が瀬那の家に荷物を運んでいたのだが、瀬那が翔の為にと開けておいた一角はがらんとしていて全然荷物がない。
余りにもその少なさに寂しさを感じる程。
孤児院育ちで、竹刀以外は殆ど何も持たずに学園に転校してきた翔だ。
余り寮から運び出す荷物も無かったのかも知れないが、やはり数年間暮らしていて、運び出したものがこれだけというのは―――例え自分自身こそが、ろくな荷物を持っていなかったと言う事実を分かっていても尚―――寂しい気がして瀬那はほんの少し目を細めた。
当の本人は全然気にしていないようでちょっと鼻歌なんて歌いながら箱を開けて、中身を取り出している。
少しの服と。今まで使っていた文具品関係に好きなCD。本(と言ってもコミックの類)。ゲームソフト。そして……。
卒業アルバム。
そこには来栖や紫苑が写っていないものの、櫂や杏里、直人が載っている。大切な仲間で友人で兄弟だ。
そして教師を辞め、旅に出た瀬那の写真もまた載っていなかったけれども、翔にとって大切なものに違いなかった。
「卒業アルバム、ですか?」
「うん。瀬那がこれに載っていないのが本当に残念だよなぁ」
「そうですか?」
大したことでもないように瀬那は苦笑しつつ、翔にコーヒーカップを渡した。
荷解きをしている翔に飲み物をと持ってきたものだった。
翔はコーヒーカップを受け取るとアルバムをぺらぺらとめくった。
クラスで撮った写真。部活で撮った写真。行事事などで撮った写真。
時折懐かしげに翔が目を細めるのを瀬那はただ黙って見守っていた。
「瀬那。覚えてる?ここで一度別れた…」
そう言って翔が指さしたのは寮の写真だった。
櫂や杏里達が空港まで見送りに行けばいい、と勧めてくれるのに首を振って翔は学園の寮から瀬那を見送ったのだ。
「ええ、覚えていますよ」
瀬那は頷いた。
自分が旅に出ると言って出掛けていった時、今にも泣きそうな目でジッと唇を噛み締めながらも見送ってくれた翔の姿が今でも目に焼き付いている。
本当は置いて行きたく等無かった。出来る事なら連れて行きたかった。奪いたかった。
「あの時は出ていく瀬那を見送った。そして、瀬那を待ってた。でも、もう俺も…“ここ”を出てきたんだよな」
「…寂しい、ですか?」
ほんの少しの不安と共に聞いた。
今瀬那と共にいる事に後悔があるのではないかと。
「ちょっと寂しいけど…。あの時は一人あの場所に残って瀬那を見送らなくちゃいけなかったけど今は違う。見送る事ないだろ。同じ場所にいるんだから。そっちの方が俺は嬉しいな」
サラリと翔は瀬那の不安をうち消す言葉をくれるから。
「そうですか」
笑みと共にそれだけ答えた。
「ねぇ、瀬那。瀬那はアルバム持ってないの?」
「え?私の…ですか?」
「うん」
急に話が自分へと向けられて瀬那は戸惑った。
「私は…持っていないんですよ。全部捨ててしまいましたから」
「そうなの?」
「ええ」
「学校の卒業アルバムとかも?」
「……」
無言のまま苦笑すれば翔はそっかと寂しげに笑った。
瀬那は自分の過去を消したいと思っていた。色々な事をしてきた。良い事ばかりじゃない。翔にはきっと一生言えないままだろうと思う。
だけど。
「翔」
「何?」
「一枚だけですが、写真を持っていますよ。今まで機会がなかったので見せる事がありませんでしたが…ちょっと待っていてください」
そう言うと瀬那は自分の机の引き出しから一枚の写真を持って戻ってきた。
「はい。どうぞ…」
そう言って翔に手渡したのは古い写真。ボロボロになってすり切れて。でも、大切に扱われてきたのだろう一枚の写真。
「これってもしかして?」
翔が少し興奮したように頬を赤らめて瀬那を見上げた。
「ええ、そうです。翔の母親である真理さん、ですよ」
そう言えば、うわっと嬉しそうな表情で翔はその写真を食い入るように見つめた。
それは昔一枚だけ撮った写真。
ロベールが翔と櫂を抱いた真理を撮った写真。そしてその真理と並んで立っている少年が瀬那に違いなかった。
懐かしい記憶が蘇る。
「ほら。瀬那も入れよ」
「いえ。私は…」
「瀬那君〜!早くいらっしゃい!!」
「ほらっ!」
「ですがっ」
「さっさと行く!」
ちょっと命令口調で言われて瀬那は条件反射のように真理の横に移動した。
その後ハッとなった瀬那は少し顔を赤らめて、そんな瀬那にロベールと真理の二人は笑った。
どうやら二人の「ダナイは無理でも瀬那だけでも普通に接して貰いたい教育」は着々と進んでいるようだった。
「行くぞ〜」
カシャッ。
そして、後日瀬那に渡された一枚の写真。
「ほら、これは瀬那の分」
「え?!わ、私に…ですか?」
「そうだ。翔と櫂と真理と。それから瀬那が映っているんだから。みんなで持っていないとな」
そう言ってロベールは笑った。
もう一枚を真理はアルバムに貼っていた。家族のアルバムだ。
そこに瀬那が映っている。なんか申し訳ないような、嬉しいような複雑な気持ちだった。
だが、手にした写真を見て凄く嬉しくなった。
「有り難うございます」
遠い日の記憶だ。
あれから黒い翼の襲撃があり、ロベールも真理も死んでしまった。全て無くしてしまった。あのアルバムも今ではない。
残っているのは瀬那が当時肌身離さず大切に持っていたこの写真一枚だけだ。
「じゃぁ、このちっこいのが俺と櫂、だよな。それで…隣にいるの…瀬那、だろ?」
「ええ」
頷けば、翔が写真に写る幼い瀬那に指先で触れた。
たったそれだけの事なのに、何故かドキリとして瀬那は内心慌てた。
「昔の瀬那…だ…」
「翔」
戸惑いを隠して翔の名を呼ぶ。
急速に胸の内に沸き上がる飢餓感。
見て欲しい。自分を。今の自分を。翔が愛おしげに昔の自分に指を這わす。何故かそれが気に入らない。嬉しいはずなのに、嬉しくない。
今すぐにでも翔を抱きしめて、自分だけを見つめさせて、自分だけを感じさせたくなる。
「昔の俺たちに昔の瀬那だ…凄い…俺…すっげー嬉しいっっ」
そう言って翔の生き生きと輝く緑の瞳が瀬那に向けられた。
強い輝きを放つ真っ直ぐな眼差し。
それを向けられて何処か満たされていく自分を感じる。そして、まだ足りないと、もっともっとと貪欲になる自分を感じる。
「翔…」
苦しさに目を眇めるようにして、溢れそうな思いを堪える。
「瀬那は昔の俺たちの事とか母さんや父さんのこと覚えてるだろうけど、俺全然覚えていないし。母さんや父さんはしょうがないけど、今もいる瀬那のことは…本当は悔しかったんだ」
「翔?」
何の事か分からず瀬那は首を傾げた。
「だって瀬那は俺の昔を知ってる。ずっと見守ってきてくれたから知ってる。でも、俺は瀬那の事何も知らない。だから…写真だけでも昔の瀬那が見れて本当に嬉しかったんだ」
そう言って翔は笑う。
本当は瀬那の過去を聞きたいのだろう。だが、翔は決してそれを瀬那に言ってこない。恐らくは何時か瀬那が自分から言うまでは…と決めているのだろう。
それが分かっていても瀬那には翔に言えない。申し訳ないと思いつつも、言えないのだ。
そして歓喜が押し寄せる。
ちゃんと翔は今の自分を見てくれているから。
「見せてくれて、ありがとう」
「いえ、そんな…」
何と答えて良いのか分からなくて瀬那は言葉を詰まらせた。
そんな瀬那を分かっているのかいないのか、翔は唐突に立ち上がった。
「ねぇ、この写真って誰が撮ったの?」
「ロベール殿下ですが」
「やっぱりなぁ…」
「何故です?」
話ながら翔は部屋を出ていこうとするから瀬那は後を付いていった。
「だって母さんは嬉しそうだけど、瀬那ったらちょっと緊張しているし」
「そうですか?」
「恐縮してるってそんな感じ?」
「……」
クスクスクスと楽しそうに微笑む翔は、まるであの時瀬那の様子に笑ったロベールと真理にそっくりで。
懐かしい感覚が蘇る。
「所で翔は何処に行くつもりなんです?」
「んー?買い物♪」
「買い物?」
ハイっと写真を手渡されて瀬那は戸惑った。
「だってそれ大切な写真だろ。俺たち『みんな』の。だから、アルバム買ってこようよ」
にっこりと翔は瀬那に笑いかけた。
「これから俺は瀬那と一緒なんだし。アルバム…買ってこよう?」
そう言って翔が瀬那に手を差しのばすから。
「ええ、買いに行きましょうか」
微笑み返した。
あの時真理が作っていたアルバムは無くなってしまった。ロベールと真理の家族のアルバム。
だが、今新しいアルバムを作っていこう。
翔と瀬那の新しい生活が始まるのだから。
それはどんな形であれ、家族に違いない。翔と瀬那の家族のアルバムだ。
「ついでにカメラも買いますか?私は持っていないので」
「え?カメラ無いの?じゃぁー電気屋さんも行かないとなっ!」
そう言って翔は玄関の扉を開けた。
扉の隙間から外の光が射し込んでくる。
きっと何時までも翔は瀬那の前で、ああやって新たな扉を開け続ける。
そして新しい世界を何度でも見せてくれるのだろう。
そのしなやかな強さで。
そうして、一緒に生き、思い出を重ねていこう。
きっと今度はアルバムが無くなる事はないだろうから。何冊にも増えていくだろうから。
そして、翔の荷物も、瀬那の荷物ももっと増えるに違いないから。
二人で色んなものを増やしていこう。
「荷物の整理が遅くなってしまいますね」
「んー…ま、量少ないし。大丈夫だって」
「まぁ、寝室は別ですから寝るには困りませんが、ね」
「…なんか企んでる?」
ちょっとビクビクと言った風情で翔が瀬那を見上げてくる。
「そんな事ありませんよ」
「本当に?」
「ええ。翔の事が愛しいと言うだけですから」
「……」
さらっと言えば。
翔は顔を真っ赤にしてやっぱり企んでると小さく呟いた。
深くなる想いに。
抑えなんて効かないから。
だから。
「愛していますよ」
「〜〜〜〜〜もうっ!俺も瀬那が好きだよっ!」
何か覚悟でも決めたのか、自暴自棄に言い放った翔に瀬那は笑った。
明るい陽射しの中へと躍り出た翔を眩しそうに目で追った。
「瀬那っ」
「そんなに慌てなくても」
「善は急げなの!」
早く来いと呼びかける翔に向かって瀬那は一歩踏み出した。
外の陽射しを感じて体がフッと緩んだ気がした。
眩しくて。暖かくて気持ちがいい。
光の世界。翔のいる世界だ。
今はここでいい。だから触れない。今触れてしまえば確実に手放せなくなるから。ベッドに引きずり込んでしまうだろうから。
だから。
せめて、夜までは。
我慢しますから。
ご褒美下さいね。
「瀬〜〜那〜〜!」
「はい、今行きますよ」
苦笑しつつ答えて、瀬那は走り出した。
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