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『今も昔も、これからも』


「翔……」

 眠る翔の髪を瀬那は申し訳なく思いつつ、優しく梳いた。

「んっ…」

 小さく翔が寝返りを打った。

 背中を向けられた事がまるで拒絶されたかの様な気になって瀬那を切なくさせた。

 愛しくて。

 愛しくて。

 ただ、愛しくて。

 瀬那はこんな自分は知らないと思った。

 何時だって感情を抑えて、自分を前に出す事をせずに生きてきた。それが普通だったと言うのに、翔の前ではそれが出来ない。

 こんなにも嫉妬深くて、独占欲の塊で、感情をセーブする事が出来ない。

 一体何が起こったのかと戸惑う程の変化。

 でも、不快な訳ではない。それを翔が受け入れてくれるなら、瀬那にとって不都合な事は何一つ無い。

「翔…あなたですよ…私をこんな風に変えてしまったのは」

 呟きつつ再び翔の髪を梳く。

「ん〜」

 再び翔が寝返りを打って。

 また邪魔をしてしまったのかと瀬那が少しばかり寂しく感じて、手を引いた直後、翔が手をパタパタとさせた。

 黙って見守っていれば、シーツの上を何か探している様だった。

 それが瀬那に触れた瞬間、眠ったままの翔がにこりと嬉しそうに微笑んだ。と、そのまま温もりを求めるかの様に瀬那の方にすり寄ってくる。

「…っ」

 瀬那は咄嗟に横を向いた。

 相手は眠っていて意識がない。でも、意識があろうが無かろうが、愛しいと思う気持ちを止められないし、相手を欲しいと思う欲望も止まらない。

「はぁ〜…翔あなたという人は本当に…」

 全く持って叶わない。

 今は自分を求められている、そう感じて幸せで。でも、感情のぶつける先が無くて焦がれる様に胸が苦しい。

 翔との新しい生活。

 二人きりの生活。

 気持ちが高ぶらないはずがない。

 その上、昼間写真に写る過去の自分にすら嫉妬した瀬那は抑えきれなかった。

 だからこそ、現在翔は正体もなく寝入っていると言うのに。

「まだ…足りない…翔……」

 満たされているはずなのに、飢えを感じる。

 流石にこれ以上翔を求めるのは幾ら剣道で鍛えた翔であっても無理という事くらいは瀬那にも分かっている。

 だからこそ顔を背けた。

 すぐ側にいる翔を出来るだけ意識しない様に。

 温もりだけで十分翔を感じて、そんな事をしても無理だと分かっていたが、そうせずにはいられなかった。

「ふぅ〜」

 溜息が再び瀬那の唇から漏れた。

「んー…瀬那?」

 寝ぼけた声で問い掛けられて瀬那の心臓はドキリと一つ大きな鼓動を打った。

 その声は瀬那のせいで掠れていて何処か濃密な時間を彷彿とさせて扇情的だった。

「翔…起こしてしまいましたか?」

「眠ら……ないの?」

「…いえ、眠りますよ」

 眠りたくても眠れない本音を押し隠して瀬那は微笑んだ。

 すれば、ついと瀬那の腕に絡まっていた翔の手が瀬那に伸びる。

 真っ直ぐに伸ばされるその手を避けるでもなく、瀬那は目を細めた。

「辛いですか?」

 一切手加減なしに求めてしまったが故に瀬那はそう告げた。

「…大丈夫」

 瀬那の言葉に頬を赤らめつつも翔はそう言って、瀬那の頬に触れた。

「ねぇ…瀬那は…過去が気になる?」

「どうしたんです、急に」

 唐突な翔の言葉に瀬那は内心の驚きを押し殺した。

「今日急に気になったんだ。でも…俺…今の瀬那が一番好きだ」

「翔?」

「両親や瀬那と一緒にいた赤ん坊の頃。あの頃に戻ってもう一度、今度こそ幸せに時を過ごしたいって思うけど」

 過去とはそう言う事か、と瀬那は胸をなで下ろした。

 誰よりも過去を消したいと思っている瀬那は一番”過去を気にしている”と言えた。翔が知りたいと思っても答えられない程に。だから瞬間焦ったのだ。

「もう一度あの頃へ…」

 瀬那は目を細めて遠い記憶を思い起こす。

 真理がいて、ロベールがいて、翔がいて櫂がいた。

 何も辛い事も苦しい事も知らなかった、一番純粋であったあの頃。

 懐かしいと思う。

 思うが…。

「あの頃へ戻りたいとは思わない」

 翔の言葉に瀬那は目を翔へ向けた。

「父さんや母さんと一緒に生きてきたかったと思う。でも…”今”がいい。側に瀬那がいる”今”が……」

「やり直したとしても、きっと私は翔の側にいますよ」

 フルフルと翔は首を振った。

「側にいるだけじゃ嫌だ。そうじゃなくて…恋人の瀬那がいい…」

「翔…」

「父さんや母さんと引き替えにしても…”今の瀬那”がいい……」

「しょ、う……」

「父さん達怒るかな…」

 哀しげに微笑む翔を瀬那は抑えきれない喜びと愛しさにギュッと抱きしめた。

「そんな事はありませんよ」

「兄としての。護衛としての。教師としての。色々な瀬那がいるけど、恋人の瀬那が一番だから」

 翔の手が瀬那の背中に回されて。

「今日写真で昔の瀬那を見て。瀬那の昔を知りたいと思った。他の誰かが知っている瀬那を俺も知りたいって。瀬那の全部を知りたいって。でも…でも、それ以上に瀬那の”今”が欲しかった。これからが欲しかった。過去なんて知らなくても良い。”今”が手にはいるなら。別に知っても知らなくても今の瀬那は瀬那だし、瀬那が変わる訳じゃなかったから。でも……今の瀬那を形作った過去は気になった」

 訥々と語る翔を抱きしめながら瀬那は髪に、目に、頬にとキスをした。

「今の瀬那が好きだから。今の瀬那を形作ったもの全てを否定したくない」

 そして、ごめんなさい、と小さく謝る翔に瀬那は首を傾げた。

「何故謝るんです?必要ないでしょう?」

「だって…瀬那はあの頃に戻れるなら戻りたい……でしょ?」

 翔が消したくないと思っている今までの過去を消してしまいたいんでしょう?

 そう言う翔に瀬那は首を静かに振った。

「翔が私の全てを受け入れてくれるなら、どっちでも良い事です」

「瀬那?」

「私も翔と同じで戻りたい訳ではないんですよ。今の君がいる。それが全てです。やり直したならば、翔とは今とは違う別の関係になっているかも知れない。翔の言う様に私も”恋人としての翔”がいる”今”が一番なんです」

 翔にすら言えない過去が沢山ある。

 きっと一生言えないままだろう。

 過去が消えるなら嬉しい事に違いない。

 『過去を気にしている』

 翔の考えている事はあたっている。

 でも、翔がそう言ってくれるなら、本当に過去など些細な事だ。

 いっそ、翔がそれらを積み重ねた今の自分をこそ大切だと言ってくれるならば。どれ程辛い過去であろうと、記憶であろうと、今の自分へと導いてくれたそれらに感謝したいとすら思える。

 胸が痛くなる。

 嬉しくて。

 切なくて。

 昔の自分も、今の自分も全てひっくるめて愛して貰える。

 胸が熱くなると同時に、愛しさで魂が軋んだ気がした。

 何もかもに感謝したい位だった。

 今の自分へと導いた全てのものに。

 こんな自分は翔には相応しくないと分かっていても、愛しい気持ちは止まらない。そんな瀬那の戸惑いや不安すら吹き飛ばす眩しさで翔は瀬那を包み込んでくれる。

 今の今まで過去に縛られていた瀬那は心が軽くなった気がした。

 きっと翔は瀬那にこうやってこれからも広い大空を教えてくれるのだろう。

「翔…愛していますよ。あなたの過去も現在も」

「俺も瀬那が好きだよ。昔も今も、そしてこれからも」

「翔っ」

「…んっ!」

 堪えきれない様に噛み付く様なキスをした。

「んんっ…は、ん…瀬…那ぁ…」

 口内深く舌を差し入れ、翔のそれを絡め取る。愛しい気持ちそのままに貪る。

 心は満たされた気がしたけれど、飢餓感はより一層強くなった気がした。

 愛しくて。

 これ以上どうしようもないと思う程愛しいのに。

 愛しさはどんどんと増え続けて。

「翔…翔…翔…」

「…瀬……那…」

 キスの合間にお互いの名前を呼び合い。

「愛していますよ」

「俺、も…」

 告げれば深いキスと瀬那の言葉にとろけた様な表情の翔に理性なんて消え失せてしまう。

「まだ…まだです…まだ足りない…」

「瀬、那?」

「まだあなたが足りない…」

「…眠るんじゃ?」

「勿体なくて眠れません」

 嫌ですか?と問い掛ければ翔は恥ずかしそうに頬を染めながらも瀬那に抱きついた。

 そして耳元で囁く。

「俺も…瀬那が足りない……」

「幾らでも…全てあなたのものですから、ご遠慮なく」

「俺だって同じだから。だから、何時もそうやって気にしなくていい」

 常に瀬那は翔の気持ちを優先させてきた。どんな状況であっても翔が願えばそれを叶えようとする。

 それはこんな場面でも同じだった。

 それが翔には少し歯痒かった。

 もっと我が儘に求めてくれていいと翔に言外に言われて、ほんの少し目を見開いた後。

「では、遠慮無く…」

 瀬那は獲物を狙い定めた獣の様な熱い眼差しで翔を見つめた。

 そんな瀬那の眼差しに翔は体が熱くなるのを感じながら、素直に身を委ねた。

 何時だって瀬那が好きだから。

 何をされても。

 何をしていても。

 瀬那は瀬那だから。

「好きだ…」

 瀬那の背を抱きしめて翔は小さく呟いた。

 翔が今の私を見てくれるから。

 何があっても。

 何をしても。

 翔は翔だから。

 過去も現在もなく。

「愛しています」

 そして、これからも……。



@03.12.23>03.12.24/