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『待ち続けた手』


 何時だって私が得ているのは静かなその眼差しだけだった。

 かと言って、突き放されているわけではない。

 彼はそこにいた。

 何時だって私の目の前に立ち、何かあった時は振り返ってじっとこちらを見守ってくれていた。

 ただ。

 彼は私に手を差し伸べたりはしなかった。

 どんなに藻掻き苦しんでも彼は私を助け起こそうとはしなかった。

 それは決して私を見捨てたのでもなく。助ける気がなかったわけでもなく。

 でも、その大きいであろう手を差し伸べられることだけはなかった。

 なんで、と思った。

 彼は大人だ。

 見掛けよりも永い時を生き、私など彼から見ればやっと歩き出した幼子も同じなのだろう。

 どうして良いのかわからず、悩み苦しみ、ふと周囲を見渡せばそこにいた彼の暖かい眼差しに何時だって助けて欲しいと願っていた。

 そんな私をまるで我が儘を言って大人を困らせている頑是無い幼子にする様に、首を振って「一人で立ち上がりなさい」と告げる彼の眼差しが心を苛立たせた。

 所詮私は子供だ、と。

「私に失望しているのだろう?」

「そんなことはありません」

「嘘だ」

「嘘ではありませんよ」

 彼は私の問いかけにいつものように穏やかな微笑みを湛えてそう答えた。

 眼差しはまっすぐで、政務に関わる時の内面を押し殺して相手に読ませない作ったような微笑みとは違っていて、それは温もりが感じられ、信じられるもののように思えた。

 彼のことは信じていた。

 もっとも信頼できる臣下の一人だ。

 それでも、すんなりと彼の言葉を信じることが出来ないのは、自身の不安故だ。

「もし失望したというのなら、私はここにおりませぬ故」

 さらりと言われた言葉になるほどと納得した。

 彼ならば地位や権力に執着することなく、さっさと見限り去っていくだろうと。

 何度も何度も繰り返し。

 些細なことに躓き、すぐに転んで愚かな間違いを繰り返した。

 その度に傷つき、心の中で血を流した。

 どうしたらいい?

 そう眼差しで問いかけた。

 それでも彼は何も答えはしない。

 ぎゅっと握りしめたせいで爪が掌に食い込んだ。

「主上はどのように思われますか?」

 うっすらと血が滲んだ掌を開かせながら彼はそう問うてきた。

 その答えこそをこちらが聞きたいというのに、彼は聞いてくる。

 どうしたいのか、と。どうするのか、と。

 優しい手に傷つき疼く掌を包まれつつ、仕方がなく考えを巡らせた。

 何度も繰り返して、そうして気づいた。

 彼は直接私を助けたりはしなかった。

 だが、私が答えを導き出すためのヒントは何時だってくれていた。

 必要な情報。必要な知識。判断するに有効な考え方。政治の仕組み。社会の仕組み。この世界の理。

 そうして問いかけてくるのだ。

「それで、あなたはどう思われますか?」

 諸処の情報を包括した上で、最終的な判断を求めてくるのだ。

 王として決断せよと。王として生きるに必要な判断を下せと。

 そうしておいて、彼は私が間違った判断を下せば容赦なくそれを指摘してみせた。こうした方が良いのだと私の考えに反駁し、別解への道程を示してみせた。

 そして、是であれば、彼は嬉しそうに微笑んでくれたのだ。

 その瞬間の。

 その微笑みが私は好きだった。



 彼は淡々と側にいて、時には転んだ私を振り返り、起きあがる手助けをするでもなく、黙って見守り続けてくれた。

 かと言って、彼は私を急かしたりはしなかった。

 ゆっくりでいいのだと言わんばかりに微笑み続けていた。

 それは少し悔しくて。

 実は誰よりも私のことを見つめ、見守り、導いてくれているのだと、王としての生き方を教えてくれているのだと気づいてしまえば、申し訳もなくて。

 彼の眼差しがとても優しくて。とても切なげで。とても嬉しそうで。

 その眼差しだけで勇気づけられている自分に気づいてしまった。

「あなたは良き王となられるでしょう」

 彼がそう信じるのならば私にはそれが出来るはずだと思った。

 だから独りで立ち上がり続けることが出来た。

 傷つきながらも立ち上がり、前を見つめ、足を進めた。

 そして、その私の前に何時だって彼は立っていた。

 まるでここまでおいでと呼んでいるかのように、ほんの少し前で優しい眼差しで。

 何時しか追いつきたいと思った。

 差し伸べられることのない救いの手を望むのではなく、何時か彼と同じ位置に立ち、同じ光景を見つめ、同じように並んで歩いていきたいと願った。

 それは酷く自然な事だった。

 永い時を生き。

 傷つき苦しみ藻掻き、それでも尚一人で立ち上がり、生き続けているこの私の血に濡れた道は彼の元に続いているだろう。

 きっと、その背中に触れることが出来るだろう。

 並ぶ……事が出来るだろう。

 その時彼は微笑んでくれるだろうか。

 良くここまで来ましたね、と喜んでくれるだろうか。

 出来の悪い生徒だけれど、頑張っていつかそこへ辿り着くから。

 今では、浩瀚と遠甫が共に並び、同じものを見つめている様に。

「何を見ているんだ?」

「主上…」

 遙か遠く未来を見つめるその先を私も一緒に見つめたい。

「あれでございますよ」

 笑って、そう、教えてくれるだろか。

 決して今彼が見せてくれる事のない政治家としての本音や未来像を共にこの国を背負い立つ者として。

 主従と言う関係。

 対等なようでいて対等ではない。

 だが、それでも。

 お互いがお互いを支え合えるような。

 何かあれば助け合えるような、そんな風になれたらいい。

 彼が私を導く為ではなく、一緒に道を切り開く為に、いつか手を差し伸べてくれる時が来ればいい。

 その時きっと、彼の手に捕まらずに私は立てるだろう。

 そうして、彼と共に戦えるだろう。

 もう、一人ではないのだから。

 二人して同じ壁を見つめ、打ち砕く為に力を合わせる事が出来るのだから。

 今はまだ、彼が切り開いた道を行くことしかできないけれど。

 彼に守られてばかりだけれど。

 いつか。

 私に彼は手を差し伸べてくれるだろう。

 そして、私も彼に手を差し伸べることが出来るだろう。

 最早、見守ってくれるその眼差しだけでは満足できないから。

 早くその時が来ればいい。



 彼は―――待っていてくれるだろうか?



@04.08.03>04.08.21/